「……えへへ」
 リビングにある大きな窓から差し込む、あたたかな日差し。
 ぺたんとフローリングに座りこんで洗濯物を畳みながら、思わず笑みが漏れる。
 ふんわりと香る、洗剤の匂い。
 んー、もしかしたら柔軟剤かもしれない。
 どちらにしても、こうして洗濯物を畳みながら香りに包まれている時間が実は好きだったりする。
 ……なんてことを言うから、絵里には『主婦っぽい』とか言われるんだろうなぁ。
 でも、ホントのことだもん、しょうがないよね。
 ただ、好きなものはほかにもあって。
 たとえば――……そう。
 アイロンをかけたワイシャツからする、甘い香りも好きだ。
 といっても、家でアイロンがけをするわけじゃない。
 私がするのは、この、彼の家でだけ。
 だから、知ってるんだよね。その甘い香りは、何の匂いかって。
 なのに、ぎゅっと抱きしめてもらえたときにその香りがすると、とても嬉しくなってしまう。
 なんていうか、とても特別な感じがするからかもしれない。
 すごく、すごく好き。
「…………ふふ」
 タオルを畳む手が止まり、つい思い出してひとりニヤけた。
 あ、今の私、すごくあやしい。
「っひゃ……!?」
「相変わらず、きれいな鎖骨のラインだね」
「な、ななっ……!? う、祐恭さんっ! もぉ、いきなり触らないでください!」
 いきなり後ろから抱きしめられただけでなく、人さし指で鎖骨を撫でた彼が、あえて耳元で小さく笑う。
 まったく音がしなかったから、本当に突然のことすぎて、心臓が縮んだんじゃないかと思ったほど。  でも、どうやら彼はこんな私の反応は想定内だったらしく、くっくと喉で笑った。
「っ……」
「いきなり触られるのはイヤなの? 俺は、一応ほめたんだけど」
「……や……あの、み、耳っ……」
「ふー」
「ッ!!!」
 耳へ吐息をかけられ、思わず背中が粟立つ。
 けれど、どんなに身をよじったところで、簡単に腕から逃れられるとは思っていない。
 別に、嫌いなわけじゃないよ? 彼にこうして抱きしめてもらえることが。
 だけど……その、ね。
 ……唇が当たっているところ、弱いんだもん。
 きっとワザとやってるんだ。
 私の反応を楽しむために。
「っ……やぁ」
「そういう声出さない」
「だって……っ……祐恭さんが、いけないんじゃないですか」
「俺?」
「……うぅ。くすぐったいです……」
 後ろから抱き寄せられたまま、もう片手の指が鎖骨を撫でる。
 撫でる、っていうのとは少し違うかな。
 まるで、何かを確かめるかのような触り方。
 感触でも楽しんでいるかのようにすら思う。
 ……けれど、さすがにこれ以上はちょっと。
 まだそんな時間じゃないし……って、そういう問題だけじゃないんだけど。
「もぅ。洗濯物がしわしわになっちゃうじゃないですか」
「平気。俺はそこまで気にしないから」
「私が気にするんです!」
「……ち」
 眉を寄せて彼をにらむと、肩をすくめてゆっくりと身体を離してくれた。
 かと思いきや、腕を払っただけで、べったりと背中にもたれてくる。
 ……もぅ。重たいなぁ。
 なんてことが頭に浮かぶけれど、自分がにまにまと笑っているのに気づき、それがおかしくもあった。
「じゃあ、いつならいい?」
「いつって……何がですか?」
「羽織弄り」
「っ……だから、それは……」
「“待て”って言うくらいなんだから、“よし”ってなったときにはそれこそご褒美くれるんだよね?」
「なんでそうなるんですかっ!」
 とんでもないことが聞こえて振り返ると、目が合った途端、にっこり微笑まれた。
 う。その笑顔をまっすぐ向けられると、否定が弱くなってしまう。
 ……うぅ。やっぱり、彼の笑みには特別な力がある気がする。
「いや、それが普通だよ? 当然の法則とでも言うべきか」
「そんなの聞いたことないですよ!」
「羽織が知らないだけだろ?」
 べたり、とのしかかるように背中へ体重を預けてきた彼が、首筋へ息を吹きかけた。
 ぞくぞくっと背中が粟立ち、慌てて逃れるように床へ手をつく。
 まだ、洗濯物は残っている。
 ……といっても、あと少しなんだけど。
「…………」
 どうしよう。
 畳み終わってしまったら、彼に言い訳ができない。
 まだダメだとか、そんな時間じゃ……とか。
 もしかしなくても、彼もきっとわかっているんだろう。
 これを畳み終えてしまえば、拒む理由がなくなることを。
「……あの。祐恭さん」
「ん?」
 私のカットソーと、バスタオルと、彼のジーンズ。
 残されているのは……あと3枚。
 …………と、疑問が浮かんだ。
 私はどうしたいのかな。
 洗濯物を畳まなきゃ、というのを理由に彼から逃れたいのか。
 それとも……早く、触ってほしい、のか。
「………………」
「何? 待ってるんだけど」
「ひゃ!?」
「……あー。落ち着く」
「う、ううう、祐恭さっ……! いきなり舐めないでください!」
「いや、なんか手持ち無沙汰っていうか……」
「手じゃないじゃないですかっ!」
「細かいところを気にしないでいいんだよ」
「気にします!」
 ぺろり、と舐められた首筋を慌てて押さえ、ばっ、と彼から距離をとる。
 けれど、彼は反対の手首を掴んだまま、また、にっこりと笑みを浮かべた。
「っ……や……」
「やじゃないだろ? ホントは、もっと早くこうしてほしかったクセに」
「ち、違いますよ! なんでそんな――……っ!」
 彼の笑みが、途端に変わった。
 にっこり、から……ニヤり、へ。
 瞳を細めて口角を上げ、ぐいっと力を込めて一気に私を引き寄せる。
 畳まず、膝に置いていたタオルが床へ広がったのに、彼はそんなことまるで気にせずに私を腕の中へ納めた。
「……羽織」
「っ……」
 耳元で名前を呼ばれ、ひくん、と身体が小さく跳ねる。
 吐息交じりの、甘い声。
 こんなふうに名前を呼ばれるのが、好き。
 彼が私を呼んでくれるときの声が、好き。
 ……つまりは、彼が好きということなんだけど。
「ちょっとだけでいいよ。俺の相手して?」
「……ちょっとだけでいいんですか?」
「本音を言えば、めいっぱいがいいけどね」
「もぅ……」
 腕に納められたままちらりと見上げたとき、一瞬彼が見せた苦笑はまさに“本音”なんだと思えた。
 いつだって自信たっぷりの彼らしくない、顔。
 口ではなんだかんだ言っても、ちゃんと私の意見を聞いてくれようとするときに見せる表情は、とっても優しい。
「ちょっとだけですよ?」
「ありがとう」
 思わず答えたとき、私も笑みまじりだった。
 ……ちょっとだけじゃなくていい、って思ってるから。
 だって本当は、ちょっとだけじゃ足りない。
 彼に触れてもらえるのは嬉しいし、どきどきするし、とても……好き。
 彼と一緒にいられる時間が多ければ多いほど、私は幸せなんだもん。
「……ん」
 頬を両手で包んだ彼が、ゆっくりと口づけた。
 柔らかくて、優しいキスの始まり。
 これは、次第にまるで違うものへと変わる。
 願わくば、置きっぱなしの洗濯物がしわになりませんように。
 夜になる前には、またここへ戻ってくるから。
 ……きっと。


2011/12/31


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