いつもと同じ、朝ごはん。
 その日によって、食パンかご飯かわかれることはあるけれど、おかず自体にあまり変化はない。
 せめて、と思って毎日違うスープは作っているけれど、それも、最近マンネリ化してしまったような気がする。
 ……もう少し、何かないかな。
 今度、たーくんに料理の本でも借りて来てもらおうかな、とも思う。
「…………」
 そんな、本当にいつもと変わらない朝のことだった。
 私が、とんでもないモノを見てしまったのは。
「……ん?」
 私の目の前。
 そこに座って、おいしそうにフレンチトーストを食べてくれている羽織を見ていたら、最初は笑顔が浮かんだ。
 おいしいって言ってもらえるのが、やっぱり嬉しくて。
 内心ほっとしながら、見てはいた……ん、だけど……。
「…………」
 思わず、口へ運ぼうとしていたプチトマトがフォークから落ちるところだった。
 情けなく口を開けてしまっていたのも、もしかしたらまずかったのかもしれない。
 まばたきをしながら、羽織が不思議そうに私を見たから。
「……なぁに?」
「あ……えっと……あはは、なんでもないの。ごめんね」
「……?」
 すぐに、目が合った。
 本当は、なんでもないなんてことじゃない。
 ……だけど……。
「…………」
 ちらりと視線を横にずらすと、黙々とごはんを食べているたーくんが目に入った。
 やっぱり、その……なんていうか、やっぱりこういうのって、とてもデリケートなことだと思うから。
 だから……さすがに、今、この場所では口にできない。
 そう判断して、プチトマトと一緒に飲み下すことにした。
「ごっさん」
「あ。はぁい」
 ほどなくして、ガタンっと音を立てて彼が席を立った。
 ……あ。
 珍しく、コップまで一緒に片付けてくれてる。
 何かあったのかな。
 なんて、ありがたいのにいつもと違う行動のせいか、ちょっとだけ気になった。
「…………」
 でも、これはやっぱり……今がチャンス。
 小さくうなずいてから、洗面所へ向かったたーくんを見送り、羽織にまっすぐ顔が向いた。
「羽織っ……」
「え?」
「……ちょっと……あの、いいかな?」
「え? なぁに?」
 不思議そうな顔は、相変わらず。
 ……ということは、やっぱり羽織自体は気づいてないみたい。
 んー……本当は、こういうのってそれこそプライベート中のプライベートな話だから、あんまり踏み込んだりしないほうがいいのかもしれないけれど……でも。
 やっぱり、見てしまった以上、このまま黙っているわけにはいかない。
 羽織は、これから学校に行く。
 ということは、私と違って沢山の人と会う機会があるんだから。
「……あのね?」
 こほん、と小さく咳払いをしてから、あたりを注意深く確認して羽織に顔を近づける。
 大丈夫。
 伯母さんと伯父さんは、ちょうど今リビングで朝の地方ニュースを見始めたところだから。
 ……今しかない……!
 そう心に決めて、どう言おうかと迷ったけれど……でも、丁寧に説明することにした。
 羽織も気づいていない――大切で大変な出来事を。

