「俺は遅刻してもいいってか。あ?」
「そんなこと言ってないでしょ! っていうか、お兄ちゃんがもっと早く支度してくれればこんな時間にはならなかったんだよ!?」
「あーもー、わーったよ。ほら、早く行けって!」
「もぅ。それじゃ、お兄ちゃんも気をつけてね」
「は。俺の心配はいーから、自分が居眠りしねーでしっかり勉強してこい」
「お兄ちゃんとは違うの!」
「へーへー」
 憎まれっ子、世にはばかる。
 って言葉があるけど、あれは本当だと思う。
 相変わらず口が悪いお兄ちゃんは、悪態をついたままで車を逆車線へ向けた。
 今日は、いつも通りの学校。
 なんだけど、近所の道路工事のせいでバスの運行がいつもと違う。
 だから、お兄ちゃんに学校まで送ってもらうことになったのだ。
 ……だけど、相変わらず時間にルーズっていうか、しっかり朝起きないっていうか……。
 今日のことは昨日から言っていたのに、結局起きたのはいつもと同じ時間。
 いつも時間ぎりぎりに家を出るお兄ちゃんの時間で学校に送ってもらえば、その分出勤時間に支障が出るのは、重々承知のはずなのに。
 なのに……もぉ。
「……私が悪いんじゃないのに」
 車内でも散々文句を言われて、ついそんな愚痴が漏れる。
 私はいつもより少し早めに支度を終えたのに。
 こんな時間になったのは、どう考えたって彼が悪いんだから。
 お兄ちゃんは、昔からそうだ。
 ――……数年前の、教育実習。
 普通は朝早く夜遅くまでの実習で、やることも多くて大変で……なハズなのに、相変わらずの生活態度。
 やることはしっかりやっていたらしいけれど、朝もぎりぎりならば夜も遅くまで起きている。
 だからといって、その分レポートや教材を用意していたのかといえば、そんなわけもなく。
 本当にこんな人が教師になっていいのだろうかと、こちらが不安になったくらいだった。
 ……しかも、だ。
 彼が実習にきたのは、当時私も通っていた冬瀬第一中学。
 ただでさえ身内と顔を合わせるのは、なんていうか……ねぇ?
 やだなぁって感じなのに、彼は昔からいろいろやってきたO.B。
 妙な伝説とかっていうのを作ったらしくて、入学当初は当時を知る先生たちにいろいろ言われた記憶もあった。
 ……それなのに、だ。
 なぜか、先生たちからのお兄ちゃんの評判はとてもよかった。
 悪いこととかしてきたのに、なんでそのことを懐かしそうに話す先生たちが笑顔なのか。
 あいつはしょうがないなぁって言いながら、どうして楽しそうなのか。
 それは、未だにわからない謎な部分。
「あ、おはよ」
「おはよー」
 教室に入り、目が合った子らに声をかける。
 見れば、絵里もすでに席へ着いていた。
「おはよ」
「あら、おはよ。……ん? 何よ。その、疲れた顔は」
「……そう?」
「うん」
 やっぱり、疲れた顔をしてたみたいだ。
 なんていうか、お兄ちゃんのことで随分と気苦労があるような……。
 だって、本人は楽観的過ぎるんだもん。
 普通、出勤時間の30分前に起きて平気でいられないでしょ?
