きっと、彼は覚えていないと思う。
 あの夏の、暑い日。
 おじいちゃんの家で起きた、あの出来事を。
 ……私にとっては、結構衝撃的だったんだけどね。

「……暑いね」
「そうだな。でも、いかにも日本の夏って感じがするだろう? 懐かしくないか?」
「んー……懐かしい気もするけれど……あんまり、覚えてないから」
「はは。確かにまだ、葉月は小さかったからな」
「もう、お父さん! またそうやって、子ども扱いするんだから……」
「あー。すまない」
 セミがうるさいくらいに鳴いている庭を一望できる縁側で、麦茶を飲む。
 この組み合わせは、お父さんに言わせると『懐かしい日本の夏』らしい。
 だけど私は、そう言いきれるほど懐かしさがこみあげてこない。
 それは、日本に住んでいたころの私がまだ小さかったというのもあるだろうけれど、あまり昔のことを覚えていないから……だろう。
 汗をかいたグラスを手にすると、水滴が手のひらから服に落ちる。
 でもそれが、少し心地よかった。
 今現在、私が暮らしているオーストラリアの気候は、冬。
 だから、こういういかにも“夏”に放り込まれると、少し調子が狂う。
 ……でも嫌いなワケじゃない。
 だって、やっぱり楽しいんだもん。
「あらー、いらっしゃい」
「ご無沙汰してます」
「こんにちは」
「まぁまぁ、いらっしゃい」
 お父さんと話しこんでいたら、急に玄関のほうが騒がしくなった。
 どうやら、お客さんが来たらしい。
「……え?」
「いや。別に?」
 再び麦茶を含んでお父さんを見ると、にっと笑みを浮かべた。
 まるでその顔は、何かおもしろいことでも思いついたみたい。
「大きくなった葉月を見たら、みんなびっくりするだろうな」
「……そう、かな?」
 お父さんには、誰が来たかわかっているみたいだった。
 だからこそ見せたんであろう、あの笑み。
 けど、私はまだ誰が来たのか見当も付かなかった。
 ――あの声が届くまでは。
「あらぁ、大きくなったわねぇ」
「そりゃそうだ。俺、もう18だぜ?」
「18って……やだ、受験生じゃない。いいの? 悠長に遊んでて」
「遊んで、って……ばーちゃんが来いって言ったんだろ?」
「あ、そうだったわね」
「……おいおい。しっかりしてくれよなー」
 よく通る、低い声。
 だけど、その喋り方にはどこか懐かしさを覚えた。
 聞き覚えのある声というワケじゃない。
 だけど、あの人は多分――……。
「……たーくんだ」
「お、よくわかったな」
 ぽつりと呟いた途端、お父さんは少し驚いた顔を見せた。
 彼は、私の従兄弟にあたる人。
 小さいころ数年だけ一緒に暮らしたことがある、私にとってはとても懐かしい人だ。
 もう、6年も会っていない。
 私が覚えている彼は、まだ12歳のまま。
 だけど、私が今12歳なわけで……。
「……高校生」
 指を折って自分の年に6年をプラスしてみると、もう18歳。
 随分と年上で、いかにも大人だと認識する。
 6年も会っていない、従兄弟……であり、憧れの対象で――……私の、好きな人。
 だけど、彼からすれば12歳の私なんて子どもにしか見えないはず。
 しかも、会うのは6年という大きな歳月の果て。
 ……私のこと、覚えてくれてるのかな。
 もし忘れられちゃってたら、どんな顔して、どんな話をしたらいいんだろう。
 徐々に近づく足音でそんなことを考えていると、音が急にやんだ。
 振り返るのが、少し怖い。
 だけど、私よりも先にお父さんが声をあげた。
「久しぶりだな、孝之」
「きょ……うすけさん! え!? なんで、ここに!」
「はは。驚くのも無理はないよな。一時的に帰って来たんだ」
「うわー。すっげぇ、久しぶり。相変わらずっすね」
「なんだ? その相変わらずってのは。お前はしばらく見ない間に随分変わったな」
「あはは、そりゃあね。俺、もう18だし」
 どうしてこんなにも簡単に話をすることができるんだろう。
 お父さんには、本当に感心してしまう。
 私は、何を話せばいいのかすごく悩んでいるのに。
「……ってことは、じゃあ……」
「そ。葉月だよ」
「わっ!」
 ぐいっと両肩を掴まれたかと思うと、そのままの格好で彼に向き合う形になった。
 びっくりしたような、ちょっとだけ目を丸くしている顔。
 だけど、目が合ったたーくんは一瞬驚いたような顔をしたものの、次の瞬間、びっくりするくらい優しい顔で笑ってくれた。
「久しぶりだな、葉月」
「っ……」
 聞き覚えのない、低い声。
 男の人は6年の間にこんなにも変わるんだなぁ、なんて本当に感心した。
 私は、この6年でほとんど変わってないのに。
 変わった点といえば、少し背が伸びた程度。
 だけど、笑顔で名前を呼んでもらえたことが、すごくすごく嬉しくて。
「たーくんだ……ぁ」
 つい、こっちも笑みが浮かんだ。
 そのとき、かなり満面の笑みだったのを覚えている。
 だって、小さいころの姿しか記憶になかったのに、久しぶりに会ったら……背が高くて、カッコよくって、大人の男の人って感じだったんだもん。
 ……しかも、ずっと好きだった人だよ?
