これまで、何度となく自己紹介というものをしたことがある。
学生のころはもちろん、現在のように教師という職業に就いてからも。
そして――……教師になってからは、多くの生徒の自己紹介を聞く立場になった。
4月の初め。
ここ、冬瀬女子高等学校に赴任したときも、いつもと変わらぬ自己紹介をした。
生徒たちの前に立って、興味本位の視線を向けられて。
名前と、ひとこと。
ありきたりの、ありふれた自己紹介。
儀礼ということでこなしてきたのだが、これといって何も感じなかったし、考えていなかった。
……まぁ、普通はそうだよな。
たった1度の自己紹介で名前と顔が合致するなんて、そうそうない。
大学1年のクラスで行った自己紹介でも、一度で覚えた人間は本当に数人だし。
具体的なことを言うとか、人と変わったアピールをするとかでないと、なかなか厳しい。
……変わったあだ名とか言ってくれれば、すぐに覚えられるんだけどな。
男子校ならばそういう可能性があるのだが、女子校となるとなかなかそういう奇抜なものが出てくるとも考えられず。
とりあえず一種のありふれた慣習の一環として、俺自身も生徒に何気なく言っていたのだが……。
「それじゃあ、副顧問に就くってのもあるし……まずは簡単に自己紹介してもらえると嬉しいんだけど」
これといって期待するものがそこに何もあるわけではなく、とりあえず少しでも顔を覚えられればと思って生徒たちに声をかけた。
例の、教室で自己紹介を済ませた初日の、化学部の部活。
純也さんが用意してくれた名簿を見ながら告げると、どよめくように生徒たちは声をあげた。
……やっぱり、こう言って騒がしくなるのは男女とか年齢とか関係ないんだな。
なんてことを考えながら教壇に上がったまま、ペンを手にする。
特徴を掴みたいというつもりはないんだが、まぁ、生徒本人に見られるわけじゃないので何かしら判断材料になるようなものを書こうとは思っていた。
髪型とか……って、それはダメか。
男と違って、すぐに変わるからな。
「じゃあ、部長からよろしく」
笑みを見せて声をかけると、ひとりの子が臆することもなくすぐに立ち上がって笑みを見せた。
「3年の皆瀬絵里です。……もう覚えていただけましたよね?」
……皆瀬。
えーと……あぁ。
「うん。2組の生徒さんだよね?」
「ええ。廊下でもごあいさつしましたよね」
育ちのよさそうな笑みを浮かべてから、少しだけいたずらっぽく視線を向けられる。
……なんとなく、気の強そうな印象を受けた。
「趣味は料理ってことにしておいてください」
「了解」
「ウソはよくないな。お前、いつから『趣味』ってほど料理好きになった」
「ちっ」
「……え、田代先生?」
いきなり聞こえた声で振り返ると、準備室のドアにもたれている純也さんが見えた。
盛大なため息をつき、苦笑とともに首を振る。
「ないから。……瀬尋君、あんまり信じないほうがいいよ? ソイツのこと」
「……そうなんですか?」
「うん」
「ちょっと! そういう言い方ないでしょ!?」
「……ホントのことだろ。はい、部長の自己紹介はおしまい。次は、副部長」
純也さんに鋭い視線を向けて椅子に座った彼女は、舌打ちしてから隣に座っていた子をつついた。
……あ。
この子のことは、よく覚えている。
今日、化学の授業連絡で俺のところに来た……瀬那羽織。
ほかの子より少し多く接していたからというのもあったが、その苗字で誰よりも先に覚えた。
『瀬那』
俺が知っているこの苗字の、3人目の人物。
最初は、高校時代からの友人。
次に、高校時代の恩師。
……で、この子。
やっぱり、身近な知り合いと同じ苗字だと覚えやすくて助かる。
この子の場合は、名前はわかるから……あとは顔なんだよな。
ちょっと幼いけど、まぁ、かわいい顔。
……という以外は、これといって特徴があるというほどでもなくて。
まぁ、確かに妹に似てるってのはあるけど。
でも、似てるっていう程度だからな……もっと、具体的な何か……って、まぁ、自己紹介でそんなこと求めても仕方ないんだけど。
「瀬那羽織です。趣味は……料理、かな」
「料理?」
「あ、大丈夫だよ。羽織ちゃんは、確かだから」
先ほどの子と同じ言葉に思わず聞き返すと、純也さんが笑みを浮かべて大きくうなずいた。
……ふぅん。
「先輩、そうなんですかー?」
「まぁ確かに、羽織って料理うまいよねー」
「……そ、そんな……でもないけど」
