「いらっしゃーい」
冬女へ赴任して、ほどなくしてからのある休みの日。
少し足を伸ばして、地元へと訪れていた。
珍しいものもあるんだな、と素直に思った。
まるで一般客へ向けられたかのような笑顔で迎えてくれたのは、従兄弟の長瀬泰仁。
彼は父方の叔母の息子で、美容師をしている。
年は俺より3つ上の27歳。
やや長い髪は緩やかにウェーブがかっており、いかにも美容師という感じの風貌。
まあ、ようは軽そうとでもいえばいいか……と言ったら、蹴られそうだけど。
ちなみに、会うたびに思うものの口にしたことはない。
「お前さぁ、もっとマメに来いよー。別に遠い距離じゃないんだし」
「……そういう問題じゃなくて。そもそも俺は別に、髪を切るだけならどこでも――うわ!?」
「お客さん、こってるねー。ガチガチですよー?」
「いっ……たいだろ!」
椅子へ座らされてすぐ首を明後日の方向へ向けられ鏡ごしに睨みつけるが、少し肩をすくめただけで、笑みは崩さなかった。
昔からそうだ。
だから泰兄のところへ来るの、極力減らしたいという悪循環なのに気づかないものなんだな。
「ほい。じゃあ、どうしようか」
「……どうするって……。いつも通り普通に切ってくれ」
「えー? つまんない」
「……つまるつまらないの問題じゃないだろ。普通でいいから、普通で!」
「だってお前、教師だろ? しかも、女子高だろー? だったらこー、びしっと目立つような髪形にしてみようとか思わないわけ?」
「思わない」
真顔で返事をしーーた途端、ふいに眼鏡を外された。
「っ……なんだよ!」
「いやー、ぶっちゃけ眼鏡邪魔なんだわ。外しといて」
「いや、見えないだろ!」
「ほとんど見えてるんだろ? なら、問題なし」
ほかの客には決して言わなさそうなセリフを吐かれ、思わずため息が漏れた。
たしかに、見えないわけじゃないものの、はっきりとはもちろん見えない。
「……って、こわっ! お前、そんな睨まなくてもいいじゃん!」
「睨んでるんじゃなくて、こうしないと見えないんだよ」
「あ、そ。でもさー、いい加減普通に切るだけじゃつまんなくない?
「なんで、客のオーダーに文句つけるんだよ。だったら、別の店へ行く」
「そんなことしたら、丸刈りにしてやるからな」
「っ……」
にっこりと、とんでもないセリフを吐かれ、それが本気であることを否応なしに感じる。
……ああ、嫌だ。
たまらずため息を漏らすと、楽しそうに髪をスプレーで濡らし始めた。
「……なんだよ、シャンプーは?」
「お前、男にちょー近くで洗われて嬉しいか?」
「嫌だ」
「じゃあいいだろ。俺だってお前と顔近づけんのやだもん」
「いや、それでも対価支払うんだからさ。別に、泰兄が洗ってくれなくていいし」
「お前にうちの女の子を占領されるのは嫌だ」
「……なんだそれ」
いーだ、とまるで子どもみたいな顔をされ、もはやため息しか出ない。
もういいや。なんでも。
早く切ってもらって、家に帰ろう。
ほどなくして、シャキシャキと小気味いい音を立ててハサミが入ったのがわかり、黙ってやり過ごすことに専念。
ハサミって言うと怒るんだよな。
……シザーだっけ? なんでも一緒だとは思うけど。
鏡の前に置かれた雑誌をぱらぱらめくると、F1の特集が組まれていた。
少し古いが、これを読んでいるほうがずっといい。
……恋愛がどうのと言われても、さして興味はないしな。
「お前さー、もっと色気づくとかないわけ?」
「俺はもう学生じゃない」
「いや、そうだけどさー。だって、今度の赴任先女子高なんだろ? 女子高生いっぱいいるんだろ? いいよなぁ。俺も行きたい」
