「…………」
これまで、我慢してきたの。
ずっとずっと、がんばって耐えてきたの。
だけどもう……正直、限界。
……もうだめ。
ここまで耐えてきたんだもん、許してもらおう。
ぽち。
「あ?」
ぎゅっと瞳を閉じてから、まっすぐ前にあるボタンを押す。
すると、やっぱり当然のようにたーくんが声をあげた。
「なんだよ。せっかくいいトコだったのに」
「……だって……」
「は……あ? なんでお前、顔赤いの?」
「だって……!」
ハンドルを握ったままのたーくんが訝しげな顔をしたけれど、やっぱり理由を言うことはできなかった。
ユーロビート、って言ったっけ。
彼が、車の中で割と聞く頻度が高い曲。
テンポが早くて、一定のリズムがあって。
……曲自体は、私も嫌いじゃないんだけど。
「…………」
たーくんは、わかってないんだ。
どうして私が、曲を止めたのか。
熱くなった頬に両手で触れると、ひんやりと冷たくて心地よかった。
「あっ!」
「ったく。勝手に止めんな」
「や、ちょっ……! だから……!!」
「だ!?」
まったく気にしない様子でごくごく普通に再びCDをかけた彼に、慌てて続く。
……う。
なぁに? その顔。
まるで『なんで邪魔すんだよ』なんて言いそうな顔だ。
「…………」
ぽち。
「…………」
ぽち。
「…………」
ぽち。
「…………」
ぽち。
「…………」
「…………」
「……おい」
「え?」
「だから、なんで消すんだよ」
「……聞きたくないんだもん」
「は? なんで」
「え!? ……あ、や……その、いろいろと……」
ぽちぽちとオーディオのボタンを付けたり消したりを繰り返していたら、さすがのたーくんも声をあげた。
……っていうか、たーくん。
今は運転中なんだから、ちゃんとそっちに集中してほしいんだけれど……。
片手でハンドルを握ったまま器用にギアとオーディオを操作する彼を見ながら、『感心』ではない意味合いのため息が漏れる。
「……あ」
たーくんと視線が合わないように、半ば俯いたとき。
少しだけがくんっと車が揺れて、不意に止まった。
「え?」
目的地って、こんなに近く……だった?
……ううん。
だって今日は、珍しくたーくんが遠出するっていうから、ついてきたのに。
「ぅ」
さりげにかかっていた音楽のボリュームを絞ろうと手を伸ばした瞬間、瞳を細めてばっちり私を見ていたたーくんと目が合った。
……言い逃れができない。
とても気まずい雰囲気があたりに漂って、情けない笑いが漏れる。
「葉月」
「……なぁに?」
ハンドルに腕をかけて、それはそれは怖い顔のたーくんに名前を呼ばれ、眉が寄る。
……怒ってる、よね。きっと。
確かに私、しつこかったと思うから。
でも、でもだけど……ね?
あれは、たーくんが…………。
「ワケは?」
「え?」
「だから、しつこかったワケだよ。理由!」
彼ごしに窓の外を見ると、どこかの駐車場のようだった。
休日にもかかわらず、あまり車は停まっていない。
「……えっと、理由は……」
正直、こんなふうにまっすぐ見られたまま理由を問われるのって、すごく苦手だったりする。
別に、怒られているわけじゃないのはわかってけれど、言いにくいというか、なんというか……。
だって、こんな理由をたーくんに言ったら、間違いなく呆れられるに決まってるから。
それがわかるから、言えない。
でも……言わなきゃいけない感じだけど。
「あの……怒らない?」
「……は?」
おずおずとたーくんを見上げたら、とても怪訝そうな顔をした。
まるで、『お前何言ってんの?』と言うときみたいに。
……わかってはいたけど、やっぱりそんなつもりはまったくないらしい。
ちょっとだけ、ほっとする。
でも…………だけど、結局は言いにくいことに変わりないんだけど。
「…………」
今は、音がかなり絞られているお陰で曲自体もほとんど聞こえはしないんだけど、反対に、カチカチというハザードの音が大きく聞こえた。
一定のリズムを保つ、それ。
なんだか、ちょっとした暗示にかかりそうで、思わず点滅していた矢印から目が逸れた。
「…………から」
「は?」
「……ぅ。だ、だから、その……曲の、……が……」
ぼそぼそと小さい言葉で核心部分を呟くと、なぜか頬が熱くなった。
それがわかったらしく、ますますさっぱりわかっていなさそうな顔でたーくんが眉を寄せる。
……うぅ。
どうしてわからないかなぁ。
今もまだ端々の単語が耳に入って、どきどきするのに。
でも、彼はまったく気にする様子なく私を不思議そうに見ていた。
……もしかして、慣れてるとかってことはないよね?