 いくら家から大学まで近いって言ったって、普通の時間感覚ならばもっと早く起きると思うし。
 余裕綽々……ってワケでもないけど、普通にごはんをしっかり食べてる彼を見ていると、こっちがヤキモキしてしまう訳で。
 絶対、彼の数倍は気を揉んでると思う。
 寿命が短くなってるんじゃないかな……とさえ、ときどき思うし。
「羽織ぃー」
「え?」
 妙にテンションの高い声が聞こえてそちらを見ると、委員長がすごく楽しそうに近づいてきた。
 その顔に、にやにやとした笑みを浮かべて。
「……なぁに? その顔」
「ちょっと、見たわよぉー。ねえ、誰? あの人。彼氏……とかじゃないわよねぇ?」
「彼氏ーー!!?」
 やけに得意げな彼女の声を耳ざとく拾った数人のクラスメートが、音を立ててこちらを向いた。
 す……素早い。
 この行動力の源は、いったいなんだろう。
「何よ、ちょっとー。どういうこと? 聞いてないわよー?」
「彼氏って、どういうこと? え? 何? 見たの?」
「まぁねー」
「……ちょ……ちょっと待って!?」
 わいわいと盛り上がり始める彼女らを制しながら、考えを巡らせる。
 彼氏。
 彼氏って……え、どういうこと?
 だって、先生と一緒に居れば『先生』だろうし、そんな呼称をもらうような人と一緒にいた覚えはないのに。
「……ねぇ、何か勘違いしてない?」
「してないわよ! だって、今朝学校前で見たんだから。間違えようがないでしょ?」
「学校前……?」
 怪訝そうに眉が寄った私に人差し指を向けながら、彼女がいたずらっぽく笑った。
 学校前……って……。
 …………あ。
「あれ、お兄ちゃんだよ?」
「お兄ちゃん? え? 羽織、お兄ちゃんいたの?」
「うん」
 きょとん、とした顔の彼女にふたつ返事でうなずくと、一瞬口を開いてから、なぜかさらに身を乗り出してきた。
「っわ!?」
「お兄さん、彼女いる? ねぇ、女子高生とかってどう? 守備範囲?」
「え、ちょ、ちょっと……!?」
 てっきり『お兄ちゃん』と聞いたら波が引くと思っていたので、かなりの予想外。
 まさか、かえって食いついてくるなんて。
「えー! 羽織、お兄ちゃんいたんだぁ。で? で? どうだった? カッコよかった?」
「もうね、ちょーカッコよかったよぉー。遠目で見ただけなんだけど、羽織のお兄さんって感じじゃないわよねー。やばいよ、超カッコよかった」
 どういう意味だろう……とか、ちょっと思う。
 そりゃ、まぁ、確かに似てないとは思うけど。
 似てる点といえば、二重なことくらいかな。
 だって私、あんなに目つき悪くないもん。
「で!?」
「はいっ!?」
 盛り上がっていた彼女らから視線を外して教科書を机にしまっていたら、いきなり話を振られた。
 で、って……え、何が?
「だからぁー。彼女、いるの?」
「……さぁ……?」
「さぁって何よそれぇー。丸っきり情報として役に立ってないじゃない!」
「だって、私も知らないもん」
 お兄ちゃんに関しては、謎が多い。
 深夜とか朝とかに帰って来ることもあるみたいだけど、特定の彼女を見たことないし。
 ……そういえば、祐恭先生からもお兄ちゃんの彼女について聞いたことなんてないんだよね。
 コンパと称した飲み会にはよく出かけていくけど……。
 だから、そんなふうに怖い顔して詰め寄られても、情報は出てこないんだってば。
「女子高生とかって、ダメかなぁ?」
「……さぁ?」
「えー? 直接、聞いてみてよー」
「……無理だと思うけど」
「そんなぁー!!」
「何よ、もったいぶってー!」
「アンタ実はブラコンなんじゃないのー!?」
「っ……な……! そんなわけないでしょ!!」
 私が、あの、あの……お兄ちゃんにどうして固執しなきゃいけないのよ!
 そんなのやだ。っていうか、気持ち悪い!
「もーー! おしまいっ!」
「あ、ちょっ……! 羽織!」
「羽織ってばぁ!」
「ちょっとだけ! 聞くだけでいいから!!」
「やーだー!!」
 ぶーぶーとブーイングをされても、こっちだって困る。
 だいたい、聞けるわけないじゃない?
