「…………」
 ソファに全身を預けて、横になる。
 それから天井を見上げると、当たり前ながらも、見慣れた白い天井が見えるワケで。
 ……見飽きた、というレベルじゃない。
 俺にとって、ここに住み始めてから『当たり前』になったものなんだから。
「……ふー」
 縁を掴むように眼鏡を外してから、頭の後ろで組んだ両手に頭を乗せる。
 テレビは付いたままだが、聞いているだけでまったく見ることはない。
 本日、金曜日の午後20時過ぎ。
 いつもならば、彼女がこのソファに座って柔らかく笑みを浮かべているころだ。
 ……なのに、今夜は俺がこうして占領できている。
 ということは――……言うまでもないんだけど。
「……はぁ」
 瞳を閉じれば、出るのはため息ばかり。
 そして、浮かぶのは……彼女のことだけ。
 昔は、これが当たり前だった。
 大学の研究室に入ってからは、帰ってくるのも毎日22時すぎ。
 ヘタしたら、研究室で泊まりなんて日もザラにあった。
 だけど、あそこにいるのは楽しくて。
 あれこれやってるのが、ものすごく充実してると思えて。
 ……だから、家だろうと大学だろうと、俺の場所はどこでもいいんだ……と思っていた。
 仕事を始めてからも、そうだ。
 教育実習と全然違って、責任ある仕事が増えていく。
 失敗しても、『学生だから』という理由で逃げることなど当然できない。
 教育実習のときもそうだったが、生徒たちにしてみれば、半人前だろうと熟練だろうと『教師』は『教師』なワケで。
 だからこそ、あれもこれも……と手を広げすぎて、結局自分が潰れそうになることもあった。
 そのたびに助けられた、諸先輩方。
 ……無論、恩師である瀬那先生は言うまでもなく。
「…………つまんねぇな」
 ついつい、そんな文句が漏れる。
 だってそうだろ?
 今日は、せっかくの金曜日なのに。
 せっかく、彼女とふたりきりですごせると思っていたのに。
 ……それが、どうだ?
 ひとりっきりで家にいて、何をするでもなくだらだらすごしている現状。
 当然、論文だって学校の書類作成だって、沢山あるんだよ。仕事は。
 なのに、こんなふうに時間を浪費しているんだから……いい身分だな。俺は。
「……は……」
 薄く笑いが漏れ、おかしくなる。
 彼女がいなければ、何もできない困ったヤツ。
 そーゆータイプは、もちろん学生時代から何人も見てきた。
 だけど、そのたびに俺は不思議で仕方なくて。
 どうして女に依存しなきゃいけないんだ、と冷めた考えしかなかった。
 人は所詮ひとりで生きるモノ。
 『人という字は……』なんて熱く語られても、俺は真っ向から反論することができた。
 確かに、人はひとりでは生きられない。
 影で支えてくれている人々がいるからこそ、今の自分がある。
 それは、わかる。
 だが、結局人っていうのは自分だけがかわいくて、いざというときには他人に冷たく見放される。
 ……それが、ほかの動物と1番違う点。
 『人』という仲間意識が薄くて、所詮、他人は他人。
 知らないヤツが困っていようと苦しんでいようと、自分は安全な場所にいるから関係ない。
 そんなふうに、俺だって考えていたんだと思う。
 …………なのに、だ。
「……どいつもこいつも、世話焼きで困るな」
 1番最初に浮かぶのは、ヤツのこと。
 高校なんてモノは、最後に受験戦争が待ってるんだから、他人と仲良くままごとなんてする必要ない。
 そう思ったから、俺は自分から好んで人と関わらなかったのに。
 ……なのに、アイツはずかずか入ってきやがった。
 見事にお節介という言葉が、ばっちしなアイツ。
 ……見てみろ。
 お陰で、今じゃふつーのよき青年だぞ?