趣味が料理、と言った途端にほかの子から野次が飛ぶ。
困ったように頬を染めて眉を寄せるが、生徒たちが静かになることはなかった。
……からかわれるタイプ、ね。
思わずそう書き込もうとして、手が止まった。
ほかの子と同じように終わると思っていた、自己紹介。
だが、彼女はさらに、ひとつ付け加えた。
「副部長ですけど……昼間言った通り、ちょっと……化学は苦手です」
困ったように浮かべた笑み。
……隠しごとができないタイプ、か。
直感的に思い浮かぶと同時に、少し興味を惹かれた。
「じゃあ、化学が苦手な副部長さん。1番好きな実験とか、何かある?」
「え?」
どうして化学が苦手な彼女が副部長を務めているのか。
それが少し気になったというのもあるが、面と向かって担当教科を『苦手』と言われたことがなかったので、つい続けていた。
しばらく考え込むように視線を宙にさまよわせてから、思い出したように笑みを見せる。
幼い感じのする彼女が屈託なく笑うと、いかにも女の子という雰囲気を創り出した。
人を疑うことを知らないというか、なんていうか……純粋。そんな感じだ。
「結晶を作る実験ってありますよね? 中学のときだったと思うんですけど……確か、ビーカーに青い液を入れて、糸を垂らしておくっていう……」
身振り手振りで説明され、すぐに思い浮かぶ。
結晶、か。
確かに、そういう雰囲気だな。
純粋なものだけを取り出す。
それが、彼女のイメージにぴったり当てはまった。
「あるね。その実験の、どこがいいの?」
「えっと、なんていうか……こう、ちっちゃい結晶が集まって大きくなっていくじゃないですか。形もすごくきれいだし、色も深い青で……。結晶ができあがるまで見てるのが、楽しいのかもしれないです」
「え、結晶ができるまで……見てたことあるの?」
「ちょっとだけ」
……へぇ。
それはまたすごいな。
この子、絶対A型だ。
結晶ができるまでの時間って言ったら、そんな短いもんじゃない。
ましてや、大きくするとなると数日かかるわけで。
…………ヒマなのか……?
いや、多分、じーっと見てるのが好きとかなんだろうけど。
「……先生?」
「え。……あ、いや、なんでもない。ありがとう。……結晶ね」
思わずいろいろと考え込んでしまい、彼女に声をかけられるまで気付かなかった。
慌てて笑みを見せると、嬉しそうに笑ってから席に着く。
……変わった子かもしれないな。
まじまじと、先ほどの部長と話している姿を見てから、名簿にいくつか書きこむ。
――……と思ったのだが、あまりにもこの印象が強すぎて、結局何も書かなかった。
瀬那羽織。
……不思議な子っていうか、なんていうか……。
面白い子だな。
ある意味で。
なんてことを考えながら次の子を指名すると、部長と同じように、名前、趣味、そしてひとことを続けていった。
そんな不思議な子とプライベートな時間で会った、あのコンパのあと。
彼女に対してどう接すればいいのか。
それがわからなくて、しばらく塞ぎ込むように悩んだこともあった。
……そんなときだ。
部活の自己紹介での、彼女の言葉を思い出したのは。
「…………」
実験室に向かい、大き目のビーカーを手にする。
飽和状態の硫酸銅溶液をビーカーに注ぎながら考えるのは、自己紹介のときの彼女の顔。
好きな実験で、彼女がこれをあげたから……だと思う。
少しは何か掴めるんじゃないか、という気持ちもあったが、ぼーっとしていたいというのもあった。
まだ授業が残っているし、ずっと見ていられるような時間はない。
だが、少しでも……同じことをしてみたかった。
教員用実験台にそれを置き、目の前に座る。
もちろんすぐに反応が起こるような実験ではない。
頬杖をついて眺めていると、いろいろなことが思い浮かぶ。
あのときの、彼女の言葉。
あのときの、彼女の表情。
どれもこれもが身体に染み付いているようで、離れてはくれない。
コンパのあと、アキと羽織ちゃんとを送って家に帰ってから……携帯にメールが入っていたのに気付いた。
それはアキからで、中には羽織ちゃんの名前と携帯番号、そしてメールアドレスが書かれていた。
……まるで、何かを見通しての行動のようで、たまらずソファにもたれたのを思い出す。
あのとき、どうして自分が彼女を連れ出したのだろう。
それは……教師としての教え子に対するものだけなのだろうか。
未成年だから。コンパにいるべきじゃないから。
……本当にそれだけ……?