「……なんで知ってるんだよ。またお袋か」
彼の耳に入ると面倒だと踏んで『泰兄には言わないでくれ』と口止めまでしたのに、まったく意味ないじゃないか。
ああ、そうだった。
お袋は昔から、話したあとで『あ、これ内緒だった』と言うタイプだった。
「別にいいものじゃないだろ? 女子高ったっていろいろあるし……」
「でも、いいじゃん。制服だろ? いいよなぁ、タダで見てる上にそれで給料もらえるんだもんなぁ」
「……あのな」
聞き捨てならないセリフを聞き、鏡ごしに睨みつけるーーが、わかっているらしく、手元を見たままの泰兄と目は合わなかった。
「俺は年下に興味ないんだよ。だから、別に女子高生だろうとなんだろうと関係ない」
「でも、むさ苦しい男に囲まれてるよりいいじゃん」
「……それはまぁ……」
「じゃあ同僚でイイ女とかいないの?」
「……どうだろうな。そもそも、普段いるの職員室じゃないし」
「なんだよそれ。ったく、情報源になりゃしねぇ」
「あのな。何を求めてるんだ? 女子高に」
さっぱり意図がわからず雑誌から視線を上げると、ふいにハサミの音が止まった。
「そりゃあお前。女子高だぞ? なんかこー、ヒミツの花園って感じしない?」
「しない」
あっさり切り捨て、再度雑誌に目を落とす。
やれやれとあからさまな声が聞こえたが、もちろんスルー。
……ったく。
いったい何を俺に求めるんだよ。
「じゃあ今彼女いないワケ?」
「ああ、この前別れた」
「え! お前彼女いたの!?」
「いたけど」
「なんで紹介しないんだよ! 俺に!」
「……なんで泰兄に紹介しなきゃいけないんだよ」
さも当たり前のように言われ、眉が寄る。
だが、今日一番の食いつきっぷりに、よほど聞きたいことなのかと少し呆れた。
「で!? なんで別れたんだよお前!」
「なんでって……別に。ずっと音信普通だったし」
「けど、ずっと付き合ってた子だろ?」
「いや、付き合ってたって言っても、別にどこかへ出かけるとかはしなかったし、どっちかっていうと名目上、みたいな関係だったから」
「は? なんだそれ」
「まぁ……要は、泰兄が想像してるような関係じゃないってこと」
言い切ったとき、ふいに彼女の顔が浮かんだ。
彼女は彼女でも、付き合っていた子ではなく、羽織ちゃんのほう。
遠足での彼女の泣き顔が、なぜか知らないが頭から離れなかった。
……まさか泣かれると思わなかったからな。
なぜ、と理由が明確でないためか、自分の中で不思議でしかなく、また泣かせてしまった事実が少しつらかった。
「じゃあ、何か? 好きな子がいるとか?」
「……いや、そこまでじゃ……」
「あれー、怪しいな。お前、いつもNOのときは即答するのに。んー? なんだ、誰かいるのかよー」
「……いないって。しつこい」
「なんだなんだぁ? あっ! まさかお前、教え子とか!?」
「ばっ……! そんなワケないだろ!!」
「あれー。そうやってムキになるとこ、すげー怪しいよー?」
「いや、だから俺は年下は――」
「興味なくても、好きになることあるじゃん。恋愛ってそういうもんだろ?」
「……なんだよそれ……」
鏡ごしにいたずらっぽく笑われ、なんとも居心地が悪くて視線をそらす。
……別に俺は……というかそもそも、羽織ちゃんに対して特別な何かを抱いたわけじゃない。
ただ、泣かれたことが予想外で、どうしようか悩んだだけ。
「ま、無事に新しい彼女ができたら1度は連れてこいよ。お前のツケでカットしてあげるから」
「断る。なんでそんな必要――」
「あるだろ。おにーさんに見せに来い」
「……ったく。こういうときだけ兄貴面するなって」
