「あけましておめでとうございます」
「ああ、おめでとう」
元旦の朝。
俺は、久しぶりに瀬那家へと顔を出していた。
「羽織、お茶は?」
「あ、欲しい」
「祐恭君もどう?」
「いただきます」
お袋さんにうなずいて笑みを浮かべると、隣に座っていた羽織ちゃんもこちらを見上げて小さく笑った。
テーブルを挟んだ向かいには、当然のごとく……瀬那先生が座っている。
……あー。
なんていうかこう、どうしてこうも緊張するんだろうか。
昔、こうしてこの家へ遊びに来たときとは、まったく違う緊張感。
……そりゃまぁ確かに、昔は昔で緊張したけど。
でも、あのときなんかの比じゃない。
なんせ今は――……彼らにとっての『愛娘の彼氏』として来ているんだから。
「あら、祐恭君いいのよ? 足崩して座って」
「え? あ、はい」
「ははは。そんな堅苦しくする必要ないだろう」
「……すみません」
目の前にお茶を置いてくれたお袋さんに苦笑を浮かべてから足を崩し、改めて座り直す。
とはいえ、やっぱり俺は『娘の彼氏』なワケで。
だからこそ、ぶっちゃけてしまうと少しでもよく見られたいという思いがどこかにある。
彼らが認めてくれているのが唯一の救いではあるが、世間一般から見れば……教師と生徒なんていう認められない間柄で。
……犯罪、と言われても仕方がないから。
「…………」
最初に断ってから茶を含み、小さくため息をつく。
……はー。
元旦早々、なんともいえない緊張感というのは、これはこれでまぁ……気合が入っていいか。
「相変わらず早いな、お前ら」
「……どこ行ってたんだよ、お前」
「いーだろ? 別に。ちょっとそこまで」
背中にかかった気の抜けるような声で振り返ると、葉月ちゃんと一緒に孝之が立っていた。
……ふ。
ついついその組み合わせを見て、口元が緩む。
「あけましておめでとう、葉月ちゃん」
「おめでとうございます。今年もよろしくお願いしますね」
「もちろん。こちらこそ」
にっこり笑うと、どこか羽織ちゃんに似た笑顔でうなずいてくれた。
……が、しかし。
そんな彼女の隣では、やたらめったら嫌そうな顔をしている男がひとり。
まぁ、当然気にもしないが。
先日孝之に言った俺の見解は、当たらずとも遠からずだろうから。
……いや、むしろやっぱり当たってるかもしれない。
孝之が、これだけの反応を見せる子。
そんな子を見たのは、正直彼女が初めて。
「……なんだよ」
「別に?」
眉を寄せた孝之に、小さく笑みが出る。
……お前、こんなに固執するヤツだったんだな。
これまで9年付き合ってきた中で、初めて確信を持てた。
「はい、お父さん」
「ああ、ありがとう」
孝之と葉月ちゃんが揃って席に着いたとき、だ。
ふと、見慣れないものが運ばれてきたのは。
「なんですか? それ」
「トマト割り」
「……は?」
「だから。トマト割りだって。焼酎のトマトジュース割り」
このとき、頬杖を付きながらこちらを見ている孝之が、心底感じ悪い男に見えた。
……なんだよその顔。
いかにも『どうすんの? お前』とか思ってそうで、腹が立つ。
「よかったら、祐恭君もどうかね?」
「え!?」
「ん? ……ああ。そういえば、確か……学生のころはトマトが苦手――」
「っ……いえ、とんでもない! 今は食べられます!」
「ほぉ、それは感心だな」
ふ、とまるで昔を懐かしむかのような顔をした彼に慌てて首を振ると、しばしこちらを見つめてから、にっこりとした笑みを浮かべた。
……マズい。
嘘をついてしまった。
あ、いや。
嘘というわけじゃないんだが、なんていうかこう……み、見栄を張ってしまったというか、彼の手前『食べれません』なんて言えないというか……。
「へぇ。お前、そんなにトマト好きだったんだ」
「……なんだよ」
「べーつにー?」
とてつもなく楽しそうな声をあげた孝之を軽く睨むと、わざとらしく肩をすくめてから、おもむろにキッチンへ身体ごと振り返った。
「葉月ー。トマトジュースとグラス1個」
「なっ……!?」
「あ? なんだよ。そんなに嬉しいか? トマトジュース飲めるのが」
「……くっ……!」
くそったれが……!!
確かにお前の性格がよくないことはわかっていたが、まさかそこまでひどいとは思わなかったぞ正直。
「はい、どうぞ」
「サンキュ」
じとじととした視線を向けながら孝之を睨んでいる間にも、何も知らない葉月ちゃんは、ヤツの目の前へグラスと缶を置いた。
いかにも『トマトしか入ってません』を主張しているデザインの、缶。
それを見るだけでも容易に味と匂いが想像できて、見ているだけでゴチソウサマという感じなんだが。
「…………」
「いやー、知らなかったなー。祐恭がそこまで好きだとはねー」
プシ、と音を立ててタブを起こし、こちらを見ずに孝之がそれぞれグラスに注ぐ。
見るからに真っ赤な液体。
微妙にどろっとしていて、やっぱりこう……。
「……その辺でいいだろ」
「なんで?」
「いや、ホントにいいって」
「遠慮すんな。トマトジュース、たくさんあンから」
「っ……だから!!」
がしっと孝之の手を掴み、力を込めて阻止開始。
これ以上見過ごしてたまるか……!!
