「ありがとう、祐恭君」
「いえ、とんでもないです」
見慣れたリビングにあるソファに腰を下ろすと、台所から彼女のお袋さんが声をかけてきた。
いつも通りに、週末の休みをともに過ごしてから訪れた、夜の瀬那邸。
金曜の夜から家に来てもらえたのもあって、やっぱり精神的にもものすごく救われてるのがわかる。
確かに、明日からはまた普通にお互いの日常が待っているから、のほほんとしてはいられないんだが。
……それでもやっぱり、彼女と過ごせる時間は特別で。
これがあるからこそ、仕事も気持ちよくやれるんだから――……と、そう思っていた。
このときばかりは。
この……何も知らずに、テレビを見ながら談笑をしていたときまで、は。
雲行きと自分の意思と――まぁ、いろいろ。とにかく、もろもろ。
そういうもの全部ひっくるめたすべてが、どんよりと怪しい方向へ向かい始めたのに気付いたのは、割と時間が経ってしまってからだった。
……だからもう、無理なんだ。
ここからじゃ……引き返せない。
本日。
彼女をいつものように送り届けにきたら、こう言われた。
「もしよかったら、ごはん食べていかない?」
こう言われたら、断るような理由はなくて。
せっかく、羽織ちゃんともう少し一緒にいられる時間をもらえたっていうのに、わざわざ無碍にする理由もなければ必要もない。
だから、喜んでふたつ返事で上がらせてもらった。
彼女の料理もうまいけれど、やっぱりお袋さんの料理もうまくて。
高校に通っていたころに初めてご馳走になったメシは、あまりのウマさに衝撃を受けたのを覚えている。
……家に帰ってから、母親の気まぐれで出されるメシは、まぁ……言わずもがな、日々の衝撃だからな。
こんなにウマいメシを毎日食べられるなんて、孝之はホント幸せモノだって思ったもんだ。
『当たり前』になると人間いろいろわからなくなると言うが、俺も……まぁ今ではそれに入るんだろうか。
週末と言わず、昼だって彼女に弁当を作ってもらえるときがあるワケで。
幸せの“慣れ”って、なんか……もったいないような気もするけど、でも、幸せな証なんだよな。
ふと無意識の内に台所へ立つ羽織ちゃんを見つけて、思わず頬が緩んだ。
「……えろい顔してんじゃねぇよ」
「してない」
「してんだろ? あー、ヤダヤダ。それが高校教師が教え子を見る目かよ」
「…………うるさい」
フローリングに敷かれているラグに寝そべって雑誌を読んでいた孝之が、こちらを見ずにくっくと笑った。
……腹立つ。
この場にご両親がいないならばまだしも、数メートルも離れていない目の前にいるってのに。
「っぐえ!?」
「悪い。足、長くて」
「……クサれセンコーが……!」
「ワザとじゃないって言ってるだろ?」
どん、とヤツの背中に片足を乗せてから視線を外し、肩をすくめる。
大して力も入ってないのに、大げさなヤツ。
睨んでいるのはわかっていたが、もちろん無視を続けた。
「……え?」
「あ?」
そんな、静かな戦いが勃発しそうになったとき。
ふいに聞えた高い声で、俺だけじゃなく、孝之までもが台所へ顔を向けていた。
さあ、諸君。
ここでひとつ問題を出そうか。
……なに、問題と言っても別に難しいワケじゃない。
使うのは、知識や技術なんかじゃなくて――単なる想像力なんだから。
「…………」
「…………」
少なくとも俺と孝之は、まさかこんなことになるなんて予想だにしなかった。
目の前で起こっている光景が当初、現実とは信じられなかったんだから。
「ん、ぁ……すごいね」
「う……ん、すご……ぃ」
キッチンの最奥。
対面式カウンターの向こう側だから、たしかシンクがあったところだ。
そこに並んでいる、羽織ちゃんと葉月ちゃんの上半身のみが見えている、現在。
手元がうまく隠れているせいで見えないが、なんとも微妙な……というよりは、決して料理をしているときの表情ではないモノを浮かべていた。
手元を見つめたまま、何やら困っているようにも見える。
だが、何よりも――声というか、セリフというか。
まるで、まったく違うときに聞くような息を含んだ声が聞こえたせいで、俺と孝之はそろってそっちを見るハメになった。
「……どうしよ……あっ、あ……!」
「あっ……! ねぇ、羽織。ほら、ちゃんと両手で掴んで?」
「うぅ……でも、だって……これ、持ちにくい……」
「大丈夫。……ね?」
「……あ。ホントだ。……すごい……葉月、すごーい!」
