ぷるるるるるるる

「……あ」
 午前10時、瀬那家宅。
 日中、葉月だけが留守番をしているそのときに、電話が鳴った。
「もしもし?」
 苗字を名乗らないのは、クセのようなもの。
 オーストラリアに居たころから変わらないので、彼女自身は別になんとも思っていない。
 それに、孝之からは固く言われていた。
 『電話に出て、苗字を名乗るな』と。
 一種の防犯対策らしい。
 ちなみに、この家の電話はいわゆる番号が表示されるタイプ。
 知り合いならば、まずわかる。
「……もしもし?」
『あ、俺。俺だけど」
「え?」
 問いかけに応じなかったのを疑問に感じて、再び同じ文句を口にした途端。
 少し戸惑ったかのように、低い声が聞こえてきた。
「……えっと……」
 俺。
 自分に対してそう名乗る相手は、あまり多くない。
 だが、正直言ってこの電話の声はまったく聞き覚えがなかった。
 初耳。
 それだけに、眉が寄る。
「えっと……あの、ごめんなさい。どなた……?」
『だから、俺だって。俺。ほら、従兄の!』
「……従兄……」
 少しだけ、焦ったように苛立った声が聞こえた。
 俺。
 従兄。
 ……あ。もしかして、菊池先生……?
 ひょっとして、彼が自分と羽織とを間違っているんじゃないだろうか。
 ふとそんな考えが一瞬浮かんだが、彼ならば恐らく自分と羽織の声を間違えるはずはない。
 彼は、女性に関するそんなミステイクは起こしたりしない。
 これはまるっきり葉月の偏見であるが、そう確信していた。
 ……だから、違う。
 彼は、菊池先生じゃない。
 ――……となると。
「……えっと……」
 従兄。
 葉月にも当然、孝之以外の従兄がいた。
 だが、だからといって果たして何も名乗らないものだろうか。
 ……いや。
 彼らならば、間違いなく下の名前か両親の名前を出すに違いない。
 ただ怒鳴るように『俺だって』などと叫ぶような人はいない。
 と、これもまた葉月の偏見である。
 だが――……以下略。
「あの…………もしかして、番号お間違えですか?」
『はぁ!?』
 ぽくぽくぽくちーんという擬音が響いたかのように、葉月が小さく首をかしげた。
 あくまでも、自分の知り合いではない。
 そう、信じきっていた。
 彼女は――……ある意味強い人だから。
「あの、ごめんなさい? どちらの従兄さんかわからないと、お話が……」

 ぶつっ

「あっ」
 困りながら返事を付け加えた瞬間、重たい音とともに電話が切れてしまった。
 ここでようやく、事態を飲み込む。
 ……しまった。
 もしかして自分は、とんでもなく失礼なことをしてしまったんじゃ……?
 などと思いながら彼女はその日、『自称・従兄』さんから電話が再度かかってくることを、1日中待ち続けたという。

