いったいいつからだろうか。
彼女の視線が、穏やかなものに変わったのは。
……あ、いや待て。
穏やかという表現は、微妙に正しくないな。
なんつーか、アレだ。
ツンツンしなくなった。
……あれ?
まぁいいか。
どうせ、今だって絵里の俺に対する視線は、そうそう柔らかいものじゃないからな。
「何様のつもり? たかが、教師のクセして」
舌打ちをしなかったので何も言わないでおいたが、やっぱりあのときの絵里を放っておくのはマズかったようだ。
『歯に衣着せぬ生徒』として名高い、3年の皆瀬絵里。
彼女は、ある種の二面性を持ち合わせていた。
スポーツ面でも勉強面でも、申し分のない優等生。
……の一方で。
たとえ相手が教師であろうと、絶対に折れない強固な面が目立つ。
教師だけでなく、大人という人間に対して対等な態度を取る。
…………で。
『顔はいいのに、口が悪い』
彼女のことを言う教師の表情は、大抵最後は苦い顔になっていた。
まぁ、別に絵里の場合はそれが今に始まったことじゃないし、アイツの話を聞いていると幼稚園時代からそうみたいだから、今さら矯正しようもないけど。
久しぶりに来た職員室の一角で、思いもかけず持ち上がっていた絵里の話。
コピーを取りながら背中越しに聞いていると、結構笑える。
……アイツ、かなり評判悪いな。
トントン、と刷り上った紙を揃えてからドアに向か――……おうとしたら、不意に声がかかった。
「なんですか?」
「いやー、田代先生も大変だろうと思ってねぇ」
「……大変……ですか?」
これまでの絵里の話からどうしてそれが出るのか微妙に繋がらないが、でもまぁ……確かに大変なのはある。
我侭だし、横暴だし、男っぽいし……。
と、挙げればいくらでもキリがなく出てくること。
だが、彼が続けた言葉は、正直俺が思いもかけないものだった。
「大変な従妹を持つと、肩身が狭いんじゃないですか?」
「は?」
ぽかん、と口が情けなく開いた。
……従兄妹?
俺と、絵里が?
そりゃあ、いったいどういう冗談――……。
「あ。そうそう。そうでした」
あっはっは、と思わず笑いながら手を振ると、不思議そうな顔をした彼らの顔にも、ようやく笑みが浮かんだ。
……あぶねぇ。
もう少しで、自分から暴露するところだった。
そんなことを言ったのはかなり昔だったので、今さら改めて言われると非常に困る。
忘れてたよ、ンなこと。
口元に手を当ててため息を漏らし、彼らに相槌を打ってから廊下へ出ると、ちょうど向こうから歩いてきた張本人と視線がぶつかった。
そのまま1度視線を外し、右に折れて準備室へ。
「ちょっと、純也ー」
――……すると、やっぱり普通に声がかかった。
「なんだよ」
「何、じゃないわよ。っていうか、それはこっちのセリフ」
怪訝そうな顔で横に並び、見上げてくる顔。
…………これだけ見てると、結構かわいいのに。
「……何よ」
「別に」
口を開くと、微妙にかわいさ半減。
思わず肩をすくめて歩き出すと、同じように絵里が付いてきた。
「……なんだよ。お前、次は祐恭君の授業だろ?」
「そーだけど。今日は、羽織の代わりに聞きに行くの」
「なんで?」
「……ちょっと、いろいろ」
どうせまた、ロクでもない理由だろ。
彼女の含み笑いを見れば、容易に察しくらいつく。
大方、また何か彼に対して追求することがある、ってトコか。
「そういや、お前また噂になってたぞ」
「噂? 何の?」
「非優等生として」
「……はぁ?」
何それ、と続けた絵里に、思わず苦笑が漏れた。
自覚がないのも困ったもんだが、やっぱりコイツはこういう女だから――……。
「従妹として、もっと自覚持てよ?」
「……従妹って……。ああ、アレね。なんだ、まだみんな信じてるの?」
「らしいな」
嘘も方便とはよく言ったものだが、まさか俺だってこんなに簡単に信じてもらえるなど思っちゃいなかった。
絵里の両親が外国へ行くから、という理由で考えた策。
同居となるとコレしかないだろう、となったワケだが……まぁ、コレに関しては絵里のばーちゃんの力添えが1番大きいんだろうけど。
さすがは、金持ちの権力者。
やっぱ、世の中はそういう人間のひとことで簡単に動くらしい。
……そりゃ、俺だって感謝してるけどな。
絵里のばーちゃんには、頭上がんねぇし。
未だに言われる、『見合いぶち壊し男』という意味合いの言葉。
確かに嘘じゃないから何も言えないが、やっぱ……気分はよくない。
いや、まぁ、そのなんだ。
別に、俺が悪いんじゃないのにとかは思ってないけど。
でもなぁ……やっぱ――……まぁ、いいか。
「ちょっとー。純也、聞いてるの?」
「あ? あー、なんだ?」
「……ったく」
怪訝そうな顔をした絵里を振り返ると、眉を寄せて大げさにため息をついた。
しょーがないだろ、俺だっていろいろ考えごとくらいするんだから。
……つーか。
「な……によ」
「お前、丸くなったな」
「は!?」
じぃっと視線を合わせたままで呟くと、わずかに頬を染めた。
たった一瞬の出来事。
だが、やっぱり彼女にとっては珍しいので、いつまでも目に残る。
……かわいいヤツ。
ふ、と漏れた笑みのまま正面を向き、絵里を振り返らずに準備室へ。
その道中もあれこれと文句を言っていたが、この際気にするのはやめておこう。
初めて俺と会ったころに見せていた、鋭く冷たい視線。
それに、いつしか――……温かさが入ってきた。
ふたりきりでいればいるほどそれが増えて、ときおり……愛しくてたまらない瞳を見せる。
……それは、やっぱり女のズルいところだよな。
いつもつっぱって、誰にも何にも負けないと粋がってる女が、そんな顔してみろ。
誰だって、あれこれ考えさせられちまうだろ?
…………俺も堕ちたもんだよ。ホント。
今じゃ、こいつなしじゃダメみたいだから。
「ちょっと! なんか、腹立つわよ!?」
「なんで?」
「当たり前でしょ!! 人のこと、じろじろ見るのは失礼だって習わなかったの!?」
「お前は、俺の視線を失礼だと思うようなヤツなのか?」
「……そ……それは……」
「じゃあ、いいだろ」
「だっ!? だから! よくないの!!」
「……んだよー……うるせぇな」
相変わらず、喧々囂々と素直にならないヤツ。
……でもまぁ、しょうがないか。
コイツがこういう女だから、俺はコイツのそばにいたいと思ったんだから。
――……後悔なんて言葉はきっと、彼女に関しては生涯感じることないだろう。
2005/6/7
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