「……あれ?」
「ん?」
 診療がひと段落した、昼休み。
 最後の患者さんを見送ってカルテを整理していると、すぐ後ろでさゆちゃんが不思議そうな声を出した。
「先生、CD変えたんですか?」
「CD?」
「え? 違うんですか? この曲。この前までのと、違いますよね?」
「……あー、これね。よくわかったわねー。仰る通り、新しい曲よ」
 CDと言われてもピンとこなかったけれど、曲と言われて合点がいく。
 ウチの医院では、朝から晩まで静かめの曲を流している。
 昔は有線だったんだけど、今はちょっと違う。
 CDと言えば、CD。
 ……だけど、詳しく言うとCD−R。
 そんなわけで。
 ぶっちゃけてしまうと、コレは私の作ったオリジナルディスクだったりするのだ。
「そういえば、思ったんですけど……」
「うん?」
 椅子を回して彼女を見ると、顎に人差し指を当てながら視線を飛ばした。
 かわいい顔するねぇ、あなたは。
 私がやってもまったく似合わないであろう仕草を見ると、非常に微笑ましいというか、手を出したくなるというか……。
 ……って、おっさんか私は。
 ちょっとばっかし、反省。
「先生って、クラシック好きなんですか?」
「……んー。別に」
「え? 違うの?」
「うん。なんていうか、たまたまっていうか……これしか手に入らないっていうか……」
 腕を組んで彼女から視線を外し、語尾を濁すように呟く。
 そうすると、当然彼女は不思議そうな顔をして突っ込んでくるんだけど……。
 でも私は、『なんでもない』とだけ言うことにしていた。
 意地悪いと思う。
 正直に喋ればいいのに、って自分でも思うから。
 ……だけど、ねぇ。
 なんか、こー……いろいろ事務所とか著作権とかのしがらみが、うるさそうで。
 まぁ、そんなモノ今さらどうのって言われても知らないけど。
 それに、本人が了承してるんだし。
 っていうか、そもそもアイツは事務所とかに属してるのかしら。
 なんか、自分ひとりで経理から営業からすべてやってそうだけど。
 ……ああいう世界のことはよくわからないけれど、まぁ、いいのよ。
 バレて問題になろうと、何か裁判沙汰が発生しようと。
 だって、そうでしょ?
 なんてったって、私はれっきとした彼の『姉』なんだから。
 キィ、と小さく鳴った椅子にもたれながら、ついつい苦笑が漏れた。