 ぷるるるるるる

「はいはい」
 翌日、午前11時28分。
 その日、午後から仕事へ行くために早めの昼食を摂っていた母・雪江が、受話器に手を伸ばした。
 もちろん、葉月も一緒にごはんを食べている。
 彼女は午後も特に用事がないので、一緒に昼食を摂らなければいけない理由はないのだが、律儀にも箸を揃えていた。
「もしもーし?」
 高らかにトーンの違う高い声で電話に出るのは、毎度のこと。
 今さら、葉月でさえも驚いたりはしない。
 だが、これでもよくなったほうだ。
 以前までは高らかに『瀬那でございます』と、律儀に応えていたのだから。
 孝之に指摘されてから『もしもし』になるまで、彼女が1番時間を必要とした。
 元来、面倒臭がりやの彼女である。
 半年で改善したのは、まだいいほうだと父と羽織は思っていた。
『あ、もしもし。俺だけど』
「……あぁ、なんだ。なぁに? こんな時間に」
 笑顔が一瞬で消えた。
 代わりに浮かんだのは、言うまでもなくどこか面倒くさそうに眉を寄せた、明らかにやる気のないモノ。
 その瞬間、ダイニングでブリの照り焼きを食べていた葉月は、大きめにほお張ったソレを思わず飲み込んでしまった。
「っていうか、アンタ今仕事中でしょ? 何よ。そんなに重要なことなの?」
『いや、実は――』
「だいたいね、用件なら用件で仕事中なら周りにバレないようにメールするってのが筋じゃないの? ……ったく。給料カットされたってね、食費と光熱費割り引かないからね」
『だから、そうじゃ――』
「あ。もしかして、何? ……ひょっとしてアンタ事故でもやらかしたの? ちょっと、シャレになってないでしょうが! どうすんのよ事故なんて起こして! えぇ? 相手の人、大丈夫だったの? 怪我とかしてない? 最初にそれ確認しなさいよ? 痛いところないって言ってたのに、あとになってからで人身事故だーって騒がれたりするケース割とあるのよ? だから、最初が肝心なの。相手には何も言ったり応えたりしないで、すぐに警察呼ぶこと。わかった? 絶対、1対1で対応しちゃダメよ? 口約束も立派な約束なんだから。……あ、ほら! 曹介さん呼びなさい? 曹介さん。多分あの人、今パトロールとかって名目でパチンコにでも行ってるから」
『……は……はぁ?』
「いーい? アクドイ被害者ってのはね、保険会社にソソのかされて、すーぐその気になっちゃうのよ。慰謝料ふんだくることしか考えてない不届き者っていうのも中にはいるんだから。正直者が馬鹿を見る世の中って、どうなのかしらね? ほんっと、頭にきちゃうけど」
『ちょっ……ちょっと、待ってくれよ! だから! 俺の話!!』
「え? ……ああ、何よ。まだ何か話あるの?」
『俺は何も喋ってない!!』
「あら、そう?」
 しれっとした顔で応えた彼女は、またも面倒臭そうに壁にもたれた。
 心なしか、ため息をついたようにも見える。
 電話の相手が誰なのか、葉月にはわからない。
 だが、彼女の口調からして、孝之であろうことは容易に想像がついた。
「……で? 何?」
 欠伸が出た。
 やはり、面倒というか……ぶっちゃけ暇のようだ。
 自分の話以外には、あまり関心を示していない。
 まさに、普段の彼女の典型的なパターンである。
 あれほど、一気にいろいろなことをまくしたてたのだ。
 お腹がいっぱいなことも作用して、眠気が起きないはずはない。
『実はさ、俺……』
「何よ」