ならば、なぜ彼女に手を出した?
どうして、キスしそうになった?
ぐるぐると答えの出ない自問が浮かんでは消えることなく頭にこびりつく。
――……そんなとき、だ。
ドアが開いて、張本人が入ってきたのは。
「……先生」
声がかかり、ゆっくりとそちらに振り返る。
……と同時に、彼女と目が合った。
困ったように……というよりは、どうしていいかわからないような、そんな表情。
それはそうだろう。
……昨日の夜、襲われかけたんだしな。
教師としてしか見てなかった男に。
というよりは――……好きな男に、か。
「もうすぐテストだし、今日は自習にするから。……勉強道具持ってくるように伝えて」
「あ、はい」
ふっと彼女から視線を外して告げる言葉。
まさに、業務連絡だ。
それ以外に何を言うでもなく、ただ、それだけ。
しばらく気まずそうにこちらを見ていた彼女が小さく頭を下げて一礼し、ドアに向かう。
――……そのとき。
このまま行かせるのはいけないような、そんな気がした。
だから、咄嗟に彼女を呼んだんだ。
「羽織ちゃん」
「……え……?」
小さく耳に届いた、ノブの音。
そして、戸惑うような……彼女の声。
……だが、名前を呼んでおいても……次の言葉が出てこなかった。
俺は、なんて言えばいい?
『ごめん』とか、『違うんだ』とか……?
何に対して、謝るのか。
何に対して、言葉を告げるのか。
はっきり言って、理由なんて何も浮かんでいなかった。
だけど……何か言わなければいけない気がした。
このまま、彼女を行かせてはいけない気が。
「……ごめん、なんでもない」
だが、結局は何も言えない。
……自分に何ができる?
しばらくの沈黙のあとにそれだけ彼女に告げ、自分は立ち上がって実験室をあとにする。
彼女を見ることなく準備室のドアを開け、後ろ手に閉めて。
……心底、卑怯だと思った。
告白をしてきた彼女に、何も言わない自分自身が。
教師と教え子という立場を破ってまで、気持ちを伝えてくれた彼女に対して……返事をしていないことが。
――……あのときほど、自分が情けないと思ったことはない。
だが、自分に正直になることができたのも、彼女に対しての自分の考えがまとまったのも……もしかすると、あの実験のお陰かもしれない。
改めて、自分を見つめることができたのは、確かだから。
あの日からずっと、放置したままでいた硫酸銅の結晶。
液を取り替えなかったのでそれほど大きくならなかったが、彼女にはちょうどいいかもしれない。
「はい」
「……え?」
いつものように彼女が家にきた、金曜の夜。
リビングで渡したのは、小さなプラスチックの透明な容器。
その中には、あのとき作った青い硫酸銅の結晶が入っている。
「これは?」
蛍光灯に当てながら嬉しそうに俺を見た彼女に、つい意地悪く笑みが漏れた。
「なんの結晶かわかったら、さっきのことは許してあげる」
「……えぇ?」
ネクタイを緩めながら告げると、ものすごく困ったように眉を寄せた。
……そんな顔しなくてもいいだろ。
思わず苦笑を見せてから寝室に向かい、先に着替える。
「なんの結晶ですか?」
「答えを自ら聞くってことは、降参ってことでいい?」
すっかり暗くなった寝室のクロゼットを開けてネクタイをかけながら振り返らずに告げると、案の定小さく呻くのが聞こえた。
「ま、いいけど? 俺は。むしろ、そのほうが好都合っていうか――」
「私が知ってる結晶ですか?」
「当り前だろ。それはよくご存知のはずですよ?」
困ったように手を顎に当てながらベッドに腰かけた彼女が、まじまじと手にある容器を見つめる。
……ホントにわからないのか?