…………。
まぁ……確かに、可能性がないとは言いきれないけれど。
「えっと、だから……その曲……、なの」
「はァ?」
わたわたと独り芝居みたいなことをやっていた私を見て、露骨にワケがわからなそうにたーくんが口を曲げた。
――……途端。
「っきゃあ!?」
なんの前触れもなく、ボリュームを上げた。
「やっ……やだ! たーくん、ちょっと……!!」
「ワケわかんねぇ。コレのどこがダメなんだよ」
「やだやだっ! ねぇ、やめて……っ!?」
普通の顔をして、普通にされた行為。
車いっぱいに溢れた音は、もしかしたら外にまで漏れてるんじゃないかと思うほどの音量で。
うー……うるさい……ぃ……。
それにそれに、この曲っ……!
どうして、こう何曲も何曲も同じような歌ばかり入ってるんだろう。
このCDのタイトルは、なんていうの?
……はあ。どうか、聞いてはいけないようなものでありませんように。
「は……あ」
瞳をぎゅっと閉じたまま耐えていたら、ほどなくして音が落ちた。
同時に、キーンという耳鳴りと、ぼわんとした妙な感じが身体に残っているのがわかる。
……これ、どこかで1度味わったことがあったような……。
…………。
あぁ、そうだ。
確か、彼を探しにパチンコ屋さんへ入ったあとも味わったような気がする。
遠い記憶の中で探し当てると、やっぱりため息が漏れた。
「で?」
「え?」
「この曲がどーした」
相変わらずたーくんが私に向けているのは、不思議そうであり、それでいて……ヘンなものでも見ているかのような、怪訝な顔。
まったく、私の反応を楽しんでいるようには見えない。
ということは、イコールどうやら、ワザとやっているわけじゃないみたいだ。
「……あのね、たーくん」
きっと、彼にとっても私にとっても、こうしていつまでもはっきりとしないやり取りを続けているのはよくないだろう。
言いにくいのはもちろんだし、内容が内容だけに、結構……勇気がいるけれど。
どうか、彼が笑い出したりしませんように。
どうか……ヘンな目で見られませんように。
彼に限ってそんなことはないと思うけれど、ふと頭に浮かんだ。
「この曲の歌詞……すごく恥ずかしいんだけど……」
言い終えたとき、思わず頬に手を当てていた。
途端に感じる、頬の火照り。
たーくんが、少しだけ口を開けたまままじまじと私を見ているのがわかって、視線が落ちた。
「…………は……ァ?」
どれくらい、間が開いただろう。
静かにゆっくりと、彼が大きく告げた。
「……え?」
「え、じゃねーよ。つーか、何? 恥ずかしい……って、この歌詞がか?」
「っ……ぅ。うん……」
言い終わるや否や、彼はまたボリュームを上げた。
これまで聞かずに済んでいた歌が、また流れ出す。
…………。
………………。
……うぅ……。
そ、んなにまっすぐ見つめられると、とても困るんだけれど……。
「…………」
「もぉ……やだ……」
あまりにまじまじ見られすぎて、やっぱり恥ずかしくて先に視線が逸れた。
……どうして、たーくんは平気なんだろう。
まったく顔色を変えずに聞き入っている様子が、逆に私は不思議でたまらないのに。
「……お前さ」
「え……?」
「この歌詞、わかるのか?」
「…………」
「…………」
「……えっと……」
「ん?」
「それって、どういうこと……?」
一瞬、お互いの間を沈黙が流れた。
……歌詞がわかる。
……?
