「いかがです?」
 小さな花のレリーフがあしらわれた器を手にしたまま彼女に微笑むと、口元が嬉しそうに緩んだ。
「……すごくおいしい」
「それは何より」
 ふふ、と満足げに微笑んだ彼女が、唇を開いてまたひとくち。
 きれいに並んだ白い歯をわずかに覗かせ、クッキーをほおばる。
 ――が。
「っ……!」
 咄嗟に、身体が動いた。
 誰もいないのは承知のうえ。
 当然だ。自分があれこれと手を回して、追い払ったようなものなのだから。
 普段はない用事を言いつけ、いもしない人間を仕立て上げてはそちらへ向かわせる。
 ……すべては、このときのために。
 今、目の前にいる彼女へ向けられた……己が私欲のためだけに。
「……もぅ」
 掴んだ手首を高く上げたまま瞳を開けると、困ったような恥ずかしそうな、なんともいえない表情があった。
 だが、だからこそ笑みが漏れる。
 幸せとは今、ここにあるモノ。
 閉じた口の中に、微かな甘さが広がる。
「粗相なさって、服に汚れが付いては大変ですよ?」
 我ながら、なんて言葉が浮かぶのか。
 さらりと言ってのけたことに、内心苦笑が浮かぶ。
「……でも、ほんの小さな欠片よ? ……ちゃんと手も添えて……」
「手を添えるのは、マナー違反ですと何度も申しあげましたが?」
「ぅ。……それは……でも……」
「ふとしたときに、普段の生活が反映されるんです」
 口うるさいのはわかってる。
 だが、すべては彼女のため。
 大切な彼女が、ひとりで歩けるように……と。

 そう、願って来たのに。

「っ……ん……!」
 片手にすんなりと収まる、小さな(あぎと)
 ほんの少しだけ力が入ってしまい、我ながら苦笑が漏れる。
 重ねた唇は、そのたびに柔らかさと温かさをまざまざと示され、はっとしてきた。
 触れる毎に、離れられなくなる場所。
 媚薬が全身から溢れているようで、手も、唇も、視線も、何もかもが止まらなくなる。
「……ふ……」
 ほんの少し長く口づけ、苦しげに息を付かせるのが好きだ。
 ……などと言ったら、どれほど嫌な顔をされるか。
 少なくとも、彼女が喜んで頬を染めてくれるとは思えない。
 だけど、眉を寄せて悪寒を抱いたような表情でないことは知っている。
 いつものように、まるで困ったいたずらっ子を見るような眼差しで苦笑を浮かべるに違いない……と。
「……祐恭さん……」
 普段も今も、関係に変わりはない。
 なのに彼女は、こうして自分を敬称付きで呼び始める。
 ……それが、何よりの合図。
 今はただ、互いを求め、互いを欲する至極普通の関係であると。
「今夜も……傍にいてくれる……?」
 今、自分が離したばかりの唇が艶やかな光を帯びて、きれいに動いた。
 愛しげにそこを親指でなぞりながら、結んだ口元を見て笑みが浮かぶ。
「何を今さら。……当然のこと」
 笑みを含んでうなずきながら、ふたつ返事で囁く。
 こうすると、嬉しそうに微笑んでくれることを知っているから。
 ズルいと言われても、したたかだと言われても、反論はしない。
 彼女に対しての、当たり前の反応。
 それ以外の何物でもない。
「……この指で、見せつけるように弾いて?」
 掴んだ左手の指を頬に当て、ゆっくりとなぞりながら唇へ(いざな)う。
 舌先で弄れば、すぐに表情を変える。
 堪らなくソソられることを、彼女は知らない。
「きれいな指だ」
 甘い、などと言ったらどう見せてくれる?
 まっすぐ、ほんのりと頬を染めた彼女を見つめると、自然に口角が上がった。
「今夜もまた、いい夜になりますよ」
「……祐恭さんが言うなら……そうね。きっと、違いないと思う」
 うなずきながら微笑まれて、無論悪い気はしない。
 ましてや、今はただ、彼女すべてを独占していられるのだから。
 それは、何ものにも代えられない至福と言えよう。
「くれぐれも……慌てないように」
 暫く見つめてから表情を崩すと、すぐに彼女が瞳を丸くした。
 『心外』だとでも言わんばかりの眼差しで、眉を寄せる。
 いつもならば、マナー違反だとたしなめる表情。
 だが、その行為も今はただ野暮なだけ。
「私は、そんなに落ち着きのない子じゃないでしょう?」
「そうですか?」
「っ……ひどい。祐恭さんは、そんなふうに見てるの?」
「さあ。どうでしょうね」
 人とは、こうも表情が変わるものか。
 彼女を見ていると、たびたび多さに瞳が細まる。
 ころころと、どれもかわいらしく……そして愛しさがこみあげる、独特の表情。
 時間の概念が丸ごと消え失せる。

「冗談です」

「っ……」
「そんなふうに思ってません」
 ぐっと手を引いて彼女を引き寄せ、耳元に唇を寄せる。
 たっぷりと吐息を絡めながらの、囁き。
 彼女は、これが好きだと言ってくれた。
 ……そして同時に、弱点だとも。
「もう少し召しあがりますか?」
「え……?」
 意味ありげに、まじまじと見つめてみる。
 途端に、揺れる素直な彼女。
 真偽を確かめるかのような双の瞳も魅力的だが、今はやはり、薄っすらと開いた唇に目がいく。
 ――が、しかし。
「……クッキーの話ですよ?」
「っ……!」
 口にするのは無論、それ。
 わざとらしい高い声で器を見ると、真っ赤になった彼女が反論するかのように咳払いをした。
「……し……知ってます」
「そうですか?」
「もちろん! 当然でしょう?」
 このような姿も、いじらしくて愛しくて、たまらない要素。
 声を噛み殺すように笑いながら、だけど……。
「っ……あ……」
 頬に手を伸ばした瞬間、表情を目の前で変える。
 当然、知っての上でのこと。
 こうすれば、彼女が何も言えなくなるというのを。

「次は……私の番ですね」

 異を唱えさせないだけの、自負はある。
 と同時に、猶予期限とも呼ぶべき、定刻までの時間も。
「……いただいても構いませんね?」
 さらりと髪を指で弄りながら耳にかけてやり、撫でるように頬へ手のひらを滑らせる。
 無理強いしているわけじゃない。
 なぜならばこれは、互いの願いであるはずだから。
 なんともいえない表情で見つめ返してくる、彼女と自分……共通の。
「……いじわるな言い方」
「そうですか?」
「教育係にあるまじき行為だもの」
 くすくす笑いながらの言葉に、つい、口元が緩む。
 無論、どちらの手も彼女へ触れたまま。
 艶やかで、見事なまでの表情を浮かべている彼女を前にして、自身を抑えられるワケがない。
 自然の摂理。
 ときに、よくそんな言葉が浮かぶ。
「では、教育係としてのお役目も果たしましょうか?」
「……え……?」

「無論、よそでは通用しない流儀になりますが」

「っ……」
 鼻先が付くほどの距離で、吐息混じりにまっすぐ見つめる。
 途端、微かに喉が動くのが見えた。
 白さが際立つ、その、場所。
 いつも、自分がまず唇を寄せる理由が、このときわかった気がした。





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