シャツのボタンを外してから隣に腰かけると、相変わらず視線はそのままで彼女が首をかしげた。
「……そんなかわいい仕草したって、ダメなものはダメ」
「だって……わかんない……。けど、見たことあるような……」
「絶対知ってる。ていうか、これ知らないってのは義務教育上問題があるぞ?」
「そうなんですか?」
「そう」
驚いたように俺を見上げた彼女に、それはそれは大きくうなずく。
……って、出ないな。
小さくため息を漏らしてから、彼女にバレないようにこっそり手を腰に回す。
どうやらまだ考え込んでいて気づいていないのか、これはこれは好都合。
口元が上がるのを隠さずに準備を終えてから、ぐいっとそのままベッドに倒すことに成功した。
「わっ!?」
「いやー、残念だな。……それじゃ、いただきます」
「や、ちょ、ちょっと、待って!」
「待てない」
「だって、まだ――」
「どうせ出てこないだろ? 諦めなさい」
「やっ……! せんせ、待っ……!」
「無理」
もぞもぞと動いてなんとか脱出しようとする彼女だが、しっかりと押さえているので無理だろう。
……もう少しすれば諦めるな。
なんてことを考えながら彼女を抱きしめると、困ったように瞳を合わせてきた。
すっかり、暗順応した瞳。
おかげで、いろいろと細かいところまで見ることができる。
「っ! せ、んせっ……!」
「……もともと、こういう約束だったろ? ちゃんと点数取れなかったら、なんでも言うこと聞くって」
「だ、だって……! ていうか、こんな……こんなのって、言うこと聞くうちに入らな――」
「誰だ? 人のテストで平均いかなかったのは」
「……うっ」
「わかってるなら、よし。……いただきます」
「やっ!? ぁ……んっ」
にっと笑みを見せてから、首筋に唇を寄せる。
すると、さすがに抵抗していた彼女も、すんなりと身体から力を抜いた。
……というよりは、アレだな。
力が入らないというほうが、正しい。
……ここ、弱いからな。
滑らかな肌を伝うように舌を這わせると、心地よく伝わってくる。
そのたびに漏れる、甘い声。
うん。とりあえず、夕食前に1度……。
まだ時間も早いし、何よりも明日は休み。
……ゆっくり時間をかけて、貰うことにするか。
彼女へ口づけながらそんなことが浮かび、自然と笑みが漏れた。
――……自己紹介では、珍しく一度きりで覚えた彼女の名前と顔。
そんな彼女が、それから特別な生徒として位置づけされたのは、自分も知らない無意識のうちだった。
自然に目で追うことが多くなり、彼女の笑みを見つけると、自然に顔が緩む。
……不思議な子。
それは、今でも変わらない。
自分がここまで変われたのは、間違いなく彼女のお陰だから。
「…………」
ベッドの棚へ置かれている、硫酸銅の結晶。
彼女と同じく、純でしかないものの集まりで、脆くて……だけど、芯の強い深い色。
少し角度を変えれば、違った表情を見つけることができて。
……いつ、気づくんだろうな。
これが、あのときの硫酸銅の結晶だ、と。
そして……どうして俺が悩んでいたあのときに、この結晶を作ることを思いついたのか、を。
腕の中にある彼女を見ながら、自然に笑みが漏れた。
彼女は、俺にとっての1番の結晶に違いない。
今まで生きてきた中で。
そして、これから生きていく中で。
……なんて言ったらクサすぎると思うから、口に出すことはないだろうけども。
2004/12/26
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