「あれ、久しぶりね」
「ああ」
 コーヒーを飲みながらリビングでくつろいでたら、珍しく綜が顔を見せた。
「ん? 何? 用事?」
「……いや、別に」
 てっきり家に来るなんて何か用事だとばかり思ってたのに、何も言わずにソファへ座って上着を脱いだだけ。
 ……なんだろ。
 珍しいわね、家に来るなんて。
 なんていうか、ここ数年この家にいなかっただけじゃなくて、今はよそで暮らしてるわけで。
 だからこそ、我が弟ながらもこの家に彼がいるのがものすごく不自然な感じがする。
 って言ったら、怒られるかしら。
 まぁいいか。
「あ、ねぇ。綜」
「……なんだよ」
「アンタ、今って暇?」
「…………は?」
「あら。何よ。暇じゃないの?」
「暇じゃねぇよ」
 てっきり暇だからここに来たんだとばかり思っていたのに、どうやら違ったらしい。
 でも、だからってそんな顔しなくてもいいじゃない?
 長年、姉を務めている私に向かって。
「……まぁ、暇じゃなくてもいいんだけど」
 コーヒーを飲み干してテーブルに置いてから、再び彼に向き直る。
 すると、こちらが口を開く前に大きくため息をついて瞳を閉じた。
「断る」
「……何よ。まだ何も言ってないじゃない」
「どうせロクでもないことだろ? だから、ハナっから断っておく」
 ……鋭い。
 思わず、ぴくっと反応しそうになりながらも、もちろん顔になんて出さないでおく。
 だって、こうでもしなければ彼は絶対に何も聞かずに帰ると思ったからだ。
「ちょっと、綜。アンタは、かわいいお姉ちゃんの頼みひとつも聞けないって言うワケ?」
「……どこがかわいいんだ。つーか、自分で『かわいい』とか言う女ほど、ロクなヤツはいない」
「あら。いるじゃない、ココに。ロクでもシチでもある女が」
 にっこり笑って頬に手を当てると、心底嫌そうな顔をしてから顔を逸らした。
 ……っていうかさー、何? このかわいげのなさ。
 ウチのかわいい年下彼氏と全然違うんだけど。
 にこりともしなければ、愛想笑いのひとつもない。
 我が弟ながら、かわいくないったらありゃしない!
「っていうか暇なんでしょ?」
「……だから。しつこいぞ、お前も。違うっつってんだろ」
「じゃあ、なんの用よ」
「お前じゃなくて、親父たちにだ」
「あら。お父さんたちなら、しばらく帰ってこないわよ? ついさっき往診に出たから」
 時計を見てから彼に告げる――……と。
「あ、ちょっ……!?」
 何も言わずに立ち上がり、そのまま玄関へと向かってしまった。
「ちょっと、綜! 待ちなさいってば!」
「用がないなら、ここにいる必要はないだろ? 別に、お前の顔を見に来たわけじゃないんだ」
「そんなのわかってるわよ! だから! そーじゃなくて!!」
 慌ててサンダルを引っかけ、ドアに手をかけた彼の腕を掴む。
 すると、ものすごく嫌そうな顔でこちらを振り返った。
「だから……なんなんだよ、いったい」
「ね。あのさー。暇なときでいいから、ウチの病院でかける曲録音してくれない?」
「断る」
「だ!? だから! いいじゃない! いつでもいいから!!」
「……あのな。お前、わかってんのか? 俺は、毎日毎日慈善事業してるワケじゃねぇんだぞ?」
「わかってるわよ! だから、こうして頼んでるんじゃない!」
 心底嫌そうに呆れた綜を見ながら眉を寄せ、手を離してから両手で拝む。
 ……というのも、実はワケがあった。
 それは、以前彼が出したCDを病院でかけたときのことだ。
 それまでは、小さな子が待ちきれなくて騒いでしまったり、それに伴ってほかの患者さんがイライラしたり……なんてことがあって、たまに窓口へ詰めかけちゃう患者さんがいた。
 1箇所がイライラしだすと、アレって不思議なもので伝染するのよね。
 そのせいで、なんかこう……ちょっと殺伐とした雰囲気もあったのよ。
 一触即発とはいかないまでも、オジサマだったり、オバサマだったり……はたまた、それよりも上のお年寄りなんかがね。
 標的は、私じゃない。
 もっとかわいくて、大人しくて、逆ギレしないような子たちばかり。
 ……付け加えるならば、さゆちゃんや、巧君でもないんだけどね。
 だけど……よ。
 だーけーどっ。
 そんな待合室に、綜のヴァイオリンのCDを流したのよ。
 そしたら――……あら不思議。
 小さい子は泣かなくなるわ、お年よりも我慢強くなるわ、ほんっとうに雰囲気がガラリと変わった。
 だけじゃなくて!
 診察室へ入ってくださいねーってお願いしたら、『先生、もうちょっとあの曲聴いていたいから、待っててください』なんてことまで言われる始末よ!?
 すんごいびっくりしちゃった、もう、マジで。
 これまでも、クラシックの効果なんかは医学的にもいろいろ言われていたんだけれど、目の当たりにしちゃった以上、これを逃がすワケにはいかなくて。
 そこで――……姉でありながら、がっつりと弟に貢献すべくCDを購入していたわけですよ。
 ……それだけじゃない。
 どうせなら、このヴァイオリン・ヒーリングを患者さんにも……! というわけで、こっそり窓口販売なんかも試みていたりする。
 やー、意外とこっちは好評なのよね。
 まぁそれもどうなのかな、とは若干思うけれど。
 だ、け、ど……よ。
 なんかこうねー、今まで散々CDを繰り返しかけてきたら、さすがになんかね。
 ちょっと、効果が薄れてきた気がしないでもないのよ。
 綜のCDって意外と多く出されてて、だからマンネリなんてしないだろうなーとは思ったんだけど、毎日違ったCDかけてても、どうしたってダブってくるわけで。
 そうは言っても、なかなかオリジナルCDがほいほい出されるわけもなく。
 だからまぁ……んー、と困ってたんですね。これが。
「だから!! お願い、オリジナル曲! 即興でいいから5曲くらい弾いて!!」
「っ……馬鹿かお前は」
「馬鹿でもなんでもいい!! ねぇ、お願い!! だってもうCD全部揃っちゃったんだもん!!」
「……は?」
「それにっ! ヒーリング効果がハンパないのよ、アンタの演奏!!」
 パン、と両手を彼の前で合わせ、なむなむと拝み倒す。
 あのものすごくヘンクツで有名な角のおじいちゃんでさえ、『そうかそうか。綜坊がこんなにか……』なんてしみじみ言ってくれたんだもん!
 長年連れ添ってる高血圧も、綜の演奏を流すようになってから、徐々に徐々に下がってきてるし!!
「お願いっ……!!」
 改めて手を合わせ、なむなむと拝む。
 拝む。
 拝む拝むよ、いくらでも拝み倒す……!
「…………」
「…………?」
 だけど、綜は何も言わずに――……小さくため息をついた。
「1週間」
「……え……?」
「来週までにはなんとかしてやるから、ちょっと待ってろ」
「………………」
「………………」
「…………うそ」
「……は?」
「うそ! ちょっ……マジ!? マジで!? ホントに!? アンタっ……! アンタ、ちょ、ホントに!? いいの!?」
「っ……なんだよ急に」
 まじまじと綜を見つめたまま、くわっと目を見開いて両手で腕をつかむ。
 すると、綜もやたら驚いたらしく、目を見張ってから眉を寄せた。
「ちょっと……! ああもう、ありがとう!!」
「ッ……」
 ぎゅむと抱きしめ、ぐりぐりぐりぐりと頭を撫でてやる。
 私よか、よっぽど背は高い。
 だけど、手は届くのよ。ギリだけどね。
「……よせ」
「あら。いいじゃない別に。嬉しかったんだもん」
「…………まったく」
 相変わらずだなお前は。
 そんなふうに言いながらも、無理やりはっ倒されなかっただけマシかしらね。
 解いた両腕を綜から離して腰に当てると、ジャケットを着なおしてからシャツの襟を正した。
「……あ。じゃあ楽しみにしてるから」
「まぁ、それなりには仕上げてやる」
「十分よそれでー。それじゃま、お父さんたち帰ってきたら一応アンタが来たことは伝えとくわ」
「ああ」
 ドアを開けたのを見てから、『そういえば』と続ける。
 どういう理由で家に帰ってきたのかはわからないけど、本人もそれなりに忙しい身分だしね。
 まぁ、連絡くらいは電話でも取れるでしょ。
「……あ、そうそう」
「なんだ」
「優菜にもよろしくねー」
 ひらひらと手を振り、にっこり笑う。
 最近、そういや会ってないのよね。
 彼女も忙しいんだろうけど、私もなかなか時間が取れなくて。
 ……とか言ったら、『彩ちゃんに彼氏ができたからじゃないのよー!』なんて、優菜なら言うかもしれないからあえて何も言わないけれど。
 ……あえて、ね。
「え?」
「…………別に」
 なぜか一瞬無反応だったのは気のせいかしら。
 ……まぁいいんだけど。
「じゃあな」
「あ、はいはい。またね」
 ドアを締めきる手前。
 ちらりと私を見てから、綜が小さく呟いた。
 ……まー、相変わらず急に帰ってくるわね。
 まぁ別にいいんだけどさ。
「…………」
 サンキュ。
 ひらひらと手を振り、閉まったドアに向かって小さく呟く。
 なんだかんだ言ってアイツ、面倒見はいいのよね。
 人の頼みは断らないっていうか…………まぁ、優しいっていうか。
「……は! 診察時間!!」
 何か忘れてるなーとか思ってたら、びば思い出し。
 腕時計を見ると――……ヤバい、午後の診察開始20分前。
 お昼は食べたけど、そろそろ戻らないとさゆちゃんあたりに怒られそうだわ。
 リビングに置きっぱなしだったマグカップをシンクへ運び、廊下の突き当たりから病院へ向かう。
 そのとき、一瞬眩しい日差しを受けて、つい目が閉じた。

