『人の不幸は蜜の味』
 この言葉を言ったヤツは、正直な人間だと思う。
 そんなことないだの、そんなふうに言うヤツはかわいそうだの、簡単にいい子ぶるヤツに限って口に出す。

 ……でも、それはお前の本心じゃないだろ?

 だから、俺は必ずと言っていいほどそういう人間に、こう言ってきた。
 今現在、自分が満たされている人間はどれくらいいるんだろうか。
 自分の思い通りにコトが運んで、何ひとつ不自由なく暮らしている選ばれた人間が。
 金が欲しい。
 名誉が欲しい。
 地位が欲しい。
 そして――……自分の望み通りの人生が欲しい。
 人間は、欲深い生き物だ。
 それゆえに、欲するものを手に入れるためならば、いくらでも愚かで貪欲になれる。
 俺だって、これまでそうやって生きてきた。
 自分に正直に行動して、絶対に後悔しないように――……と。
「……よく言うよ」
 グラスに入っている氷を見ながら、自嘲が漏れた。
 理想と現実の差は開く。
 どれだけがむしゃらに食らいついても、所詮はあがいて終わり。
 頭ではわかっていても、実際はそうすることなどできない。
 ……そういうもんだ。
 特に――……心底惚れた女を、目の前にすると。

「……損な関係」
 最初から、コンパにまったく乗り気じゃなかった目の前の女が、そう呟いた。
 それで、友人らから興味がそちらへと移る。
 話はしっかり聞いてるクセして、心ここに在らず。
 まさに、その典型的な顔だった。
「何が損なんだ?」
 空いていた隣の席に座って頬杖を付くと、一瞬驚いたように瞳を丸くしてから小さく笑った。
 その仕草はいかにも女っぽくて、見た目とのギャップを少し受ける。
「幼馴染って関係」
「……幼馴染?」
「そ」
 意外な言葉に反応すると、大きくうなずいてからジョッキに口をつけた。
 ……幼馴染、ね。
 どこの世界にも、俺と同じようなことで悩んでる人間ってのはいるんだな。
「……ちょっと」
「ん?」
「失礼よ? 人の顔見て笑うなんて」
「あ? あー、悪い。いや、別にそういうつもりじゃなかったんだけどさ」
 怪訝そうな彼女に慌てて笑みを見せると、小さくため息をついてから頬杖を付いた。
「気持ちわかるぜ? ……俺も幼馴染いるし」
「……へぇ」
 案の定、幼馴染という言葉に反応を見せた彼女が、顔だけをこちらに向けた。
 『なんなら、聞いてあげてもいいわよ』
 まるでそう言っているようで、少し笑える。
「……どこに行くにもくっついて来たがるクセに、すぐ泣いて、すぐ落ち込んで……」
 話し始めるにつれて思い出されるのは、昔の彼女の姿。
 いつも一生懸命で、叶わないってわかってても、絶対に努力することをやめない。
 諦めろって言っても、自分が納得できなければ首を縦に振らない。
 ……人は、そういうのを我侭だとも言うだろう。
 だが、俺に言わせてもらえばそれは違う。
 そういう人間こそ、本当に自分のことを理解している人間だと思うから。
「……まぁ、そんな幼馴染も今じゃ昔から好きだったヤツと仲良くやってるけどな」
 ふと視線を感じて彼女を見ると、何やら真剣な顔でこちらを見ていた。
 それで、予想以上に自分が思い出に入り込んでいたのに気付く。
 情けねぇな。
 ……しっかりしろよ。
 どうやら、自分の中では整理がついたと思っていたのに、いつまでも想いを断つことができていないようだ。
「好きだったんでしょ。その子のこと」
 いたずらっぽい声でそちらを見ると、頬杖を付いたままにやっと笑った。
「……終わった話だ」
 ふっと笑って首を振ってから、グラスに口をつける。
 ……そうだ。
 ずっと前に、終わった話なんだぞ。
 自分に言い聞かせるかのように言葉を噛み締めていると、彼女が小さく笑って視線を落とす。
「私も好きだったのよ。幼馴染のこと」
「……へぇ」
「馬鹿で、どーしようもなくて、救いようがないヤツだったけど……それでも、私にとっては特別だった」
 正面を向きながらの彼女の横顔に、正直自分とカブってる部分があるのに気づいた。
 ……違う。
 コイツは、そんなふうに思ってない。
 きっと今でも、その男が好きなんだろう。
 そう、思えるような顔だった。
「よし。じゃー、お互いフラれたモン同士ってことで付き合ってみるか」
 ぽんっと手を叩いて彼女に人差し指を立てると、それを見て瞳を丸くしてから――……。
「……思いっきり笑うな、おい……」
「だって、そうじゃない。知ってる? そういうの、傷の舐めあいって言うのよ?」
「そーとも言う」
 手を叩いておかしそうに笑った彼女につられてこちらも笑うと、しばらくしてから落ち着いたらしく、呼吸を整えてこちらを見つめた。
 ……つーか、そんなに笑わなくても。
 目尻に涙まで溜めてくれるとはね。
「じゃ、手始めに――」
「悪いけど、そんな気ないわよ?」
「……え?」
 アレだけの反応を見せたからこそ、絶対に首を縦に振るもんだと思ってた。
 なのに、彼女は笑みを残したままで、きっぱりと首を横に振る。
「なん――」
「人のこと、逃げ道に使わないでくれる?」
「っ……」
 さっきと打って変わって見せた、鋭い表情。
 口元は笑ったままなのに、目は笑ってなかった。
 ……これまでの女にはなかった反応。
 それで、つい喉が鳴る。
「ちゃんと好きな女がいるクセに、逃げてるだけじゃない」
「……逃げてる?」
「そうでしょ? 自分は、その子が好き。だけど手に入らないから、別の女でコトを済ませる。……違う?」
 ……これはこれは、厳しいお言葉で。
 だがまぁ、当たっている部分もある。
 だからこそ、何も出てくることはなかった。
「悪いけど、ズルい男は嫌いなのよね」
 ガタっと音を立てて立ち上がった彼女を見ると、にっこり笑みを浮かべたまま手を振った。
「真剣勝負できる立場になったら、考えてあげる」
「……あ。おい!」
 そのまま店の出口へ向った彼女を慌てて追いかけ、肩を掴む。
 すると――……。
「……な……んだよ」
「はい、これ。きれいな身体になったら、来ていいわよ」
 目の前に差し出された、小さな紙。
 それを受け取ると、何やら細々とした文字と見たことのあるマークが印刷されていた。
「あ!? おい、待てって!」
「話はそのとき聞くわ」
 俺がそれを見ている間に、彼女はそそくさと出口から出て行ってしまった。
 あとに残されたのは、この……四角い1枚の名刺だけ。
「……鈴木亜紀代、ね」
 これまでに類を見ない変わった女だとインプットされた……このときから。
 退屈でしかなかった毎日が、徐々に変わり始めることになった。


2005/7/2


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