「あはは。そんなことないよ」
葉月ちゃんが何やらアシストでもしたのか、羽織ちゃんがものすごく尊敬の眼差しで彼女を見ていた。
手元は見えない。
だが、何かしたのはわかる。
……何か。
それはいったい、なんだ。
「でも、すごいのね。これって」
「だねー。なんか、なんだろ……ぬるぬる……?」
「うん、普通のと違うよね。……なんて言ったらいいのかな。とろとろが違うっていうか……」
「それもちょっと違わない? どっちかって言うと、ねばねば……」
「もう。羽織ったら、さっきから感触のことしか言ってないじゃない」
「……あ、そっか」
ときおり手を持ち上げているのか、腕が動くのが見える。
だが、相変わらず目線は手元。
そこからは、1度も動こうとしない。
「でも、これっ……あ、あっ……や……! 滑っちゃう」
「あ、ちゃんと持って? じゃないと――」
「んあっ、あ……! や、やだっ……だ、めっ……あっ!」
「きゃ!? あ、ああっ……まっ……ん! やだっ、だめってば! 羽織っ……!」
「葉月、はるっ……どうしよ! やっ……やぁ!」
「っきゃ……!?」
「「――……ッ……!?」」
刹那、叫び声と同時にふたりへ白い飛沫がかかった。
まるで時間が止まったかのように、目を閉じ、なんとも言えない顔で身を強張らせる。
……が。
ようやくふたりそろって目を開けたとき――互いの格好を見て、少し照れたように苦笑を浮かべた。
「「ごくり」」
孝之とふたりで、今の光景に目を見張った。
……というか、思わず生唾を飲み込んだというか……。
ふたりの仕草といい、艶かしい声といい。
なんかもう、『何してる!?』と間に割って入りたい気分なんだが、でも、それはそれで……ちょっともったいない気がするというか、思わず見守ってしまったというか……。
なんかこー……彼女たちの絡み――……いや、別に絡んじゃないんだけど。
目の前のふたりの光景が、なんだかものすごくエロチックに見えるのは、気のせいじゃないはず。
……あー。
女同士って、なんか……秘境、じゃなかった。
卑怯だな。ものすごく。
あらぬことを想像したわけじゃないんだが、なぜかドキドキしていたのは事実。
「…………」
「…………」
――……が。
どうやら、それは俺だけじゃなかったようで。
ふと我に帰って隣を見ると、もうひとりあの光景の虜になったままのヤツがいた。
訝しげな表情ながらも、だらしなく口を開けたまま――彼女たちを見ている男が。
「…………」
「…………」
いつもならば、こんなときはコイツをからかうのが常だったし、コイツはコイツで『なんだよ』とか『馬鹿か』とかすぐ口にするクセに、今日は目があったにもかかわらず何も言わなかった。
それどころか……いや。
ある意味の協定でも組んだ気分だな。
お互い『暗黙の了解』とばかりに小さくうなずくと、再びふたりに向き直っていたんだから。
「……もう。羽織ったら……」
「ごめんってばぁ」
くすくすと笑いながら、ようやくふたりが動き始めた。
が、しかし。
俺たちは見てしまった。
頬やら腕やらについた、やたら粘度のある白い液体が、じんわりと垂れていく様を。
「うー……べとべと」
「ぬるぬるするね……」
「……どうする? これ」
「んー……食べれなくはないから……」
「「ぺろり」」
「ッ……!!」
次の瞬間、恐らく孝之も同じタイミングで目を見張ったはずだ。
声にならない声をあげるというのは、こういうことか。
慌てて口に手を当てて塞ぎ、出かかった反応を飲み下す。
……な……なんつーことを……。
一気に心拍数が上がると同時に、ふと……以前あったことを思い出した。
って、なんでまたこのタイミングで思い出すかな。
自分で自分の首を絞めるだけなのに。
「あ……おいしい」
「本当ね。んー……なんか、味が違う」
「そうだねー! 味も違うし、すごい……コレのほうが、ねばねばする」
「そうね。……あ。この前食べたのとは、全然違うと思わない?」
「この前……って……。あ! 先週の?」
「そうそう」
「確かに、違うねー。こう……食べた瞬間、香りがするよね」
「うん。ふわ、って……香り立つ感じ。濃いのかな……やっぱり」
「あ、そうかも! 確かに、濃いよね」
手に付いた白い何かを、お互いに笑顔で舐める。
……な……舐め尽くす気か、もしかして。
よく見ると、髪や胸元にまで飛んでいるのがわかって、思わず視線をやって後悔した。
…………だから……!