「…………」
 あれから、ほどなくして。
 私は、キッチンで後片付けをしていた。
 まだ、5分と経っていないけれど、羽織は慌てたように2階へ駆け上がったきり、部屋から出てくる気配がない。
 ……んー……。
 もしかしたら、やっぱり余計なお世話だったのかな。
 みるみるうちに赤く染まった彼女の顔を見ていて、内心申し訳なかった。
 ……でも、見て見ない振りなんかは、できないから。
 同じ、年頃の女の子として……は、やっぱりね。
「……あ」
「あ?」
 2度目の洗濯をしようと、キッチンのタオルを持って洗面所に入った途端。
 顔を洗っていた彼と、ちょうどばったり会った。
「羽織は?」
「え? ……あ……えっと、部屋にいるよ」
 顔を拭いたタオルを私に渡しながら、たーくんが鏡に向き直る。
 だけど、ワックスの蓋を簡単に開けながら鏡越しに私を見ると、小さく『ふーん』とだけ呟いた。
「アイツら、ホントおめでてーよな」
「え?」
 ぽつりと言われた言葉が何を意味するのか一瞬わからなくて、まばたきが出る。
「えっと、何が?」
 そう聞くのは、当然……じゃなかったのかな。
 私を見ずに髪をかき上げた彼は、小さくため息をつく。
「朝っぱらから、妙な気ィ遣わなきゃなんねーこっちの身にもなれ、って言っとけよ」
「……え?」
「アイツ、気づいてねーだろ」
 再度ワックスを手で伸ばしてから、たーくんが私を見た。
 その顔は、やっぱり少しだけ呆れてて……なんだか、不機嫌そうでもあって。
 目を合わせて初めて、あのとき、彼もすでに気づいていたんだとわかった。
「たーくん、気づいてたの?」
「ったりめーだろ。……あの馬鹿。つーか、アイツらはどっちも馬鹿だな。馬鹿」
 ……そんなに、馬鹿って連呼しなくても。
 だけど、あまりにもすごく嫌そうな顔で言うのを見て、苦笑が浮かんだ。
 たーくんらしいっていうか、なんていうか。
 相変わらず、素直な人だと思う。
「だいたい、気付いてねぇ羽織は馬鹿だけど、付けるほうも付けるほうだっつの」
「え?」
「アイツはわかってやってんから、なおさらタチわりーし」
 アイツ。
 それはもちろん、瀬尋先生だろう。
 ……うーん。
 アレってやっぱり……っていうか、その……間違いなく、キスマークだよね。
 これまでも、実際見たことがなかったわけじゃない。
 でも、その……ねぇ?
 自分自身そういう知識はあっても、経験はなくて。
 ましてや……羽織という、身近な存在の子にそんなものを発見したのも、今回が初めて。
 ……日本もいろんな浸透がしてるんだなぁ。
 なんて、ふと去年の夏に『どう? 見てよ』とクラスメイトに自慢されたのを思い出して、なんとも言えない気持ちになった。
「ま、今に始まったことじゃねーしな」
「え! ……そうなの?」
 さらりと言われた、とんでもない事実。
 ……しかも、その言い方。
 そこにはなぜか、一種の諦めのようなものを感じた。
「だから、しょーがねーんだよ。今さら、祐恭の性格が変わるワケねーし」
「……うーん……」
「だから、お前も慣れろ」
「え?」
「それしか、道はねーから」
 な? と私を見た彼に、眉が寄ったまま。
 だって……だって、だよ?
 いくらそういう事実があるって聞いたからと言っても、なかなか……『そうだね』と納得できるはずない。
 これからも毎日会う子だし、今度また見つけてしまったとき、どう反応していいのか悩んじゃうんだもん。
 今日だって、本当はすごく迷ったのに。
 知らない人ならば、見えてしまったところで黙って“なかったこと”にできるけれど、羽織にそうするわけにはいかない。
 今日は、少なくとも気づいてなかった。
 もし、今度も気づいてなかったら……?
 そう思うと、なかなかうなずくことはできない。

