相変わらずだな、とか。
 教師のクセに、とか。
 恐らく、いろんな言葉の組み合わせがあるだろう。
 そうは思うが――……それでも。
 やっぱり、ここに来ることをやめられなかった。
 ……昔から、そう。
 どうしても、気が付くとついつい目指している。
 昔とは大分違う立場。
 むしろ、ここへくる生徒を取り締まるほう。
 それでも尚、やめることはできなかった。
 こうも、俺を惹きつける魅力。
 それが間違いなくここにある。
「…………」
 この場所を思い浮かべるだけでもそうなんだから、いざ立ってみれば間違いなく強く実感する。
 特別な思いを抱いているのは恐らく、昔からこの場所に抱いていたそんな思いのせいだろう。
 ……トクベツ。
 まさに、字の如く。
 俺にとってこの場所は、どんな場所ともまったく違う、自分だけでいられるトクベツを味わえる場所だった。
「…………」
 階段の最上段を踏み、錠の付いていないドアを開ける。
 見上げるまでもなく、目の前に広がるのは青の大気。
 見慣れたはずの風景も、眼窩(がんか)に広がるとまた違って見える。
 屋上。
 ここは、俺にとって深い意味のある場所だった。
 初めて屋上に上がったのは、小学生のとき。
 図工の時間に、屋上から見える風景を描くというので出たのが、最初だった。
 上履きのまま踏み込んだのは、常に風雨にさらされているざらざらした屋上で。
 コンクリート剥き出しでこそなかったものの、校舎のほかの場所とはまったく違っていた。
 あのとき見えた光景は、今でも忘れられない。
 遠くに輝いて見えた、海。
 そして、意外と近くに広がっていた山。
 普段、校庭からでは見えないものが見えたことが、何よりも衝撃的だった。
 ビルに登れば見えるというのもあるが、それとはまた違う。
 ガラスを隔てて見るのとは違い、実際に風がある場所。
 だからこそ、印象に強く残る。

 屋上は、特別なときにしか入れない。

 それが第一印象だったから、もしかしなくとも、以来屋上に特別な思いを抱くようになったんだろう。
「…………」
 ペンキの剥がれかかった手すりから離れ、屋上の中央へと動く。
 どちらの側にも、寄りすぎれば下から見えてしまう場所。
 ……さすがに、立入禁止を掲げられている場所にいるのを見つけられたら、言い逃れのしようがない。
 俺が美術や地学担当とかだったらまだ、言い訳のひとつやふたつあるんだが……残念ながら、担当は化学。
 まったくもって、屋上に用事がない教科だ。
 注意すべき立場の人間が、大っぴらに屋上をうろつくことなどできない。
 それは承知の上なんだが……どうしても、たまに来たくなるんだよな。
 この雰囲気を味わいたいというか、この場所が無性に好きだというか。
 …………。
 ……まぁ、どれを取っても、至極個人的な理由に変わりないんだが。
「………………」
 妙にどきどきすると言ったら、笑われるだろうな。
 それでも、たとえ何度ここに通ったところで、最初に抱いた思いが薄れることはない。
 落ち着くという思いと、強い憧れ。
 そんなふたつの感情が入り混じったモノが、身体を流れる。
 仰ぐまでもなく見えるのは、青と白のコントラスト。
 どこまでも遠く遠く晴れ渡るこの空に、果てはない。
 大して地上では風が感じられないが、上空ではかなり強いんだろう。
 ぽっかりというよりは、幾つもの筋を作り上げている雲が、早く流れていた。
「っ……」
 眩しさよりも先に見つけた、モノ。
 それは、俺がこうして屋上に上がる回数を増すことになった、そもそもの源。
 音もなく、影もなく。
 青く澄んだ空を走る、白い機体。
 光を翼いっぱいに受け、風と光の中を切って進む――……飛行機。
 あれこそが、自分もいつか……と目指していた場所で。
 幼いころから、願ってやまなかった。
 そして、必ずと信じて疑わなかった、色鮮やかな記憶。
 ……それが、どうだ。
 結局は、叶えられなかった。
 断念しなければならなかった。
 すべては今、夢のまま止まっている。
 …………それでも。
 やっぱり、俺にとって空は特別な存在だから。
 どこよりも1番空に近い場所が、ここ。
 同じ空気を感じ、同じモノを見つめ、思いを強く馳せる。
 誰よりも1番高い場所で、モノを見たいと思った。
 地では見られないモノを、沢山見たかった。
 あそこでしか見られない地の果てを、この目で確かめたかった。
 そんな思いが、ずっと俺を突き動かしていた。
 今も昔も、自分が置かれている『学校』という場所で、もっとも空に近づけるこの屋上が何よりも特別だった。
 学生時代はことあるごとに足を運び、授業を抜け出しては……なんてときも、たまにあった。
 昼休みは友人連中とダベるの格好の空間と化し、放課後は自分だけの領域ともなった。
 ……高く。
 もっと、高くまで。
 人類がそう願ってやまないのは、果てが見えないこの空に、強い憧れと畏怖を感じたからじゃないか。
 何があるのか、ではなくて。
 なんとかしてでも、空の境界を見出したかったんだろう。
 ……だが、結局果てはない。
 空は線引きされることなく、宇宙へと姿を移す。
「……遠いよな」
 どこまでも、まさにどんなモノでも貫けない、空。
 寝転がって、ただただ空だけを眺めていたことも昔はあった。
 ……暇だったとか、そういう理由じゃなくて。
 飽きないモノ。
 それが、ここであり、あれだから。
 もしも俺が、自由に使える空白な1日を授かれたとしたら……もしかしたら俺は、ここに寝て空を見ることを選ぶかもしれない。