『今付き合ってる彼女、妊娠しちゃって。そんで……中絶費用が、どうしても工面できなくて……』

「ぬぁんですってぇええぇえぇぇ!!?」
「っ……」
 ビリビリと、空気が震えた。
 痛いほど怒りが伝わって来る。
 ……な……何か、とんでもないことが起きたらしい。
 それだけは、離れていた葉月にまで、ひしひしと伝わって来た。
「馬鹿じゃないの!? アンタ!! ヤることやる前に、きっちりヤれっていつも言ってるでしょうが!! ホンットに馬鹿ね! よその大事なお嬢さんを自分の勝手で(はら)ませるなんて……最低!! 二度とウチの敷居をまたがなくてよし!!」
「ごほっ!?」
「……ッ……は!?」
 とんでもない言葉が、大声で葉月にまで飛んで来た。
 途端、お茶を飲んでいた彼女が盛大にむせたのが、雪江の目にも入る。
 ……しまった……!
 そう思ったものの、すでに遅かったらしい。
 ごほごほと深く咳き込んだ葉月は、しばらく身体を『く』の字に曲げたままだった。
『いや、だから……あの……』
「あの、じゃないわよ! 馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、まさかこれほど馬鹿だなんて――……はッ!!?」
 葉月に背を向けるようにしてから、受話器を抱え込んで話し始めた――……その瞬間。
 とんでもない考えが、頭に浮かんだ。
「……アンタ……まさか……ッ!!」
 イライラというよりは、絶望。
 昂ぶった感情がピークに達しそうになった寸前、彼女はあることに気づいた。
 彼が今口にした、『彼女』。
 そして――……わざわざ家で話さず、仕事場から電話をかけて来た不自然さ。
「まさか……!?」
「……え?」
 ぐるりんっ。
 音を立てて受話器を握りしめたまま葉月を振り返り、わなわなと身体を震わせる。
 纏まり始めた考え。
 そのピースが、ぱぱぱっと頭の中でパズルにように組みあがっていく。
 まさか!
 まさかまさか、まさか……っ!?
 そりゃあ、確かに今まで何度も学校に呼び出されたことはあった。
 そのたびに、お父さんがどれだけ肩身の狭い思いをしたのかもわかっている。
 それでもまだ、どれもこれも、彼女に言わせれば『ガキの火遊び』程度だった。
 決して警察沙汰になったこともなければ、ご近所から白い目で見られたこともない。
 ――……なのに。
 それなのに、ああそれなのに……!!
「くっ……この馬鹿たれがーー!!!」
『……な、はっ……はぁ!?」
「よりによってっ……! よりによってアンタって子は……!! ああもう、母さん顔向けできないわよ! どうしてくれんの!!」
『えぇええ……!?』
 葉月に背中を向けた彼女は、身体を深くまで受話器を抱え込んでの小声モード発動。
 ひそひそひそひそと、目くじら立てたままでがっつり説教を垂れてやる。
 どんなに馬鹿なことをしても、そういう馬鹿なことだけは絶対にしないと思っていたのに。
 相手は、まさに決して冗談が通用するような相手じゃないからこそ、何がなんでも絶対にないだろう、と信じていたのに。
 それこそ、必ずやきちんと順番や手順を踏んで、健全なお付き合いを重ねていくだろうと――……そう思って決して信じてやまなかったというのに……!
「こンの、馬鹿息子が!! 仕事はいいから、今すぐにさっさと帰って来なさい!!」
『え!? ちょ――』
 沸点まで怒りが到達した瞬間、きっぱりと電話に向かって叫んでから、ガッチャン、と乱暴に受話器を置いていた。
 言いたいことは、言った。
 相手の言い分は、帰ってきてからそれこそじっくりと聞くつもりだ。
 ……言い分。
 というよりは、間違いなく『言い訳』であろうが。
「どうかしたんですか……?」
「え!? ……い、いや、あの……あのね? うふふ。何も……そう! 何もないのよ。やだわ、あの子ったら。もー」
 冷や汗びっしょり、張り付いた笑顔を添えて。
 心なしか、彼女の顔は青ざめていた。
 だが、それを葉月が指摘した途端、びくっと肩を震わせて――……そして、なぜかひどく申し訳なさそうに頭を下げたという。
 ――……以来。
 雪江は葉月に対して『重たいものは私が持つから!』とか、『身体冷やさないようにね!?』などと、やけに気遣ってくれるようになったという。
 ……だけでなく。
 彼女は仕事先から、真っ先に雄介へ電話をかけてもいた。
 何も知らないのは、本人だけ。
 …………が、しかし。
 その日の夜、当然のように大事件が瀬那家で勃発したのは言うまでもない。

「ただい――」
「やっと帰って来たわね、馬鹿息子」
「……は?」
 だん、と仁王立ちで玄関前に立った雪江は、ドアを開けた不肖息子が見えた途端きりりとした声を張りあげた。
 一瞬のうちに、彼の表情が変わる。
 『もしかして俺はまた、何か気づかないうちにやらかしてしまったんだろうか』と。
 ……そう。
 言うまでもなく被害者が、ここに現われた。
「ちょっと来なさい。お父さんとお母さんと、みっちりきっちりごってり話があります」
「……は!? え? な……親父も……?」
 ちなみに。
 そんな両親ふたりを前にして彼がまず言われた言葉は、『アンタ、恭介君にどう説明するつもりなの?』だったことを付け加えておく。

