心底、不真面目な人間だと思う。
もし俺が生徒として自分のような人間を見ていたら、恐らく軽蔑と懸念の眼差しで見るに違いない。
コイツが教師なんてやってて、いいのか? と。
「え? ホントに?」
「うん。そーよ、ホント。私見たんだから。マジもマジっ!」
いつもと変わらぬ、朝。
担任である日永先生に代わって行うHRを終えて提出物を預かっていると、そんな声が聞こえた。
どうしたって、視線はそちらへ向いてしまう。
だって、そうだろ?
どんな喧騒の中だろうと聞き逃さない自信がある、愛しい彼女の声なんだから。
何やら楽しそうに話している絵里ちゃんの顔には、しっかりと『冗談』って書いてあるんだが、かわいい年下の彼女は神妙な顔をして聞いていた。
……また何か吹き込まれてるな。
そんなことが容易に想像つき、瞳が細まると同時にため息が漏れる。
どーせまたくだらないことでも吹聴して回ってんだろ。
集め終えたプリントを机で揃えてからドアに向かい、そのまま奥の職員室へ。
――……と、弾かれるように振り返っていた。
「職員室ですか?」
「もちろん」
小走りで隣にやってきたのは、先ほどまで絵里ちゃんに捕まっていた愛しい彼女。
だが、今はあのときのような神妙な顔じゃなくて、いつもと同じ笑みを浮かべている。
「どうした?」
「あ、私も職員室に用があって」
「へぇ。……提出期限は守らないといけないんじゃないのかなァ」
「……ぅ……」
視線を彼女から戻して呟くと、手に持ったプリントを両手で持ち直してから声を漏らした。
国語の課題らしき、マス目が印刷されたそれ。
この時期になると授業で課せられる、小論文だろう。
「ま、しっかり小言でも頂戴しておいで」
「はぁい」
こちらを伺うように上目遣いで見ていた彼女に、苦笑を漏らしてから――……いつもならばここで、髪を撫でていただろう。
つい出てしまった行き場のない手のひらを握り、そのまま白衣のポケットへ。
危ない危ない。
こんな場所で彼女に触れば、どんな言葉でさえも取り繕うことなどできないからな。
……なんて考えていたら、彼女と目が合った。
わずかに視線を落とし、嬉しそうな笑みを浮かべる。
どうやら、彼女には今俺が何をしようとしていたのかわかったらしい。
すべてわかっているという意味の笑みは、なんだか秘密めいていて悪くない。
「で? 何を吹き込まれた?」
視線を再び彼女に戻すと、思い出したように軽く手を叩いてからこちらを見上げた。
秘密を知ってしまってうずうずしてるという顔をしていた彼女に、俺が聞かないワケがない。
「スイカってあるじゃないですか」
「スイカ?」
「うん。あの――」
「あー、JRのか」
「……JR?」
「そ。suicaだろ?」
「発音が違います!」
「あ、そう」
どうやら、俺も絵里ちゃんのことを言えた義理はないらしい。
こうして彼女にいろいろな反応をさせて、様々な顔を見たがっているから。
……仕方のないヤツだ。
「で? スイカがどうした?」
「そう! あのね、スイカの芽がお腹で育った人がいるって知ってました?」
「……は?」
「だから! スイカの種を飲み込んじゃってそのままにしてたら、芽が出てきた人がインドで発見されたらしいですよ」
どんな衝撃情報かと思いきや……それですか。
一生懸命話してくれる彼女に悪いとは思いながらも、ため息が漏れる。
すると、『信じてないでしょ』という顔をした彼女が口を開いた。
「ホントですよっ! だって、絵里が――」
「ありえない。いい? 植物が発芽するには空気と温度と水が必要だろ?」
「……うん」
「でも、人の体内では水が多すぎるんだよ。だから、絶対に芽は出ない」
「けどっ……!」
「いくらインドが不思議大国だとはいえ、無理なものは無理。なんなら、今のこと絵里ちゃんに言ってみればいいだろ? もしそれでも本当のことだって言うなら、見たまんまもう1度説明してくれるよ」
「……うん……」
説明し終えても、いまいち腑に落ちない表情の彼女。
素直なのはいいことだが、相変わらず騙されやすい。
……まぁ、騙すほうがもちろん悪いんだけど。
職員室のドアに手をかけてノブを回し、先に彼女を通してやる。
廊下ではあれこれと大っぴらに話ができるが、ここはやはり別世界。
だが。
国語科の教師らが座る場所へ曲がったとき、彼女がこちらを向いた。
これと言って、何かを口にするわけじゃない。
だが、それ以上に表情は多くを語る。
澄んだ瞳を向け、嬉しそうに、はにかんだような笑みを浮かべること。
それは、彼女の1番の意思表示でもあり、1番の武器でもあると言えよう。
彼女から視線を外し、口元に手を当てて漏れてしまう笑みを隠す。
誰かに突っ込まれるからというのもあるが、それ以上に我侭なもののため。