 絶対、呆れた顔して『馬鹿か』とか言うに決まってるんだから。
「でも、いいよねー。お兄ちゃんって」
「……そう? 私は、お姉ちゃんとか妹とかのほうがよっぽど羨ましいけど」
「えぇー!? 絶対、お兄ちゃんのほうがいいってば! だって、スゴイ優しそうだったし。しかも、カッコいいじゃない? 言うことないよー。満点。勉強とかも、教えてくれそうだしぃ」
 かなり楽しそうに瞳を輝かせて言う彼女には申し訳ないけど、これだけは断言できる。

 『それはないから』、と。

 だって、お兄ちゃんに勉強みてもらった覚えなんて数えるくらいしかないような気がするし。
 むしろ、彼氏である先生にみてもらったことのほうが、ずっと多い。
 みんなは彼の本性を知らないから言えるんだ。
 ……まぁ、知らないだろうけど。
 お兄ちゃん、外面いいもんね。
 だから、これほど外での評判がいいんだよ。
 教育実習中の彼の評判がよかったのも、今になればそう結論付けられるし。
 みんな騙されてる。絶対。
 目の前であれこれとお兄ちゃんに関しての想像というか妄想というかを膨らませてるところ申し訳ないけど、苦笑交じりに相槌を打つしか私にはできなかった。
「……は?」
 夕食前、思いきって聞いてみた。
 だけど、ソファに座ったままで呆れたように私を見たお兄ちゃんは、やっぱりいつもどおりで。
 みんなが羨ましがる点なんて、どこにも見つけられない。
「だから、女子高生って守備範囲?」
「……お前な」
 あ、やっぱり馬鹿にした。
 こうなるってわかってたから、聞きたくなんてなかったのに……。
 鼻で笑われた今になって、ちょっと後悔。
「俺は祐恭とは違うんだよ」
「え? でも先生は年下に興味ないって言ってたけど……」
「結局は同じようなモンだろ? 現に、お前と付き合ってるんだから」
「……それはそうだけど……」
「悪いけど、俺はぎゃーぎゃー騒いでる頭軽そうな女子高生に興味ねぇよ」
「あ。それって、偏見だよ? なにも、女子高生がみんな騒いでる子ばかりじゃないんだから」
「そりゃそうだ。みんながみんなそんなんじゃあ、世も末だろーが。馬鹿か」
 あ、馬鹿って2度目。
 ……もぅ。相変わらず、口が悪いなぁ。
 こんなんだから、きっと彼女ができないんだ。お兄ちゃんは。
「まじでー、ちょーうぜぇーとか言ってるヤツらこそ、ウザい。きちっと喋れんのか」
 テレビのニュースで流れた、都内某所の女子高生。
 いかにもお兄ちゃんが嫌いそうな格好の子らが映ったのを見て、嫌そうに瞳を細めた。
「……そういうお兄ちゃんだって、人のこと言えた義理ないと思うけど」
「は? なんでだよ」
「だって、そうでしょ? 社会人だったら、社会人らしくもっと丁寧な口調にするべきだと思うよ? ましてや、国語好きなんでしょ? 日本語は正しく丁寧に美しく。……じゃないの?」
「俺がいつ、きたねー言葉遣ったって?」
「ほら、現に今喋ってるじゃない」
 眉を寄せてこちらを見た彼を指差して言ってやると、口を結んでから顔をそむけた。
「うるせぇ」
「ほらー。そうやって自分もしてるのに他人を批判することなんて、できないでしょ?」
「へいへい」
 相変わらず、反省の色がまったく伺えない。
 こういう人を『かわいげのない』って表現するんだろうなぁ。
「……お兄ちゃん、そんなんだから彼女に愛想尽かされちゃうんじゃないの?」
 そうだ、絶対そうだ。
 きっと、自分のことを棚に上げて、彼女のことはあれこれ批判してるんだ。
 ……やだなぁ、そんな人。
 私だったら、まず願い下げだもん。
「あいたっ!」
「お前にあれこれ言われる筋合いねぇよ」
 ぽつりと漏らしたその言葉に、彼はやけに反応を見せた。
 手近にあった、小さなボール大のぬいぐるみ。
 それが、頭めがけて飛んできた。
「……ひどっ……! そういうことするから、お兄ちゃんはダメなんだよ!」
「ダメとかお前に言われる筋合いはねぇっつってんだろが!」
「人がせっかく忠告してあげたのに、そんな言い方ないでしょ!」
「誰がいつ、お前に忠告を頼んだよ! えぇ!?」
「あー言えばこう言うっ! すごくかわいくないよ!? そーゆー所!!」
「お前にかわいいだのかわいくないだの、言われたくねぇし!」
 お互い立ち上がって、まくしたてる。
 これが、いつもの喧嘩の始まりだ。
 手を出されたことはないけれど、こうした口喧嘩はしょっちゅう。
 力では敵わないけれど、口では負けない……かも?