 そんな人に満面の笑みで名前を呼ばれて嬉しくない人は、きっといないんじゃないかな。
「わ!?」
「お前、大きくなったなー。いくつだ? 今」
 目の前にしゃがみ、ぐりぐりっと頭を撫でてくれるのは、確かに嫌いじゃないけど。
 でも、いかにもそれは子どもに対しての接し方って感じがして、ちょっと悔しい。
「もう12歳だよ? ……子ども扱いしないでほしいのに」
「12? そーか。あはは、悪かったって」
 とか言いながら、笑ってるし。
 ……むー。
 でも、仕方ないんだよね。
 やっぱり私は、高校生のたーくんにしてみれば、ずっとずっと子どもなんだから。
「葉月!?」
 かわいく髪をふたつに結んでいる女の子が、驚いたように名前を呼んだ。
 その顔には昔の面影があって、こっちも笑みが浮かぶ。
「羽織ー! 久しぶりだね」
「久しぶり! 元気だった?」
「もちろん! 手紙遅くなっちゃって、ごめんね」
「ううん、大丈夫だよっ。ねぇ、オーストラリアって今は冬なんでしょ? 日本に来たらこんなに暑くて、びっくりしなかった?」
「そうだね。日本の夏って、こんなに暑かったかなぁって……ちょっとびっくりしちゃった」
「あはは。やっぱりー」
 彼女とは、ぽんぽん会話が進むから不思議だ。
 同い年の従姉妹で、たーくんの妹。
 そんな羽織とは、私がオーストラリアに行ってからも、ときどき手紙のやり取りをしていた。
「あ、そうそう! 羽織にお土産があるんだよ」
「ホント!?」
 お土産という言葉で再び顔を輝かせた彼女の横で、同じようにたーくんも反応を見せた。
「え?」
「俺にはないのかよ。昔と違って、随分冷てーなお前は」
「だ、だって、チョコレートだよ? たーくん、甘いもの嫌いかなぁって思って……」
「チョコ? だったら、なおさら。羽織の分を俺に――」
「ダメっ! お兄ちゃん、いっつもそうやって私の食べちゃうじゃない! 葉月は、私に買ってきてくれたんだよ!?」
「お前はいつも、みんなからいろいろもらってるだろ? たまには俺に分けるっつー気持ちはないのか?」
「ないもんっ! ヤダからね。あげないよ!?」
 目の前で繰り広げられる、兄弟喧嘩にも似たもの。
 羽織は本気でたーくんに対しているように見えるけど、彼の場合はちょっと計れない。
 本気のような、からかっているような……そんな感じだ。
「もー、ふたりとも。たくさんあるから、大丈夫だよー」
 私には兄妹がいない。
 だから、このふたりが兄であり双子の妹みたいなもの。
 そんなふたりのやり取りで笑みが浮かび、こっちも楽しくなった。
「はい、どーぞ」
「わぁ!」
「おー」
 銀色の紙の蓋を開けると、中からはチョコレート特有の甘い匂いが広がった。
 外国土産の定番中の定番。
 マカダミアナッツのチョコレート。
 羽織は私と一緒で甘いものが好きだから喜んでくれると思ったけれど、まさか、たーくんまで喜んでくれるとは思わなかった。
 そっか。たーくん、甘いもの好きなんだ。
 こっそりと、そんなチェックを入れたのも覚えている。
「いただきまーす」
 それぞれがチョコを手に取り、口へ運ぶ。
 もちろん、私も例外なく口にした。
 こういうチョコって、普通のものよりもずっと甘く感じるのはどうしてだろう。
 ひと粒ひと粒が大きいのって、結構嬉しい。
 だってほら、食べ甲斐があるじゃない?