 他人なんて関係ないとか、自分ひとりで行動できないヤツは置いていかれるとか、他人に厳しく自分にも厳しかった俺が……ものすごく困っていそうな人間が目の前にいたら、普通に手を差し伸べそうだ。
 困ってるヤツがいたら、できることをする。
 そんな、アイツみたいな世話好きに。
 ……もちろん、忘れちゃならない世話好きがもうひとり。
 隣人だろうと、一期一会の赤の他人だろうと、心配して自分までをも犠牲にしてくれそうな彼女。
 そりゃ、そこまで人に尽くすことができるのは、すごいと思う。
 まったくそういうつもりがない俺に言わせてもらえば、恐らく少しでも見習ったほうがいいだろう。
 むしろ、アレだ。
 俺と彼女を足して2で割ると、ちょうどいいかもしれない。
 それくらい、彼女は本当に博愛主義だと思う。
 ――……だけど。
 そんな彼女が、俺だけを見て、俺だけのために尽くしてくれることもある。
 むしろ、俺はその他大勢の人間よりもずっと優遇されていて、ずっと……愛されてるワケで。
 みんなを大切に……という彼女にとって、『特別』になれたのはすごく嬉しいし、誇らしい。
 俺は、その他大勢とは違う。
 彼女にとって、なくてはならない存在。
「…………はー……」
 小さく伸びをしてから、組んだ手を額に乗せる。
 広い部屋。
 静かな家。
 ……俺だけの、空間。
 普段はこれが当たり前だから、なんとも思わない。
 だが、彼女が来ることが習慣づいている金曜に独りだと、ものすごく孤独感にさいなまれる。
 時間が経つのが遅くて、ひどく長い夜で。
 機嫌もすこぶる悪いだろうし、恐らく体調も芳しくないはず。
 …………彼女に、しっかり左右されてるな。俺は。
 いつぞやの笑ってしまった友人たちに、改めて詫びを入れないといけないかもしれない。
「…………」
 わずかに瞳を開け、天井を見る。
 相変わらず、無機質でなんの変化も見せない。
 ……同じように彼女を見たら、全然違うのに。
 表情はもちろん、ひとつたりとも同じはない。
 温かくて、安らかで……受け入れてくれて、必要としてくれて。
 そんな彼女が、今日はいない。
 週末の金曜。
 疲れもピークに達する本日、さらに疲れが乗算されそうだ。
 彼女に触れていれば、安らぐのに。
 髪も、肌も、唇も……何もかもが俺にとっての癒しであり、カンフル剤であり。
 ……なくてはならない存在なんだよ。本当に。
 笑って抱きしめてくれれば、元に戻る。
 たとえ俺が今にも死にそうな重症を負っていようとも、彼女がそばに居てさえくれれば、たちまち傷は癒えるだろう。
 それほど、彼女は特別で。
 俺にとっての中心で。
 ……愛すべき人で。
「…………はー」
 彼女が今ここにいればいいのに。
 右手の甲を額に付け、再び瞳を閉じる。
 浮かんでくるのは、どれもこれも彼女のことばかり。
 だからこそ、自分が相当参ってるんだと容易にわかる。
 ――……いつも。
 いつも彼女はこのソファへもたれて、テレビを見たり本を読んだりする。
 俺は、そんな彼女の髪に触れるのがやっぱり好きで。
 髪に触れれば、こちらに気付いて柔らかく微笑んでくれる。
 そして、笑みを浮かべる唇についつい指で触れ……確認したくなる。
 じぃっとまっすぐに見つめる彼女の頬に手を伸ばし、軽く撫でれば、くすぐったそうに瞳を閉じて。
 ……そのままする口づけが俺にとっては最高で。
「…………」
 つまらない。
 コツコツ、と軽く額を叩き、大きく深くため息をつく。
 彼女がいないのは、非常につまらない。
 手持ち無沙汰はもちろんだが、身体のほうがよっぽど……持てあますワケで。
 いないとわかっているからこそ、抱きしめたくなるし、キスをしたくなる。
