「お嬢様、お持ちしました」
丁重にノックをした上でノブを回すが、中からの応答はないままだった。
だが、それはいつものこと。
今さら、彼は気に留めもしない。
「こちらに掛けておきますよ」
大きな窓から外を見つめたままの彼女の姿が目に入り、一応差し障りのないことを告げておく。
当然、振り返りはしない。
それもわかっているが、こうしておかなければあとで何を言われるか容易に想像がつく。
「青と白と、どちらでもお好きなほうをお選びください」
両手で掲げるように持ってきたドレスを、それぞれ大きな鏡の前に掛ける。
丈こそ長くないものの、どちらも大きなスリットが入っており、なんともいえない色っぽさがあった。
まだ、布地であろう段階のコレ。
この時点ですら漂う雰囲気なのに、これを彼女が纏ったら間違いなく……。
「純也」
「っ……」
ぴしゃりと飛んできた鋭い声で、一瞬の内に目が覚める。
怒られるとか、そういう問題じゃないのは当然。
だが、彼女のあの声は、やはり独特で。
妙な力を持っていることもあってか、ぴんと背筋が伸びる。
「……なんでしょう」
窓に背を向けてこちらを見た彼女の眼差しは、穏やかながらも強いもので。
しっかりと応えたつもりの彼だったが、喉が微かに動く。
「…………別に……」
カツン、と硬い音を響かせて、彼女が歩き出した。
大きな窓から差し込んでくる白い光を一身に背負い、きりっとした表情のまま、眉ひとつ動かさずに目の前へ歩いてくる。
……また、何か言われるか。
内心そんなことを思いながらも、微動だにできない。
いや、正確に言えば、『許されていない』とも言える。
彼女が全身から漂わせているオーラが、彼にそう告げていた。
――……が。
「……ッ……」
「もう少し、こうしてて」
言い終わると同時に、腕が背中に回る。
わかってなかった、とは言わない。
彼女が彼とふたりきりになるたび、こうしてほしがることがこれまでもあったから。
「……………」
何も言わず、何も聞かず。
彼もただ、黙って彼女に腕を回す。
温かい肌。
服越しに感じられるその身体が、心なしか……微かに震えているようにも思える。
……今夜のこと、か。
なんとなく頭に浮かんだ光景があって、腕に少しだけ力を込める。
楠乃希家の長女。
三つ子とはいえ、公私ともにそう思われている彼女。
いつであろうとキリっとした態度を崩さず、言動も鋭い。
確かな言葉。
正確な根拠。
豊富な知識。
……そして、的確な意見。
未成年とはいえ、名前も顔も、ほかのふたりとは違い広く知られている彼女。
精通していると言ってもいい。
だからこそ――……。
「……気を張りすぎるな」
「え……?」
「何も、お前ひとりが背負う必要はないんだぞ」
耳元で囁くと、すぐに彼女が動いた。
顔を上げ、真摯に言葉を受け止めてくれているように見える。
……しかも、いつもとはまるで違う表情で。
「お前がそんなんでどうするんだよ」
「…………」
「しっかりしろ、とは言わない。……でもな? そこまで思いつめるな」
なだめるでも、落ち着かせるでもなく。
彼はただ、彼女のために言っているだけ。
あくまでも、彼女の……そばに仕える身として。
「…………」
わずかに目を伏せ、きれいな唇をきゅっと結ぶ。
恐らく、彼女も考えているのだろう。
今夜のこと。
これからのこと。
そして……ふたりのこと。
羽織と、葉月。
ふたりがこんな自分を見たら、間違いなく焦るに決まってる。
焦って、困って、悩んで。
舵取りのなくなった船のように、彷徨うに決まってる。
自分がしっかりしなくちゃ。
そんな気持ちはもちろんあるのだが、それでもやはり、自分はまだ18だから。
本気で社会に出ていないせいか、まだ、得られていない部分もある。
ひと通りのマナーや基礎的な対処法は身につけたと言えるが、それでもなお。
「……そうね」
ぽつりと彼女が口を開き、ゆっくりとまた顔を上げた。
長いまつげ。
きりりとした印象を見せる化粧を纏った眼差しは、やはり色濃く。
強さの象徴であるとも思える。
「……やらなきゃ」
そこで初めて、彼女が笑みを見せた。
ほんのりとした、穏やかさ。
だが、そんな表情とは対照的に、彼に回した腕はそのままで。
当然のように、掴まれた服もそのままだった。
「その調子なら、平気だな」
髪を撫でながら、笑みが浮かぶ。
できる限り、優しく。穏やかに。
彼とて、らしからぬことをしているというのはわかっているが、それでも手が動いた。
正直な気持ちが出ていたんだろう。
笑みも浮かんでいた。
「……今夜のスピーチは、もう暗記済み――」
「当然」
「だよな」
ふと思いついたことを口にすると、彼女がしっかりとうなずいた。
一瞬睨まれた気もするが、それでも、この顔を見れたことでほっとする。
いつもの彼女と同じ。
少しでも、それを引き出せればそれでいい。
それが、自分の役目だとも思ってるから。
「馬鹿にしないでよね。私を誰だと思ってるの?」
「いや、別に馬鹿にしてるつもりは……」
「……ったく」
案の定、すぐに思っていた言葉が飛んできた。
眼差しもそう。
……だけど。
「…………」
「……なんだよ」
「こら。その言葉遣いは何よ」
「今さらだな」
「……うるさいわね。その辺はきちっと、大事にするの!」
そうは言いながらも、彼女は両手を彼の肩に乗せたままで。
仕草やいろいろなものから、言葉とは違う何かを感じる。
もちろん、それを1番感じているのは彼で。
そして、わかっているのもそうだ。
「……? 何よ」
「いーから」
「……。だから、なんなのよ」
「いーから!」
離した手を肩から腰に滑らせ、引き寄せるように力を込める。
途端に少しだけ嫌そうな顔を彼女が見せたが、無論気にしない。
ずっと、こうすると決めていたから。
彼女が自分にもたれた、あのときから。
「…………ん」
唇を重ねると、すぐに応えてくれる。
柔らかい、ソコ。
気持ちよく吸い付いてくるような感触が、何よりも気持ちいい。
「……は……」
濡れた唇を離して、すぐ近くで瞳を開く。
まだ、まぶたを閉じている彼女をこれほど近くで見られるのは、少しだけ新鮮で。
ほんの少し、顔が綻ぶ。
「……俺がいるから」
「…………え……?」
「そばにいる。……ちゃんと、見てるからな」
ごく近くで囁くと、少しだけ瞳を丸くした。
だが……正直言えば、この顔がずっと見たかったとも言える。
そのために、自分はいるんだ。
これが役目。
自分だけにしかできない、特別な。
「そうしなさいね」
くすっと笑った顔は、どこかほっとしたようにも見えた。
「……もちろん」
――そして、彼自身も。
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