「やっぱり、おいしいねー」
 満面の笑みでそう言った羽織に、私も笑みを返す。
 彼女が甘いものを好きなのはわかっていたけれど、これほど喜んでもらえればとっても嬉しい。
「でも、夏に甘いもの食うと喉渇くな」
「そうだね。でも、おいしいでしょう?」
「まーな」
 くすっと笑ってたーくんを見ると、同じように笑って麦茶を飲んだ。
 ……麦茶。
 麦茶?
 あれ? たーくん、いつの間に麦茶なんてもらったんだろう。
 おばあちゃんが持って来てくれたのかな?
 なんて考えてから向かうのは、先ほど自分が手にしていたグラス。
 だけど、置いたはずのそこには輪の形をした水滴が残っているだけで、グラスは影も形もなかった。
「……たーくん……」
「あ?」
「それ……」
「ああ、もらった」
 一瞬、自分でも固まったのがわかった。
 身体だけじゃない。
 思考回路も、瞬間的に動きを止めた。
「なっ……な……!?」
 平然とした顔の彼とは180度正反対。
 だって、だってそうでしょう……!?
 それ、私が飲んでたグラスなのに!
 ……ええと、あの……ということは、その……。
「あ、そーだ。俺、じーちゃんに呼ばれてたんだよな……」
「え? ……あ……」
「ごっそさん」
 笑顔とともに手元へ戻ってきた、マイグラス。
 とはいえ……こ、れは……あの……。
「葉月? どうしたの?」
 まじまじとグラスを見ていると、羽織が心配そうに顔を覗き込んできた。
 ええと、なんて言ったらいいんだろう。
 そのときの私は、うまく羽織に言うことができなかった。
 たーくんのことを好きだという気持ちと間接キスがどうのなんて話を、お父さんと好きな人の妹の前で、できるはずないでしょう?
「……なんでもない」
 頬を染めてそれだけをやっと呟いた、あのとき。
 ふたり以上に汗をかいてたのは、決して夏の暑さのせいだけじゃなかった。

「チョコ……」
 ソファにもたれてマグカップを両手で包んだまま、視線はテーブルにあるホワイトチョコへ向かう。
 久しぶりにチョコレートを口にしたからか、思い出したのはあのときの恥ずかしかった思い出。
 本当に、びっくりした。
 今でも鮮明にすべてを覚えているくらいだから、幼な心には相当の衝撃的なことだったんだと思う。
 あのときの彼の言葉と、風貌と、会話と……匂い。
 私にとってあのときのことを思い出す香りは、チョコの甘い香りと、彼の大人びた香水の香りだ。
 ぼんやりと、テレビに流れる他愛ないバラエティを眺めながら、ホワイトチョコをそっとつまむ。
 ……きっと、たーくんは覚えてないはず。
 あのとき私は12歳の女の子で、たーくんの従妹で、恋愛対象なんかには当然見てもらえていなかった。
 しかも、普通に私の飲みかけを飲んだところを見ると、むしろ自然に手が出たようで。
 間接キスくらいでドキドキしてるのって、私だけだったんだろうな。
 ……もしかして、私って人間が古い?