それって、どういう意味なんだろう。
正直、ぴんと来なかったと言ってもいいかもしれない。
「いや、別に。そのまんまの意味だけどな」
「……そのまま……」
「そ。ほら、コレ英語だろ? 歌詞。だから――……あー」
「え?」
「そーか。……そりゃそーだよな。あー……なるほどね。ふーん」
彼は、また『何言ってんだ』とでも言わんばかりの顔で私を見た。
だけど、まじまじと顔を見てから一瞬口をぽかんと開けたかと思うとすぐ、何やら意味ありげに独りごちて視線を逸らす。
……うー……。
そういうふうにされるのって、とても気になるんだけど。
明らかにたーくんだけがすべての謎を解き明かしたみたいな顔で、独り納得している。
……気になる。
たーくんがいったい、どういう結論に辿り着いたのか。
「ねぇ、なぁに? ……え? たーくん?」
まっすぐ前を向いた彼が、おもむろにギアを入れた。
かと思いきや、車がこないのを確認してからすぐにまた道へと戻るべくハンドルを切る。
「……? たーくん?」
眉を寄せたまま、応答のない彼をもう1度呼ぶ。
……すると。
「っえ……?」
ニヤっとしたなんともいえない笑みを、私に向けた。
「ヤらしいヤツ」
「な……!」
予想もしてなかった言葉。
……て、ていうか……あの……。
やらしいって……え?
それって、そのままの意味なの……?
情けなくも、ぱくぱくと口が開いた。
「そーゆーことなら、もっと早く言えよ」
「え? ……どういうこと……?」
「そしたら、たっぷりデカい音で聞かせてやったのに」
「っ……! たーくんっ!!」
相変わらず、くっくと楽しそうな笑い声をあげながら、意地の悪いことを言う。
……うー。
たーくん、こんなふうに意地悪言う人だった……?
なんだかもう、いろんな意味で落ち着かない。
「言っとくけど。俺は、イチイチ歌詞の意味考えながら聞いてるワケじゃねーんだよ」
スムーズに流れに乗って走っていく車。
さっきまでのたーくんとは違って、運転からはまったく迷いを感じられない。
……うー……。
それほどまでに、スッキリしたってことなんだよね。
逆に私だけ、スッキリできていない状態。
なんだか、それが切ないけれど。
「つーかそもそも、俺はお前と違って、英語を聞いたらそれを1度日本語に訳さねーとワケわかんねーからな。フツーに、『音』として聞き流してるだけだ」
「音……?」
「そ。俺にとって洋楽っつーのは、テンポとメロディが肝心なんだよ」
そういうと、たーくんはまた音量を少し上げた。
途端、曲と歌い手こそ違うものの、また……うぅ。
なんとも、気恥ずかしい歌詞が聞こえてくる。
「……え?」
思わず、それが恥ずかしくて両手を重ねた途端。
たーくんは、楽しそうに笑った。
「でも、お前は違うだろ? 英語聞いたら、そのまま意味になって頭に入るだろ?」
「……それは……」
「構造の違いってのは、こういうとき……都合イイよな」
「っ……な」
「すげー楽しそうだもんな、お前」
「ちがっ……!」
どうしてそこで笑うの?
それこそ、私に言わせてもらうならば、楽しそうなのは彼のほう。
……遊ばれてる。
きっと、私は遊ばれてるんだ。
それはわかるんだけれど、どうにもこうにも、こ……の、歌が気になって……。
「もう……やだ……」
身体から力を抜いてシートにもたれたら、首だけをこちらに向けてたーくんが口角を上げた。
……意地悪な顔。
たーくん、いつからそんなふうに笑うようになったの?
「ま、せいぜい楽しんでくれよ。……その特等席で」
「っ……たーくん!!」
もう! と彼の腕に触れたものの、高らかに笑われただけで結局何かが変わることもなかった。
……もう、やだ……。
正直に言ったら、どうにかしてもらえるかなって思ったのに。
なのに、正直に告白した私の立場はどうなるの……?