「まー、そー言うなって。ほい。前髪切るから動くなよ」
そう言って、泰兄が真面目そうな顔つきをした。
……こうして真面目に仕事してるときは、ちゃんとしてるように見えるんだけどな。
どうして話し出すといかにもダメそうに見えるのか、これも不思議といえば不思議か。
「ま、こんなとこだろ」
そう言われると同時に眼鏡を返され、かけてから鏡を見る。
そこには、いつもとほとんど変わらない自分の姿。
どの辺を切ったんだ、泰兄は。
足元を見ると毛が散乱しているが、これほど切ったようには感じない。
などと思っていたら、ドライヤーが音を立ててケープについた髪を飛ばした。
「そうだ。今度、カズの勉強見てやってくれよ」
「……俺が?」
「そ。なんか算数でつまづいてるらしくてさぁ。俺と美紀じゃ、どうやって教えていいかわかんなくて」
「……カズって……まだ小学校入ったばかりだろ? それくらいの算数なら、ふたりで――」
「まぁ、そう言うなって。今度来るときでいいよ。来る前に電話してくれれば、アイツ連れてくるからさ」
「……まぁいいけど」
曖昧な返事をしながら瞳を閉じると、パラパラと髪の毛が頬に当たった。
マッサージとは違うものの、髪を手で触られていると、血の巡りでもよくなるのか若干眠たくなる。
だが、この美容院では絶対に寝まいと誓っているので、そんな失態をさらしたりしない。
……こんなところで寝たら、何されるかわかったもんじゃないからな。
「ま、こんなとこだろ」
ドライヤーの音がやみ、ワックスを手に取った泰兄が両手を揉んでから髪を撫でた。
その声がやけに楽しそうなのが気になるが、もう終わったからあとちょっとの我慢だな。
もう何もつっこまずに帰る。
「しかしまー、お前が高校教師とはねー。なんか、ヤラシイ響きだよな」
「いや、そう思うのは泰兄だけだって」
「そーか? ドラマ見てた奴らはきっと同じ思いすると思うけど」
「俺は見ない」
「あー、お前は昔からそーだよな」
マジックテープがはがされる音とともに、ケープが外された。
同じ姿勢でずっと座ってるのは、なかなかに窮屈で肩がこる。
立ち上がりながら軽く肩をひねると、泰兄がにっこり笑った。
「次は、もーちょっと早く来いよ。つーか、月にいっぺん来れば?」
「……そんなに泰兄の顔ばかり見るのは嫌だ」
正直な感想を口にすると、ほとんど人がいない時間帯ということもあってか、彼の笑い声が店内に響いた。
「ま、彼女ができたらまずは見せてくれ。まさかとは思うけど、こんだけ言ってて教え子に手ぇ出してたら、笑うから」
「……うるさいな。だから、そんな不良教師じゃないって言ってるだろ」
ドラマの見すぎだ。
財布から札を2枚取り出して置き、瞳を細めて首を振る。
いたずらっぽい笑みを浮かべられ、ため息も漏れた。
「まいどー。ま、今どき青年2000円でカットしてくれるとこなんてないからな? 有難く思えよ、従弟」
「……わかってるよ。じゃあな」
「おー。あ、今度紗那にも来るよう言っといてくれよ。そろそろ1ヶ月だし」
「連絡しとく」
ため息をつきながら入口のガラスドアを開けーーたところで、思い出したような声がかかった。
「今度女子高生紹介してくれよなー」
「……美紀さんが聞いたら怒るぞ」
ひらひら手を振った泰兄に思わず苦笑を返すと、ちょうど店の電話が鳴って彼の意識がそちらへ逸れた。
まだ、暑いとは言えない日差し。
それでも、眩しさが少しずつ増えてきて、夏へ向かう季節だと感じる。
……それにしたって、俺が教え子に手を出すわけないだろ。
……。
……出さないよな?