 古風といえば聞こえはいいかも知れないけれど、どっちかっていうと時代遅れみたいな……。
「葉月」
「わ!?」
 なんてことを考えていたら、当の本人に名前を呼ばれた。
 びくっと身体が震えて、危うく、つまんだままのチョコをソファに落としかける。
「な……なぁに?」
 どきどきしながら振り返ると、どうしてか呆れたような顔をしていた。
 なんだろう。
 私、別に何もしてないと思うんだけど……。
「え?」
「この物体はなんだ?」
 ぐいっと手首を掴まれ、顔の前まで私の手があげられた。
 物体って――……。
「わ!?」
「普通、チョコをこんなふうにして食うヤツはいねぇだろ」
 見れば、すっかり指先で溶け始めているチョコレートがあった。
 ……わ……忘れてた。
「ちょっと、考えごとをしてたから……」
「……ったく。物を粗末にすんな」
「してないよ? ……ちゃんと、食べるもん」
「だったら、もっと早く食えばいいだろ?」
「だから……ちょっと考えごとをしてたの」
「チョコがこんなになるまで、何を考えてたんだ? お前」
「っ……それは……」
 瞳を細めて見つめられ、つい言葉が小さくなる。
 ……言えない。
 6年前の間接キスのことを考えてた、だなんて。
 笑われちゃうだろうな。
 ううん、むしろもっと――……。
「っ……!?」
「……うわ。あめー」
「なっ、な……!」
「もっと早く食えよな。ウマさ半減」
 唖然という言葉が、まさにぴったりだった。
 つかんだ手首を引き寄せたかと思いきや、ぱくんっと指ごと含まれたんだから。
「っ……ん、ゃ……!」
「……ンな声出すな。えろい」
「た……っ……たーくん!」
「なんだよ。もっとしてほしいのか?」
「違います!」
 絶対に、今顔は真っ赤になってるはず。
 だって、たーくんってばまるで私の反応を見るかのように、目を合わせたままするんだもん。
 まるで、見せつけるかのように親指と人差し指とをそれぞれ舐めた瞬間を見てしまい、ごくりと喉が鳴りそうになった。
 ……もう。
 こんなにどきどきさせるなんて、本当にいけない人なんだから。
「…………はぁ」
「なんだよ。もっと喜んでいいぞ」
「っ……もう!」
「あて」
 にや、といたずらっぽく笑ったたーくんの足を叩くと、ぺちん、と軽い音がした。
 でもたーくんは、そんなことをしたにもかかわらず、私を足の間に挟むようにしてソファへ座ったまま、平然とした顔で新聞を広げる。
 照れてるとか、そういうんじゃなくて……そう。
 あの夏の日に私のグラスで麦茶を飲んだ彼と同じ。
 臆するでも照れているでもない、至極当然の顔。
「あ? なんだよ」
 唇を尖らせたまま見ていると、怪訝そうに眉を寄せた。
「もう。か――」
「か?」
 間接キスより、ずっと心臓に悪いでしょう?
 そう言いたかったけれど、口に出せるわけないじゃない。
 そんな……恥ずかしいこと。
「……なんでもない」
「なんだよ、顔赤くして」
「赤くないもん」
「いや、赤いから」
「っ……違うの!」
「何が違うんだよ」
「いいのっ! ……いじわる」
「……なんだそりゃ」
 おかしそうに笑う彼が、どこか余裕溢れて見えてちょっぴり悔しい。
 こっちは、いきなり指を舐められて、いっぱいいっぱいなのに。
「……あれ?」
「あ?」
「なっ……!」
 今度は、そっち……!?
 思わず叫んでしまうところだった。
 平然とした顔で彼がかたむけているのは、マグカップ。
 ……そう。
 私が、さっきまで飲んでいたものだ。
「あ、うまいなこれ」
 へぇと小さく呟いて中を覗いてからこちらに視線を向けた彼は、相変わらず普通の顔。
 だ、からっ……もう!
「また飲まれちゃった……」
 頬が赤くなるのがわかる。
 だけど、たーくんはまったく気にしている様子なんてなくて、むしろ怪訝そうだった。
「……また?」
 はっ。
「また、って……俺、前にもこうして飲んだか? 葉月のヤツ」
 これを人は、墓穴と言うのかもしれない。
 だって、それを言えばさっき私が何を考えていたのかまで、すべて出てしまうだろうし。
 ……口が滑ったというか、なんというか。
 お願いだから、そういう何か企んでそうな顔で見るのはやめて?
 じゃないと……何も言えなくなっちゃうじゃない。
「で? 俺がいつお前のモノを飲んだって?」
 マグカップをテーブルに置き、顔を覗き込むようにしたたーくんは、いたずらっぽく笑う。
 そのまま、ソファとこたつの間に挟まれ、結局……逃げ場のないせいで、この話をする羽目になってしまった。
 間接キスなんて、今どきの言葉じゃないかもしれないし――……『何をいまさら』なんて言われるかもしれない。
 でも、キスもしたことがなければ、好きな人と手をつないだこともなかった当時の私には、それこそキスとイコールの位置づけだったんだから。
 もしかしなくても、きっと笑われるはず。
 でも、当時のことを話す以上は、こう付け加えるつもり。
 『だけど、私は嬉しかった』って。
 ……それでも馬鹿にされちゃうんだろうけれど。
 国語の能力が私よりもずっと上のたーくんに言葉で勝てるはずがないのはわかっているけれど、たまには聞き逃してくれてもいいのに、なんて思ったのは言うまでもない。


2004/12/27


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