ある日。
 1冊の本を手にした3人の男がいた。
 彼らは興味本位でその本を手に取り、そして――……ある共通の考えを元に、本を互いに回すことにした。
 ……理由。
 それは、ひどく簡単で単純なことに違いない。
 なぜならば、彼らが手にした本は――……『花言葉』の本だったから。


「私は、アレだなー。アヤメが好き」
「……アヤメ?」
「うん。だって、きれいじゃない! 目立つし」
 昼食を手にしてソファに座った彼女から、テレビへと視線が向く。
 ……アヤメ、ね。
 いかにも大衆的な花を選んだモンだと、少し思う。
 まぁ最も、コイツならばそういう花を選ぶだろうとは思ったが。
「まあ、多用ではあるけどな」
「……多用?」
「風呂に入れるだろ。アレ」
「はぁ? アヤメを?」
「アヤメじゃない。菖蒲の話だ」
「菖蒲? 菖蒲って……菖蒲湯とかの、菖蒲?」
「ああ」
 ものすごく訝しげな顔をした彼女にうなずき、フォークに手を伸ばす。
 ……が。
 何やら考える仕草を見せたままで、固まっていた。
「なんだ? まるで、アヤメと菖蒲が違うとでも言いたげだな」
「え? 違うんじゃないの?」
「……お前、馬鹿だろ」
「ひどっ! ちょっと! 誰が馬鹿よ、誰が!!」
 やはり、俺が思っていたことは正しかったらしい。
 アヤメと菖蒲は違う。
 そんなふうに言うヤツがまだいたとはな。
 ……それで『好き』とか言ってるんだから、世話ない。
「アヤメは漢字で書くと、なんだ」
「漢字で? アヤメはアヤメじゃないの?」
「じゃあ、アヤメを漢字で書いてみろ」
 視線を外して昼食のパスタへと向き直り、早速ひと口すくう。
 無言でカチカチと音だけがしているから、大方、携帯でも弄ってるんだろう。
「……わかったか?」
「こ……こういう字だってことくらい、知ってたわよ」
「ほう。それはそれは」
「知ってたってば!!」
 いかにも『今知った』という顔をしてるくせに、よく言うな。
 自分自身の恥ずかしさに気付いたのか、わずかに顔が赤くなっているのが何よりの証拠。
「だから、日本人は勉強不足だとか言われるんだ」
「うるさぁい!!」
 軽く笑ってやってからテレビに向き直り、ニュースへとチャンネルを変える。
 すると、すぐに小さな声が聞こえたが、いつもと違って文句を言ったりはしなかった。
 ……反省したらしいな。
 ま、妥当だとは思うが。
 菖蒲といえば、当然葉が珍重される。
 花よりも香り高く、花よりも愛でられ、花よりも葉のほうが目立つ花。
 同じような花で『花菖蒲』というものがあるが、あれはあれで別の種類。
 ……まぁ、漢字で見ればどちらも一緒なんだがな。
「ったく。ひとこと多いのよ、ひとことっ」
 小さな声でそちらを見ると、ぶつぶつ文句を言いながらパスタを食べるのが見えた。
 きれいな花の割に、ほかに邪魔されて……どちらが引き立て役かわからない花。
 それでも、ひたむきに信じてひたすら耐え抜く。
 ……確かにまぁ、コイツらしいとは思うけどな。
 相変わらず昔から変わらない彼女を見ながら、改めてそう思った。

「そうねぇ……。桔梗かしら」
「桔梗?」
「そ。きれいでしょ? あれって。作りもそうだけど、色もそうね」
 そう言って笑った彼女の顔は、すごく優しい顔で。
 ……桔梗かぁ……。
 思わず、彼女をまじまじと見つめてしまった。
「ん? 何?」
「……あ。いや。なんか……らしいなぁと思って」
「そう?」
「うん。ほら、あれって確か……薬になるんだよね?」
「あら、よく知ってるわね」
 昔、ばーちゃんの家に行ったとき、聞いたこと。
 だからまぁ、いわゆる『おばあちゃんの知恵袋』ってヤツだ。
 きれいな色で、不思議なつぼみで。
 それを見ていたら、教えてもらった。
「あれって、ほかの花と違って特別な構造してるじゃない? 花びらが全部くっ付いてて、花が咲くときになって離れて」
「……だね」
「そこがまたいいのよねー。……小さいころ、一度だけどうしても気になって、つぼみをムリヤリ開いちゃったこともあるんだけど」
「……そんなことしたの?」
「あはは。ちょ、ちょっとだけ」
 懐かしむような表情からは想像もできない事実。
 ……でもまぁ、確かにやりそうな気はする。
 どんなことでも、気になったことは自分の手で究明したんだろうなぁ……。
 きっと、そういう子どもだったから今の彼女があるんだろう。
 強い香りがあるわけでも、大きな花を咲かせるわけでもない、桔梗。
 だけど、見る者を惹きつける、その気品ある姿は……やっぱりきれいで。
 出しゃばるほど目立つような感じじゃないけれど、どんな花より印象は強い。
「……なるほどね」
「ん? なぁに?」
「ううん。こっちの話」
「……ちょっとー。何よ。気になるでしょー?」
「だから、内緒だってば」
 いたずらっぽい顔をして腕をつついた彼女を見てから、首を振る。
 周りを惹きつけ、飽きさせず、その場の雰囲気をほんのりと変えてしまう力。
 ……そういう意味では、彼女がこの花を選んだのもやっぱり当然といえば当然なのかもしれない。