ふたりだけの秘密事だからこそ、誰にも邪魔されたくないという――……ホント、どーしようもない我侭だ。
机にプリントを置いて座ると、自然と視線が上がる。
その矛先にいるのは、もちろん彼女。
だが、自分の中の我侭な欲望は、止まることを知らないようだ。
現代文担当の男性教師と話す、彼女の姿。
屈託なく笑って彼に向けられるのは、穢れのない瞳。
相手がどんな男だろうとも、いつも自分だけに笑みが向くことを願うのは、やはり器が小さいだろうか。
よくできたお嬢さんだからこそ、人と話をするときは必ず相手の目を見て話を続ける。
……そう。
初めて、彼女が俺のところへ来たときもそうだった。
疑うことを知らない瞳を逸らさずに微笑みを向け、すべてを受け入れるようにうなずいてくれる。
彼女がいるだけでその場の雰囲気が変わり、明るく見えた。
小さな花のようにも見えるのに、どんなものよりも香り立ち、どんなものよりも惹き寄せる。
そして、どんなものよりも強く惑わす。
彼女のことになると自制が利かないのは、彼女の見えない力のせいなのかもしれない。
かわいく笑わないでくれ。
甘い声で話さないでくれ。
それが自分に向けられていない今は――……どうか。
食い入るように見つめていた彼女から視線を外し、椅子にもたれる。
大きく音を立てて椅子が受けとめてくれると同時に、ため息が漏れた。
それが、仕事前に出たいつものものなのか、彼女が頭を下げて職員室を出て行ったせいなのかは、定かではない。
自分の教え子と付き合っている自分は、やはり不真面目だろうか。
……それとも、卑怯だと罵られるだろうか。
権力を掲げて、無理やり首を縦に振らせた。
そう取られることも、もしかしたらあるのかもしれない。
だが、それでもいいと思う。
彼女という存在が、そばにいてさえくれるのならば。
彼女に嫌われて彼女を失くしてしまうことに比べれば、頭を下げて尻尾を振るような狗であろうと、構わない。
――……と、ここまで思えるようになった自分が、ときどき我ながらわからなくなる。
どうして今までそう思うことがなかったのか、と。
……だが、理由は至極簡単。
『欲しい』とひとことも口に出さなかったから、だ。
「先生?」
「ん?」
温かな感触で、まぶたが開く。
見れば、相変わらずきれいな瞳でこちらを見つめている彼女。
『ほかの誰にも優しくしないで』
そんなことを言ってみたいが、出てくるのは別の言葉。
「……休み時間、やけに楽しそうだったな」
「え?」
「ずいぶんかわいく笑うね、君は」
「そ、そんなこと……」
足の間に彼女を招いたまま視線を逸らして呟けば、彼女は決まって視線を戻そうと頬に手を当ててくる。
……ほら。
今日も例に漏れず、彼女は眉を寄せて顔を近づけた。
「もぅ。どうしてそんなふうに言うんですか?」
「別に」
「じゃあ、どうして怒ってるの?」
「怒ってない」
「だって、怖い顔してるじゃないですか」
「そう?」
「そうですよっ!」
彼女がこう言うときは、いつもそうだ。
決まって、まるで子どもでも叱るように俺に言う。
その顔は相変わらずかわいくて笑いそうになるんだけど、ここで笑ったら恐らく彼女は不機嫌になるだろう。
それはわかるから、耐える。
……たまに、無理なときもあるけど。
「ねぇ」
「……え?」
笑みを浮かべると、どんなに彼女が怒っていても、いつだって笑みで迎えてくれる。
はにかむように微笑む顔が嬉しそうなのは、いつまで経っても変わらないだろう。
手を伸ばせばすぐに触れられるこの距離が、限りなく愛しい。
さらりと指の間を通る髪を弄りながら、瞳を合わせ、そしてこう考える。
俺を愛してる?
……本当に?
口には出せない、こんな馬鹿げたこと。
そんなこと、改めて訊ねるまでもないからだ。
俺の希望的観測だと言うヤツがいれば、『直接彼女に聞けばいい』と答えるだけ。
きっと、とろけてしまうような極上の笑みで答えてくれるだろうからな。
……あ、いや待て。
ンなことして、そいつが惚れでもしたら困るな……。
「もぅ。先生、どうしたんですか?」
口元に手を当てて考え込んでいたらしく、彼女が再び顔を覗き込んだ。
「……欲しいって言ったら、なんて答えてくれる?」
ひとりでに出た笑みを噛み締めながら、訊ねてみる。
我ながら、悪い癖だ。
だけど、どうしても彼女の反応を見てみたいから、そうしてしまう。
それが、彼氏と彼女ではなく教師と生徒という関係の学校であったとしても。
――……そうだな。
彼女がいてさえくれるのならば、世界で1番不真面目な教師と言われるのも、悪くない。
などと不意に浮かび、改めて彼女に手を伸ばしていた。
BGM『Touch by 志庵』
2005/1/25
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