「受け止めてね」
そんな言葉に続いてすぐ、彼女は行動へ移した。
「ッ……な……!」
見上げた瞬間、彼女が手を離したのだ。
どこから?
無論、これまで腰掛けていた不安定なハシゴから。
「……ッ!!」
ぐんっと肩に大きな力がかかり、同時に痛みが走る。
咄嗟の行動。
――受け止めなければ。
瞬間的な判断で、身体が動く。
「っく……」
ぎゅうっと肩から背にかけて回された腕は、細くて。
抱きしめた身体も、同じくらい華奢だった。
「……ば……ッ……!」
瞳を丸くし、早鐘のように打ち付ける鼓動をなんともすることができないでいたら、ようやく今起きたことが身体に沁みてくる。
落ちてきた、のだ。
上から、なんの躊躇もなく、何ひとつ迷わず。
絶対に受け止めてくれる。
裏づけもないのに、100の信頼を自分に抱いてくれた彼女が。
自分に、すべてを託して。
……降ってきた。
そう言ってもいいくらい、一瞬だった。
「馬鹿かお前!!」
ようやく、歯を噛み締めていた口が開く。
自分の素の部分のすべてが、さらけ出される勢いで。
「何してんだよ!! っぶねーだろ!!」
「……でも、受け止めてくれたでしょう?」
「そういう問題じゃねぇだろが!!」
勢いよく肩を掴んで身体を離し、真正面から顔を見て叫ぶ。
だが、彼女は穏やかな笑みを浮かべたままで、首をわずかにかしげた。
それは、恐れを知らないという言葉とはまた違って。
一瞬、彼すらも唖然と口を開きそうになるような、呑気すぎる言葉。
事実、彼女の言葉のあとで、『は?』と瞬間的に動きが止まった。
「大丈夫だと思ったの」
「あ……のな、おまっ……! ついこの前も、そう言って怪我したばっかだろ!!」
ピシャリと言いたくなる気持ちも、わかってほしい。
痛々しく、白い包帯が巻かれたままの手首。
毎日取り替えるたび『平気なのに』と呟くが、この下にある紫色のあざが目に入るたび、そんな言葉は虚勢にしか聞こえない。
痛くないはずがない。
なんぜ、幾つもの本と一緒にあの高さから落ちたのだ。
しかも重たい本ばかり。
……自分をかばったせいで。
だから、つらかった。
嫌だった。
どうして、なぜ、と何度も思った。
それでも彼女は首を縦に振ることがない。
それもわかっているから、尚さらつらいというのに。
「にぃやなら大丈夫って思ったの」
「っ……」
ひとしきり楽しそうに笑っていた彼女が、わずかに首をかしげ、覗き込むように微笑んだ。
その顔を見た瞬間、身体から力が抜ける。
ついでに、気持ちにあった妙な束縛も。
「……馬鹿が」
眉を寄せ、くしゃくしゃと頭を撫でる。
そんなことをされても嬉しそうに瞳を細め、また笑う顔を見ていると、本当になんともいえない気持ちでいっぱいになる。
幼いころからずっと一緒だった子。
令嬢で、なのに自分を兄のように慕ってきた子。
かわいくないわけがない。
だからこそ、保護欲以外のモノも沸く。
タブーであることに変わりないのに。
「にぃやの口癖ね」
「……そうだな」
笑った顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた。
叶わないなんて、100も承知。
届かないなんて、至極当然。
……だけど。
「…………あんまり、心配させるな」
『だけど』が沸くから。
「ん。……ごめんね」
『それでも』が浮かぶから。
――互いに離れられないのは、理屈ではどうにもならない。
「葉月」
「……なぁに?」
肩に置かれていた手を掴むと、嬉しそうに握り返してくる。
愛しげに、苦しくなるほどの眼差しで。
「…………」
なぜ、は言えなかった。
わかりきったことだから。
……それは、承知の上。
お互い馬鹿じゃない。
口に出してもどうにもならないことは、元から言わぬ性分。
愚痴を言っても、何を言っても、変わらないことがわかってる。
ないものは、ない。
目の前にあるものだけが、すべて。
だから、理想や空論は敢えてわざわざ口にしない。
悲しくなるだけ。
虚しくなるだけ。
必要なのは、そんなモノじゃないから。
「……っ……」
合図なんてなかった。
強く引き寄せ、掻き抱くように腕を回す。
どちらともなく、お互いに。
「……あの曲、歌いたくないの」
肩口へ添えるように言葉が紡がれ、ほんのりと温かさを帯びた。
だが、それが素直に嬉しい。
「……珍しい我侭だな」
本棚へもたれながら髪を撫でると、服が引っ張られた。
見るまでもなく、彼女が握り締めたことがわかる。
だから、何も言わない。
「……どうして私なの?」
「お前の声がイイからだろ?」
「……嘘つき」
「嘘じゃねぇって」
「思ってもないくせに……」
「思ってるっつの」
けらけら笑いながら言ったのがマズかったんだろうか。
彼女にしては珍しく、トゲのある言葉だ。
……まぁ、『みんなで私を笑いものにするつもりなんだ』なんて馬鹿なことを言い出すような子じゃないことは、わかっているが。
「でも……」
「ん?」
しばらく黙ったままでいた彼女が、ゆっくりと顔を上げた。
少しだけ何か企んでいそうにも見える、いつもとは違う眼差し。
お陰で、瞳が少しだけ丸くなる。
「にぃやが誰よりもそばにいてくれたら、ちゃんと歌えると思うの」
いたずらっぽい声色に聞こえたのは、気のせいか。
まじまじと顔を見つめていると、少ししてからおかしそうに笑った。
「そうだな」
「え……?」
「ンなことでマトモに仕事できンなら、してやってもいい」
口角を上げると、今度は反対に彼女が瞳を丸くした。
心底、意外そうな顔。
どうやら、そんな返事が来るとは思ってもなかったらしい。
「本気には応えてやるよ」
「っ……」
「何年お前のそばにいると思ってンだ」
ナメんな。
そんな余計なひとことを付け足しながら、フンと鼻が鳴った。
「……そうね」
しばらくというには長い時間うっすらと開いたままだった唇が、笑みへと変わる。
笑みがうつるのも、いつものこと。
鼻先がつく距離で笑い、かすかに触れる唇で目を閉じる。
「バレないように、うまくやれよ」
冗談じゃない言葉。
くすくす笑いながら囁きかけると、同じように笑った彼女が確かにうなずいた。
「ふふ。それは心配しないで? 全部、にぃやが教えてくれたんだから」
極上とも呼べる笑みで。
楽しそうにうなずいたのを見て、嬉しかった。
「……無理だけはするな」
「ん。……大丈夫」
自分のテリトリーだからこその逢瀬。
時間は、まだある。
お目付け役を買って出たあの日から、この場所だけは譲れない領土。
バレるなんて馬鹿なミスを、犯すはずがない。
「……もう少し」
彼女の肌すれすれで囁いた自分の声が、自分のモノには思えなかった。
手にある限界まで、あと、数時間。
誰に邪魔されることなく、今を満たす。
「もう少し、こっち来いよ」
抱きしめたまますくった髪が、甘く香った。
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