 だって、悔しいでしょ!?
 言われっぱなしで、何も言えなくなるのなんて。
「だいたい、お前にそんなこと言われる――」
 彼が私に人差し指を向けてさらにまくし立てようとしたとき。
「うーるーさーいーーー!!!」
「あいてっ!」
「わっ!?」
 軽い音とともに、それぞれの頭を軽く小突かれた。
 振り返れば、そこには眉を寄せた……お母さん。
 手には夕食のおかずが載ったお皿を持っていて、どうやら通り道を塞いでいた私たちがかなり邪魔なようだ。
「まったく。アンタたちは、相変わらずぎゃーぎゃーぎゃーぎゃーうるさいわねぇ。誰に似たの? 本当に」
「……だ……だって、お兄ちゃんが……」
「俺じゃねーだろ。元はといえば、羽織が――」
「ふたりとも悪いんでしょうが」
 しつこいわよ。
 ため息をついて発せられた言葉に、お兄ちゃんと顔を合わせて黙るしかなかった。
 ……そう。
 結局、彼とのこういった口喧嘩は、母の力によってねじ伏せられてしまうというか、一気に解消されてしまうことが多い。
 父は特に何も言わないけれど、その代わり母が結構言ってくる。
 ……むぅ。
「ほら。ふたりとも手伝いなさい」
「……はぁい」
 ぽんぽんと肩を叩かれてキッチンに向かうと、逆方向に足を進めたお兄ちゃんが止まった。
「アンタもよ?」
「…………わーったよ」
 見ると、こちらを向いたままのお母さんが器用にパーカーのフードを掴んでいる。
 相変わらず、しっかりしてるなぁ。
 結局、お兄ちゃんともどもしっかりとお母さんの指図を受けることになった、この時間。
 なんだかんだ言って、やっぱりお母さんは強いんだなぁ……なんて、ちょっと感心してしまった。
 でも、相変わらずお兄ちゃんの態度にはため息しか出てこない。
 だって、私の理想の兄像は、彼とはまったく異なっている。
 どちらかというと、みんなが口にする『お兄ちゃん像』に近いかもしれない。
 優しくて、カッコよくて、面倒見がよくて。
 ……そう考えると、先生はある意味当てはまるのかも。
 紗那さんや涼さんの面倒見てたみたいだし。
「…………」
 一方、現実のお兄ちゃんを見てみる。
 相変わらず、私に対する優しさなんて欠片も感じられないのが、この人。
 ……うーん……。
「なんだよ」
「え?」
「俺が悪いんじゃないからな」
「……まだ言ってるの? もー、子どもじゃないんだから……」
「子どもじゃねぇよ!」
 そーやってすぐムキになるところが、子どもだって言ってるんだけどなぁ。
 きっとこの先も彼とはこんな感じに過ごしていくんだろう。
 兄妹かぁ……。
 現実って、こんなもんだよね。
 漫画とかとはまったく違う現実を再度実感したら、自然にため息が漏れてきた。
 ……優しい『きょうだい』が欲しい。
 こう思うのは、みんな共通なんじゃないだろうか。


2005/1/5


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