あらぬ想像を自らかき立てて、さらに煽ってどうする……!
そこで初めて、視線が落ちた。
ダメだ。
どうしても、仕草と表情と声と……舌が、やらしく見える。
ああ、男って馬鹿だ。
「……おい。なんだアレは……」
「…………俺に言うな」
「はー……。ていうか、見すぎだろ。お前」
「……うるせーな。お前だってそーだろ?」
「…………」
「…………ったく、あの馬鹿が……」
「……はぁあ……」
ふ、と孝之と目があった途端、どちらからともなく言葉が漏れた。
うっすら、顔が赤くなってたような気がしないでもないが、気のせいだとまとめておく。
お互いの名誉の為に。
……しかし、考えることはまるっきり一緒なんだな。
やっぱ、男って単純で馬鹿な生き物だ。
――その後。
ダイニングへ移動してほどなくしてから、嬉々とした様子のふたりが台所から何かを手に姿を現した。
それは、最近ではあまり見かけることがなかった、大きなすり鉢で。
中身はもちろん――……。
「実はね、お父さんが自然薯をもらってきたのよー」
「……じ、自然薯ですか」
「そうなの。珍しいでしょう?」
にっこり笑ってお袋さんが説明してくれたんだが、どうしてもうまく笑うことができない。
そりゃ、なんとなく想像は付いていた。
白い、ねばねば、ぬるぬる。
そんな単語が並べば、そりゃあ……な。
決して、やましいことなんて考えてない。
……当たり前だろ?
俺は、その……なんだ。
ちゃんと答えを知ってたんだから。
「大変だったんですよ?」
「え?」
「ほら……滑っちゃうじゃないですか。それに、折ったらいけないから」
「……あー……。なるほど……」
笑いながら教えてくれる羽織ちゃんに、ひきつった笑みしか返せない俺は、やっぱり軟弱なんだろうか。
精神的に、まだまだなんだろうか。
……いや、でもみんなそうなるよな。
むしろ、マトモに目を見れなくたっておかしくはないはず。
「すごく大きかったんだよ」
「そうなんです。くれた人も、とっても立派だって言ってたみたいで」
「……あ、そ」
「ははは……」
にこにこにっこりとふたり揃って、かわいい笑顔で説明してくれるが、孝之も俺も視線がばっちりふたりからは外れていた。
乾いた笑いで精一杯のリアクションを取りながらも、健全な成年男子としては、当然……ワリとつらい。
まぁ、そんなこと言ったところで、この子たちにはわからないだろうけど。
「「たくさん食べてくださいね」」
「……ありがとう」
「…………なんでハモんだよ……」
とん、というよりも、もっと重たい音を伴ってダイニングテーブルに置かれたすり鉢には、なみなみと溢れんばかりの汁が妖しげに光を反射しながら満ちていた。
……あーもー……。
これまではなんとも思ったことなんてもちろんなかったのに、これからは見るたびに思い出しそうで嫌だ。
こんな関連付け、無理矢理されなくてもいいのに。
……普段は、これに黄身を入れて食べてたんだけどな……。
今は、なんかもう、食べなくても十分に精がつきそうな我が身が恨めしい。
「あー……俺はあとで食――」
「逃げるな」
「っく! 離せよ馬鹿!」
「道連れに決まってるだろうが……!」
ふらりと身を翻した孝之の腕を瞬間的に掴み、動きの鈍い首をしっかりと向けて瞳を細める。
このあと、ご両親だけでなく張本人の彼女たちを目の前に、平静を保って食事できるだけの肝は……正直、このときの俺には据わってなかった。
……俺だけ犠牲になってたまるか……!
友は道連れって言うだろ?
何より……生贄は多いほうがいい、ってな。
にっこりと笑って羽織ちゃんが差し出してくれた丼を見て出た、深い深い大きなため息は……きっと覚悟の表れだったんだろう。
のちに、この夜の出来事が『とろろ戦記』と俺たちふたりだけの間で語り継がれることになったかどうかは……俺らのみぞ知る。
2006/6/27
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