 困った顔して見上げる彼女を、しっかりと抱いて、そのまま朝まで寝ていたくなる。
 ……我侭な欲。
 そればかりが、困ったことに際限を知らない。
 疲れているから、余計に彼女が欲しくなる。
 アイツが甘いものを欲しがるのと同じように、俺にとって極々自然なことだ。
 ……彼女も、甘いし。
「…………めんどくさ」
 改めて、自分がまだ仕事着のままだと気付いた。
 着替えに寝室へ向かうことなくここへ座ったから、ネクタイも少し緩めた程度。
 ……ベルトもしたままだし。
 こうなると、いっそこのまま寝ようかという気になるから、やっぱり俺は不精なんだろうなぁと思う。
 独りだから、どーでもいい。
 適当に朝起きて、適当に風呂入って、メシを食って。
 それから、どこか出かける…………ワケないよな。
 独りの休日なんだから。
「ッ……!」
 堕落しかけた頭へ響いた高い音に、自分でも驚くくらいの反応をする。
「もしもし?」
 ディスプレイに表示されていたであろう名前も見ることなく、放ったままの携帯を引っ掴んで耳に当てる。
 今夜だけは、聞けるはずないと思ってた。
 彼女のために設定した着うたも、彼女自身の愛しい声も。
『……あ。先生、今って……電話平気ですか?』
「もちろん。じゃなきゃ、こんな早く出ないだろ?」
 相変わらず、彼女らしいセリフが聞こえて笑みが漏れる。
 ……それにしても。
 数時間前まで聞いていた彼女の声がやけに懐かしく聞こえて、まるで何日もご無沙汰だったみたいだ。
 そんなに俺は彼女を欠乏していたのか。
「どうした? 何かあった?」
 目を閉じ、彼女の声だけを聞くべく携帯を耳へ強く押し当てる。
 吐息すらも逃がしたくないなんて考えるのは、わがままなのか……はたまた彼女馬鹿なのか。
 言わずとも、答えは知れてる。
『……あのっ……これから、行ってもいいですか?』
 おずおずとした彼女の表情が、手に取るようにわかる言葉と声。
 それを聞いていたら、案の定口角だけ上がった。
「困る」
『……っえ』
 ため息をついてから彼女に言うと、鋭く反応した。
 ……どうやら、俺という人物は心底正直じゃないようだ。
 何かしら、彼女を困らせてやりたいと思っているんだから。
「……来たら、帰さないよ?」
 電話の向こうでさぞかし困っているであろう彼女に、思いっきり間を作ってから続けると、小さく声をあげてから『もぅ!』といつものセリフが聞こえる。
 ……この顔、直接見たかったな。
 きっと、瞳を丸くして、さぞやかわいい顔をしてくれただろう。
 …………あー。
 やっぱり俺は性格が悪いらしい。
「おいで。……待ってる」
 瞳を閉じて改めてソファへもたれながら……それだけ囁く。
 すると、一瞬言葉に詰まってから、彼女が嬉しそうにふたつ返事をくれた。
 電話を切るのが惜しい気もするが、すぐに会えるんだ。
 そう言い聞かせて、通話を終える。
「……起きるか」
 俺は単純だから、先ほどまでとはまるで違う。
 笑みも浮かべているし、何よりも『面倒』という文字が消え去った。
 ひとまず着替えて、テーブルにあるいらない本を片して……。
 …………風呂沸かすか。
 ふと目に入った操作パネルを見て、小さく笑みが浮かんだ。
 彼女は、俺にとってのすべてと言っても過言じゃない。
 疲れていれば疲れているほど、彼女という女性(ひと)は必要で。
 ……きっと、こうして俺の毎日が変わって、そしてこれからも変化を遂げていくんだろう。
 彼女という、愛すべき人によって。
「……ゲンキンなヤツ」
 テーブルに伏せたままだった眼鏡を取り、寝室へ向かう。
 そのときの顔は、やっぱり笑顔になっていた。
 ……こういう俺も、悪くないか。
 なんせ、彼女のための俺なんだから。


2005/7/20


戻る