「……あらやだわ。冬瀬も怖いわねー」
「え? 何かあったんですか?」
 翌日の、瀬那家。
 リビングで夕刊を読んでいた雪江が、洗濯物を畳んでいる葉月の横で眉を寄せた。
「それがね? 冬瀬でも、オレオレ詐欺をしていたグループが捕まったんですって」
「……オレオレ詐欺ですか?」
「そう。 ……って、あぁ。ルナちゃんはよく知らないかもしれないんだけどね。ここ数年で、バカみたいに増えたのよ。電話口で『俺だけど』って名乗って、相手に息子とか孫とかって身内に思わせてから、事故に遭っただのなんだのって言って、現金を振り込ませるような手口が」
「……嫌な世の中ですね」
「ほんと、困ったもんだわ。ロクでもない手段で、人様の大切なお金を奪取しようとするだなんて。よっぽど慌てちゃうんだろうけど、でも、みんな気づかないものなのかしらねー。声なんて、身内ならすぐわかると思うんだけど」
「……ですよね」
「まぁ、ね? 大抵お年寄りとかが騙されちゃうってことだから、それは言っちゃいけないのかもしれないけれど……。年とともに、耳も遠くなったり、記憶力が落ちちゃったりっていうのは、あるから。でも、だったらそれはそれで、振り込む前に誰か家族に相談するっていうのが、最初の手だと思うんだけれどね」
「……なんだか……今の日本は、本当に許せない犯罪がはびこってますね」
「ホント。世も末だわ」
 はああ、と盛大なため息をついた彼女は、新聞に目を落としたまま腕を組んだ。
 その様子を、葉月も眉を寄せて見守る。
「だいたい、旦那が痴漢とかセクハラの加害者だって言われて、信じて示談に持ち込むためにお金払い込んじゃうって……どうなのかしらね。相手のこと信じてないのかしら」
「……うーん。わからないのかなぁ……」
「ねー。教師が教え子に手を出してそれを示談にしてやるだなんて……とんでもない親だとしか思えないけれど。だって、これが事実だとしたら、自分の娘の被害を金で解決するなんて、親として間違ってると思うのにねぇ」
「ホントですね」
 ――……以下、このような内容の会話がしばらく続いたのは言うまでもない。
 瀬那家を守っている女衆は……ある意味では安全というか……平和であると立証された瞬間であった。

 ちなみに。
「………………」
 そんな母親の様子を、ソファに腰かけたまま冷ややかに眺めている青年がいた。
 瀬那孝之、24歳。
 昨日、ワケもわからず和室に連れ込まれた彼は、両親にテーブルを挟んでワケのわからない追求をされた。
 結局、誤解であることを大いに主張して、挙句の果てには該当者である葉月までをも引っ張り出すという大騒動になった。
 ……あれは、生き恥だ。
 恐らく、顔を真っ赤にして首を横に振り続けていた葉月も、同じ思いをしたに違いない。
 どんだけ、プライバシーとかパーソナルって言葉を知らない女なんだろう。
 こんなんで、よくもまぁ貰い手があったモンだな。
 『昨日』を口にしながらまったく覚えてなさそうな記憶力に、ほくそ笑みすら浮かんでくる。
「――……ってことだから、アンタも気をつけなさいね?」
「…………」
 孝之が見ていることに気づいた彼女は、あっさりとした顔で、たったひとこと付け加えた。
 ……お前にだけは、言われたくない。
 つーかそもそも、お前がしっかりしろよ。
 もっと気をつけろよ。
 シャキっとしろよ。
 自分の息子の声もわからなかった上に、カケラほどの信頼もまったくしてなかった母親が、エラそうに忠告とはな。
 本ッ当に、日本は末だろうよ。
「……ち」
 瞳を思いきり細めて炭酸水を飲みながら、孝之は心の中で思いきり毒づいたという。

*みなさまも、振り込め詐欺にはくれぐれもご注意くださいませ*
 振り込む前に、本人の携帯に1発連絡ってことで(*´▽`*)


2007/8/10


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