 ガチャッ

「っ……」
 大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出したとき。
 背後で、ドアの開く音がした。
「あ」
 反射的に振り返り、相手の出方を待つ――……よりも早く。
 張本人が、口に手を当てて俺よりも驚いた顔を見せた。
「……なんでここに……」
 小さく小さく、漏れた本音。
 まさか、こんな場所に俺以外の人間が来るなど正直思ってもなかった。
 なぜならば、この2号館の屋上への階段はすでに物置と化していて、使わなくなった机や椅子はもちろん、いくつもの教科で使った歴代の古い教材が積まれている。
 なおかつ、屋上は鍵がかかっているし、立入禁止。
 ……とすれば、大抵の人間がわざわざそんな面倒なことをしようとは思わないはずなのに。
 少なくとも――……俺のように、どうしてもここから外へ出たいと思う馬鹿なヤツ以外は。
「……あの……えっと、教科の連絡で……」
 瞳を丸くした俺に、ようやく事態を把握できたらしい彼女が、恐る恐る口を開いた。
 途端、校舎内との気圧の関係から、こちらへと風が吹き抜けてくる。
「っ……わ!」
 勢いで押し出されるかのように、こちらへ数歩よろめいた彼女。
 短いスカートがこれでもかというほどはためき、柔らかい髪が頬にまとわりつく。
「……あ……」
「真面目だね、羽織ちゃんは」
「え?」
 大きく口を開けたドアから自分の元まで来た彼女に近づき、乱れた髪を両手で直してやる。
 今起きた風が嘘だったかのように、今は風もなく穏やか。
 撫でるように髪へ触れると、いつもと同じ柔らかな表情の彼女が、ぱちくりとまばたく。
「ご苦労さま、って言ったほうがいいかな」
 苦笑を浮かべて頭を撫でると、慌てたようにかぶりを振った。
 だが、腕時計を見ると、すでに昼休みは半分をとうにすぎていて。
 ……きっと、あちこち慌てて探してくれたんだろうな。
 その労力を考えると、やはり申し訳なくなる。
 ――……が。
「こういうのも……タマにはいいかな」
「え?」

「こんなふうに、羽織ちゃんに探し出してもらえるなら」

 親指で唇に触れると、うっすら開いてから、まっすぐに見つめていた瞳を揺らした。
 ……どんなこと考えてる?
 ついつい、自身の瞳が細くなる。
「ここに辿りつくまでの間、ずっと俺のことだけ考えてくれただろ?」
「……それは……はい」
 言い換えればそれは、『俺』という人間ならばと考え、想像し、推測をして辿り付いたということ。
 つまりは、常日頃から俺のことを考えてくれていなければ、できない芸当でもある。
「そういう形の独占ってのも、悪くないなって思って」
 囁くように笑い、そっと顔を近づける。
 自分にとって、何よりも特別と憧れを抱いていた場所。
 そこに――……彼女という特別な人物が現れ、俺を呼び戻しに来てくれた。
 遠くに行かないように。
 叶わないモノを追い求めて、道を(たが)えないように。
「……ありがと」
 ほんの少しの間重ねた唇を離し、さほど距離の開いていない場所で、囁く。
 微かに感じる彼女の柔らかな唇が、くすぐったくも心地いい。
「……イイ顔」
「…………もぅ……」
 恥ずかしそうにしながらも、どこか嬉しそうな顔の彼女を見たら、心底嬉しさがこみあげた。
「また、いなくなったら探して」
「えぇ? いなくならないでくださいっ」
「ダメ?」
「……ぅ。……だ、だって……」
 手を引いて階段に向かい、くすくす笑いながらドアに手を伸ばす。
 ふたりでこの場を独占するのもいいけれど、限られた時間の中では、それもなかなか難しい。
 ……ましてや、俺と彼女。
 立場の違いも、また理由のひとつ――……だから。

 相手をしてもらうのは、また今度。

 今はまだ、十二分なほどに俺を放っておいてくれない人がいるから。
「…………」
「……先生?」
「ん? いや、なんでもないよ」
 ドアを閉める寸前、大きく果てしない空にそんな言葉を投げかけると、自然に笑みが漏れた。


2007/5/24


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