「……紫陽花、とか好きよ?」
「紫陽花……ってまた、渋いな」
「失礼ね」
 まじまじと彼女を見たら、眉を寄せてため息をついた。
 ……でも、なぁ?
 普通、女に何の花が好きか訊ねたら、もっと華のあるモンを選ぶだろ。
 バラとか、ユリとかさ。
 …………なのに。
「紫陽花ねぇ……。また、どして?」
「んー……なんでだろ。ほら、色が変わるじゃない。あれが、好き」
「……あー」
 そう言われれば、確かに紫陽花は土によって色が変わる。
 アルカリ性か酸性か、だっけ。
「…………」
 ぼーっと頬杖をつきながら彼女を見ると、相変わらずうまそうにメシを食いながら窓の外を見ていた。
 本日の天気は、雨。
 紫陽花には、持ってこいな恵みの雨ってところか。
 まぁ、時期は少し違うけど。
 ……相変わらず、本心が見えねぇな。
 瞳に映っている風景は、どれもこれも当然今俺の目の前にあるものと同じ。
 なのに、彼女の真意は汲み取れないまま。
 初めて会ったときから不思議な部分があるとは思っていたが、それはこうして会う機会が増えるようになった今も変わらなかった。
「……なんか」
「ん?」
「そう言われてみると、紫陽花って感じだよな」
「……何が」
「いや、だからお前が」
「悪かったわね、渋くて」
「そーゆー意味じゃねぇって」
 ようやくこちらを向いた彼女だったが、やっぱり呆れたように瞳を細めた。
 別に、彼女が渋いとか華がないとか言ってるわけじゃない。
 ……そうじゃなくて……。
 なんつーのかな。
 コイツは、一緒にいる人間によって見せる顔が違うと思うんだよ。
 人間っつーか、その場の雰囲気っつーか。
 俺と一緒に居るときと、仕事仲間と居るときと………コイツがずっと好きだったヤツと居る時と……どれもこれもが、似て非なるもの。
 同じように振舞っているんだろうが、どれを取ってもひとつだって同じモノはない。
 表情も、声も、仕草も。
「…………」
 ひょっとしたら、彼女自身それには気付いてないのかも。
 ……まぁ、自分自身って人間が誰しも1番わからないヤツだろうけどな。
「さぁて。……んじゃ、そろそろ出る?」
「あ? あー……そうだな」
「じゃ、ゴチさま」
「……待て」
「いいじゃない。たまには、奢ると株が上がるわよ?」
「別に、お前に上げてもらってもなぁ……」
「……ひどい言いようね」
「あはは」
 席を立つと同時にこちらへ伝票を差し出され、出た言葉と苦笑。
 ……だけど、ついつい反射的にそれを掴んでしまった俺も、まぁ……俺か。
「よし。今日はゴチってやろう」
「マジ? ……どしたの? やけに、気前いいじゃない」
「だから、今日だけだって」
「それはそれは。ゴチソウサマ」
「イイエ」
 カタコトに呟いた彼女へ同じように返し、キャッシャーへ向かう。
 ……そのとき見せた顔も、やっぱりちょっと違う感じがした。
 忍耐強く、ひとりの男をずっと好きだった彼女。
 そういう過去があるからこそ、今の彼女があることはよくわかってる。
 だけど――……。
「ありがとね」
「いーえ」
 ガラスの扉を開けながら見せた笑みは、珍しく女っぽいかわいいものだった。
 ……なぁ、知ってるか?
 コイツ、こういう顔もするんだぜ。
 そして――……もっと寄り添えばもっと違う顔を。
「何?」
「いんや。別に?」
 こちらに気付いて不思議そうな顔をした彼女に、笑顔を見せて首を振る。
 ……いつか、教えてやろうか。
 コイツが心底惚れてたアイツに、このことを。


2005/8/28


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