「……でも、簡単に付くものなの?」

 あれが、どうされれば付くものかってことは、知ってる。
 だけど、実際に……もちろんだけど、目の前で付けているシーンを見たことはない。
 いつだって、跡になっているのを目にするだけ。
 だから、知らなかった。わからなかった。
 ――から、こんなとんでもないことを独りごちてしまったんだ。
「ったりめーだろ。1分もありゃ、十分だ」
「そうなの?」
 鼻で笑ったのを見て、瞳が丸くなった。
 ……ということは。
 ひょっとしなくても、たーくんはそれをしたことがある……ってことだよね?
「…………」
 もちろん、彼のこれまでの女性遍歴は知ってる……つもり。
 具体的なことは聞いてないけれど、ひょっとしなくても、そういうことをしてきたっていうのは、間違いなんかじゃないだろうし……だから、えっと……。
 …………その……。
「え?」
 いつしか、俯いていたらしい。
 手を洗ってからこちらを向いた彼が、私の手にあった洗濯用のタオルを取ったときになって、ようやく気付いたから。
「っ……ん!」
 それまでは、普通の顔だった。
 当然のように濡れた手をタオルで拭き、拭いたタオルを――洗濯機に放るまで、は。
「……やっ……たーくっ……!?」
 まるで、噛み付かれたかのように。
 いきなり、強く抱き寄せられたかと思いきや、たーくんが胸元に唇を当てた。
 唇。
 ……くちびる?
 ううん。
 そんな柔らかさや感触なんかじゃなくて、もっと……強くて。
 これまで、感じたことのなかったような……ものにさえ思えた。
「ん、だめ……っ」
 濡れた、なまめかしい感触に、思わず息が漏れる。
 キス、とは全然違う感じ。
 ぞくりと背中が粟立って、身体から力が抜ける。
 だけど、まるでそれすらわかっていたかのように、たーくんは腰に腕を回したまま、器用に私を支えた。
「……ん……んっ」
 足が、震える。
 ぐいっと引き寄せられた腰が、今にも……砕け落ちそうな、変な感じ。
 身体全部が言うことを聞かなくて、力も全然入ってくれなくて。
 なんだか、ふわふわと身体がそのまま飛んで行ってしまいそうな気さえした。
「終了」
「っは……ぁ……!」
 ちゅ、と『いかにも』な濡れた音が耳のそばで聞こえて、かぁっと顔が熱くなる。
 だけどたーくんは、私から唇を離してすぐに目を見て――にやっと笑った。
「な……っな!」
 『どーだ?』まるでそう言っているかのような顔で、瞳が丸くなると同時に、なんとも言えない感情が湧き上がって来る。
 ……しかも、だ。
 さらにたーくんは、よろけるように洗面台へもたれた私に対してこんなことも付け足した。
「言うだろ? 百聞は一見に、って」
「っ……たーくん!」
 そのときの顔が、まるでいたずらが成功した男の子みたいに、どこか勝ち誇っていて……反省してる感じは皆無で。
「もう!!」
 ぎゅっと握った手をたーくんに上げると、けらけら笑いながらネクタイを締め直して洗面所を出て行ってしまった。
 あとに残ったのは――情けない顔をした、半ば放心状態の私だけ。
「…………」
 胸元に手を当て、指先で触れてから……そっと鏡を見てみる。
 だけど、そこには顔を赤くした、情けない顔の自分が映っているだけ。
 なんだか、すごくドキドキしてるんだけど。
 だって、まだ朝だよ?
 朝も、朝。
 彼はこれから、仕事にいく人なのに。
「……ッ!」
 先ほどまで、たーくんが唇を当てていた場所から、そっと手を外した瞬間。
 目が丸くなると同時に、情けなく口が開く。
 ぱくぱく、と。
 ……まるで、もがいている魚のように。
「もう……っ!!」
 胸元というよりは、鎖骨のちょうど上のあたり。
 そこにくっきりと、今まで自分に見たことがない、赤いあざが残っていた。
 今日は、朝からずっと襟ぐりの開いたセーターを着込んでいた。
 ……まさか、それが仇になるなんて。
 正直言って、なんだか納得できない。
 だって、こんな……まさかこんな、ことをされてしまうなんて。
「……本当に、こんな……もうっ」
 ぎゅうっとそこに手を当て、赤い顔をなんとか直すべく深呼吸してみる。
 だけど、やっぱりそう簡単には直ってくれそうになかった。

 ――……ちなみに。
 タートルに着替えようと階段を上がったとき、ちょうど2階からたーくんが降りてくる形になって。
 眉を寄せた私を、何も言わずにものすごく楽しそうに笑ったのは……言うまでもない。


2007/8/12


トップへ戻る