「腹減ってないんだよなッ……残念ながら……!」
「っへーぇ? っ……そりゃ、残念ッ……!!」
がちがちと缶がグラスに当たりながらも、互いに目を合わせたまま一歩も引いたりしない。
つーか、孝之は引けよ。
俺がトマトを食えないってことをよく知ってるはずなんだし、何も、彼女の両親にカッコ悪いところをわざわざ見せなくてもいいだろ。
お前はそこまで意地が悪いのか、ちくしょう。
……お前がその気なら、こっちだって容赦しないからな。
今度、葉月ちゃんに思いっきりいろいろ吹き込んでやるから、覚悟しろ。
「……っち。しょーがねぇな」
瞳を細めてそんなことを思っていると、伝わりでもしたのか孝之が折れた。
……だが。
グラスの3分の1をゆうに越え……約半分は入っている状況。
…………コレを飲むのか。俺が。
「…………」
「あー、うま」
まったく躊躇なく缶に口づけた孝之は、普通の顔で普通に味わっているらしく、『やっぱ無農薬完熟トマトは甘いな』とかワケのわからないことを口にしている。
お前、馬鹿なの?
トマトが甘いわけないだろ……!
「…………ぅ」
グラスを近づけた途端、トマト特有のあの匂いがした。
はー……ダメだ、俺。
てか、何もこんなになみなみと入れなくてもいいと思うぞ?
あっという間に飲み切ったらしく、孝之がテーブルに置いた缶はずいぶんと軽い音がした。
これから、俺がこれを飲む――として、数分後の自分を想像した瞬間、ものすごくブルーだ。
……つーか、飲めないだろ。この量は。
舐めるだけでもギブアップ状態なのに、こんな量を飲むなんて無理。
とはいえ、まぁ……飲まざるを得ない状況ではあるんだが。
「そうそう。トマト大好きなお前にいいこと教えてやろうか」
「……なんだよ」
「トマトの学名ってな、『狼の桃』っつーんだぜ」
「狼?」
「『Wolf apple』とも言うな」
「……え? そうなんですか?」
「ああ。でも、『Love apple』のほうが一般的だろうけれど」
「……あー……。そっちは、確かに」
孝之に続いてうなずいた瀬那先生を見ると、それはもううまそうに……しかもごくごく普通の顔で、焼酎のトマト割りを飲んでいた。
……ウマいんだろうか。
だって、あのトマトだぞ? トマトジュース。
緑茶とかコーラならばわかるのに、なんでよりにもよってトマトなんだ……。
「……ま。なんにせよ祐恭にはぴったりだろ?」
「…………」
「トマトにまで好かれるなんて、さすが、トマト好きなだけあるよお前」
「うるさい」
まじまじとグラスを見つめ、ひたすらに策を練る。
……どうしようか。
この量。この赤い液体。
これをなんとかして飲まずに済む方法は――……やっぱりないだろうか。
「…………先生」
つい、と服を引かれてそちらを見ると、それはもうものすごく『心配』という顔をした羽織ちゃんがいた。
……そりゃ、心配だろう。
こんなところで倒れたらどうしよう。
まあ……吐くのもどうかとは思うが。
「……大丈夫」
「でも……!」
「平気だって」
心底心配してくれる彼女に薄い笑みを浮かべて、緩く……ゆるーく首を振る。
……大丈夫じゃない。
とてもじゃないが、無理。
だが……そうは思っても、『やっぱりいいです』なんて言える状況じゃないワケで。
「…………」
ごく。
嫌な汗が背中を流れると同時に、喉が鳴った。
……狼の桃、ね。
そりゃ確かに俺にはぴったりの名前だとは思うが、ぴったりな食べ物だとはこれっぽっちも思えない。
コレが、林檎とか桃みたいに甘ければ、どれだけマシか……。
「……はぁ」
「さっさと飲めよ」
「…………わかってるよ」
頬杖を付いて、それはもう鬼の首を取ったかのごとくニヤニヤしている孝之を睨み、グラス見たままさらに近づける。
……ああもう。
これはいったい、なんの試練なんだ。
せっかく、彼女の両親に何も反対されることなく、無事に今日まで過ごしてきたのに。
彼女とだって、これといってものすごく大変な境遇に陥ったりしなかったのに。
……もしかして、そのせいなのか?
これまで平穏無事にすごしてきたそのツケが、回ってきたってことなのか?
「………………」
いくら見ても、当然減ることのない液体だけが、ゆらゆらとまるで誘っているかのように波打った。
……はぁ。
一生に一度の覚悟って、結婚の申し込みとか以外でも必要なんだな。
てっきり俺にとっての最大の試練はそれだと思っていたので、まさかこんなに早く訪れるとは思ってもいなかった。
――……神様。
どうか本当にいるのであれば、願いはたったひとつだけ。
『醜態をさらすことなく、乗りきれますように』
「……いただきます」
「ぐいっとイケよ」
にやにやしている孝之に内心で悪態ついてから、そっと口づける。
……なんの罰ゲームなんだコレ。
一気に飲み干す前に、ふとそんなことが頭をよぎった。
教訓。
人間、無理なことは素直に『無理』と言うべきである。
「……先生、大丈夫ですか……?」
「…………死にそう」
彼女の部屋で何杯目かの水を飲みながら、掠れた声が小さく漏れた。
……ちなみに。
その日1日微妙にテンションが上がりきらなかったのは、言うまでもない。
2005/11/15
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