「……いい曲だね」
「え?」
 診察室の椅子に座ったままカルテの続きを書いていたら、巧君がにっこり笑った。
 彼はクラシックも聞くことが多いらしく、綜のCDを流すようになってから『知ってるよ』って聞いたのよね。
 意外や意外……だけど、さすがに口にはしない。
 それにまぁ正直言うと、巧君に『知ってる』と言われたとき、やっぱり嬉しかったから。
「この曲、もしかしてオリジナル?」
「あら、さすがね。ご名答」
 書き終えたカルテを渡すと、彼が首をかしげた。
 クラシックの曲は、それこそ何千曲とある。
 だけど、ヴァイオリンソロの曲なんてそう多くないから、詳しい人ならわかるのかもしれないけれど…………やっぱり、嬉しいのよ。
 なんてったって、ウチの弟が我侭なアネキのためにひと肌脱いでくれた結果だから。
 ちなみに、このCD−R。
 音源をデータでもらったんだけど、なんとまぁばっちり12曲あった。
 それも――……頼んでからきっちり1週間で送られてきて。
 メール本文には『この前のヤツを送る』とひとことしかなかったけど、それはもうむちゃんこ嬉しかった。
 ただまぁ欲を言うならば、せめてメールタイトルだけ付けて送ってほしかったけどね。
 無題メールで、うっかり削除しちゃうところだったんだから。
「……彩さんだからだね」
「ん? 何が?」
「世界的ヴァイオリニストを動かせるのは」
 くすくす笑われ、ちょっとだけ目が丸くなる。
 ……世界的ヴァイオリニスト、か。
 仰るとおり。
 いつの間にやら、あの子も自分の世界を大きく羽ばたいている。

「まぁ……お姉ちゃんだからね」

 そう言った自分の顔は、もしかすると巧君にとっては意外だったのかもしれない。
 ……もしかして、お姉ちゃんの顔にでもなってたのかしらね。
 目を見張ったあと『そうだね』と笑われて、私もくすくす笑うしかなかった。


2012/8/24


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