「…………まさか」
ふいにまた羽織ちゃんの顔が浮かび、ありえないと首を横へ振る。
車へ乗り込み、エンジンをかけたときひとりごちたが、まさか、ともう一度口にしていた。
ありえないことだ。
浮かびかけた考えを振りきるようにアクセルを踏みこむと、なぜか咳払いが出た。
「先生、髪の毛切りに行かないんですか?」
「まだいいかな」
「もぅ……この間気にしてたじゃないですか。目にかかっちゃうと、視力悪くなっちゃいますよ?」
「眼鏡してるから大丈夫」
「大丈夫じゃないですってば!」
ずいっと顔を近づけて前髪に触れた彼女が、少しばかり心配そうに眉を寄せる。
「……そう言われても……」
「この前、泰仁さんにも言われたじゃないですか。早く来い、って」
「そうだけど……」
そう。わかってはいる。
まさか、ショッピングモールで偶然にも泰兄と会うとは思わなかったから、今さらもう、隠すことはできないのもわかってる。
が、あそこへそう頻繁に行くのは嫌だ。
と素直に言ってみたところで、まあ、目の前の彼女が許してくれるはずないのもわかってるけど。
でも、ね。
『教え子に手ぇ出してたら笑うから』
冗談とはいえああ言われた以上、今の状況で行くのは何を言われるかわかったものじゃない。
この前会ったときに、恐らくだいたいバレたとは思うけど……それでも、散々『年下は興味ない』と公言して帰ってきたのに、彼の言う通りになってしまったことが、妙に気恥ずかしいというか若干悔しいというか。
しっかりと『不良教師』をやってしまっている自分に、思わずため息が漏れた。
「……先生? なんか……元気ないですよ?」
「うん」
「何かあったんですか?」
「いや、別に」
ソファへもたれると、彼女が心配そうに顔を覗きこんできた。
………………。
「むぁ」
「ね?」
「らんれふか」
「あはは」
「……んもぅっ! 人で遊ばないでください!」
「遊んでないよ。癒されてたのに」
「もぅ! 私は癒されないのっ!」
柔らかそうなーーいや、柔らかいと知っている頬をつまむと、案の定怒られた。
その状態でも素直に喋ってくれるあたり、彼女らしいと思う。
「羽織ちゃんは、俺の髪が短いのと長いのとどっちがいい?」
「え? ……んー、どっちもいいですけど……」
「そうなの?」
まじまじと髪を見ながら呟いた彼女に、思わず苦笑が漏れた。
「じゃあ、切りに行かなくてもいいよね?」
「そうじゃなくてっ! ……んー、じゃあ、切ってほしいです」
「そう?」
「うん。泰仁さんに困ってる先生も見てみたいし」
「何? ひょっとして、それが本音?」
「ち、違いますよっ」
「今笑ったろ」
「やぁっ、私何もしてないですってば!」
「ほら、正直に言いなさい」
「やっ! 違いますってばぁ!」
一瞬浮かべた、羽織ちゃんらしからぬ笑みを俺が見逃すはずもなく。
逃げようとする彼女を捕まえて後ろ向きに抱きしめると、くすくす笑いながらもたれてきた。
「私も、泰仁さんに切ってもらいたいです」
「ダメ」
「え? どうしてですか?」
「ダメなものはダメ」
「でも……っ」
「嫌だ」
さらりと指を滑る髪を撫でていると、本当にそう思う。
「たとえ美容師だろうと従兄弟だろうと、目の前でほかの男に髪を触られてるのを見るのは嫌だ」
「……先生……」
あー、たしかに。
今、恥ずかしいことを言ったなと自覚はする。
まぁいいか。本当のことだし。
などと思っていたら、彼女がくるりと身体ごとこちらへ向き直った。
その顔はどこか楽しそうで、それでいて少し照れたように笑ってもいて。
かわいいね、と口にしそうにもなった。
「先生が切ってくれればいいじゃないですか」
「俺が切ったら駄目になっちゃうだろ」
「……じゃあ、泰仁さんに切ってもらう……」
「それは嫌だ」
「もぅ! どうすればいいんですかっ」
「ずっと伸ばして」
「無理ですってば!」
くすくす笑う彼女を引き寄せると、目の前でおかしそうに笑った。
さらりと流れた髪が頬へ当たり、くすぐったさもあって笑みが浮かぶ。
「じゃあ、今度連れてってくださいね」
「気が向いたらね」
「……気が向くようにするもん」
「まあ、せいぜいがんばって」
「もぅ」
この距離とあってか、柔らかい会話が秘密めいていて、これはこれで悪くないなと感じた。
まぁ――結局。
俺が髪を切りに……というか、泰兄へ彼女を紹介しにいったのは、このすぐあとのことだけど。
2004/12/26 2019/5/27 改稿
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