結局、何ひとつ改善されてないどころか、悪化しているような気さえする。
「……もう」
相変わらず流れている、テンポこそいいものの、歌詞が……か、歌詞が……なんだか“大人”一色のこの歌。
でも、意見してみたところで、どうやら何も変わりはしないらしい。
だとしたら――……だ。
取るべき方法は、ひとつ。
「……ねぇ」
「あ?」
「いつになったら私を愛で満たしてくれるの?」
「ぶ!」
「ほかの誰でもない、あなただけの愛で。いつになったら、すべてを許してくれるの?」
「おま……何言って……」
じぃ、と見たままつかえることなく口にしてみる。
すると、ちょうど先の信号が変わったことでスピードを落とすと同時に、それはそれは驚いた顔で私を見た。
「全部欲しいの……もっと、たくさん。いっぱい、ちょうだい?」
「っ……」
「全部あなたにあげたいのに。だから、捧げるなんて優しいことは言わない。もっと強く、激しく、奪ってほしいの」
「ちょ……待て」
「あなたが私に注いでくれるなら、どんな形でも構わない。それが愛じゃない、ただの欲望だとしても……」
「ッ……!」
車が停止する前に信号が変わり、落としていたギアを彼が戻した。
ゆっくりと流れていく車。
国道なだけあって、2車線はびっちりと並んでいる。
「もっと奥まで、もっと先まで、ずっとずっと濡れた――」
「ちょ、待て!!」
「……なぁに?」
「何じゃねーだろ、馬鹿か!」
別に、おかしな口調で言っていたわけじゃない。
いつもと同じ、彼に話しかけるような自分そのもの。
……うーん。
もしかしたら、だから一層へんてこだったのかもしれないけれど。
「お前、嫌がらせか? それ」
「もう。別にそういうつもりじゃないよ? ただ、耳に入るから……今、私にどう聞こえてるのかをわかってほしかっただけで……」
「それが嫌がらせっつーんだろ」
「……それを言ったら、もとを正せばたーくんがいけないんでしょう?」
「…………」
「…………」
今、小さく舌打ちが聞こえた気がするのは……気のせい?
まじまじと横顔を見つめていたら、前を向いたままの彼が小さくため息を漏らした。
「……ふふ」
「なんだよ」
信号が赤に変わり、たーくんがゆっくりとスピードを落とした。
ギアがかわり、エンジンが音を上げる。
「つーか、俺は別に――……」
「今夜また、たくさん愛してくれる?」
「ッ……!」
「ふふ」
「……笑いごとじゃねーし」
「だって……そう言ったでしょう? 今。この人が」
「言ったんじゃなくて、歌ってんだろ」
「んー……そうだね」
ギアに手を置いたまま私を見たたーくんを、まじまじ見つめてから囁いた言葉。
途端、目を見張った彼は……何も言わずに音を下げた。
……ほ。
確かに、まだ微かには聞こえる音量。
それでも、今の今までは車内いっぱいに満ちていたんだから、ずいぶんと差が大きい。
「……ま、お前がそーゆーならシテやらなくもねぇけど」
「え?」
ギアを入れた彼が、アクセルを踏み込んだ。
車体がスムーズに動き、エンジン音が変わる。
「ヤりてぇってことだろ?」
「…………え?」
「え、じゃねーよ。お前が言ったんだからな。自分の言葉に責任持て」
「……え……っえ……!?」
ちらり、と横目で私を見ると、たーくんが明らかに口角を上げた。
そ……れって、ちょっと待って。
なんだか、ずいぶんと意味が違ってる気がするのは、気のせい……じゃないよね?
「っ……た、たーくん! そうじゃなくて、今のは、だって……」
「だって、じゃねぇよ。抱いてほしいんだろ? お前が」
「なっ……! あの、あのね? 今のはあくまでもこの曲が――」
「責任転嫁なんてお前らしくねーな」
「たーくんっ!」
ニヤニヤとそれはそれは意地悪く笑った彼が、ウィンカーを出して右へ曲がった。
ぐぐ、と加重されて身体が動くけれど、それは一瞬。
たーくん自身も、次に見たときにはもういつもと同じ表情に戻っていた。
「楽しもうぜ、今夜も」
「っ……」
ぼそりと呟かれた言葉。
それは――……今、流れた曲のフレーズ。
……やだ、もう。
くっく、と小さく喉で笑ったのが聞こえてたまらず頬が熱くなったけれど……たーくんは知ってか知らずか、アクセルを踏み込んでそれ以上何も言わなかった。
…………もう。
たーくんって、やっぱり……敵わないなぁ。
『もしかしたら』と思って始めた、歌詞の和訳。
だけど、まさかこんな展開になるなんて思いもしなくて。
……本気なのかな。
ちらりと横目で彼の顔を見ていたらまた一瞬だけ目が合ったけれど やっぱりその途端顔が熱くなって、私のほうが何も言えず俯くはめになった。
2007/5/21
|