「……はぁああ……」
 全身をソファに思い切り預ける前に、すでに玄関の時点で息耐える。
 今はいったい何時なんだろーか。
 ぐったりとしたままスマフォを取り出し、時間を見る。
 …………彩ちゃんトコ出たのは確かまだ12時台だったはず。
 それがどうして、16時をとうに過ぎてなきゃいけないんだろう。
 ……ファミレスで3時間か……。
 先ほどまでのあの状態が目に浮かんで、深いふかーいため息が出た。
「…………」
 ガサ、という音で手元を見れば、そこにはロゴが入ったドラッグストアの袋がある。
 中にはもちろん、言うまでもなく、苦労して手に入れたアレがある。
 ある……んだけど……。
「疲れた……」
 なんか、結局疲れて『何も今日じゃなくてもいいか』なんて思ってる自分もいた。
 ……そうよね。
 別に、明日でも結果は変わらないんだろうし。
「……はぁ」
 大きめに息をついてから立ち上がり、リビングへ向かう。
 『よっこいしょ』と出なかっただけ、まだマシか。
 ……でも、アレってつい出ちゃうのよね。
 なんてことを考えながら廊下を進み――あ。
「…………」
 そのまま、リビングではなくキッチンに入ってから左手の廊下へ。
 別に、何か考えたことがあったわけじゃない。
 そうじゃなくて、人として当然の生理現象というか。
 ドアノブを掴んで開け、中に……入ろうとしたとき。
 ふと、目線が置いたままだった袋へ向かった。
「……やっぱ……やっとこ」
 どうせ、トイレに入るんだし。
 どの道、用を足すのは一緒のこと。
 なら……ねぇ。
 説明を読むと、5分も10分もかかるわけじゃないみたいだし、ぱぱっと手早く済ませてから、リビングでのんびりしよう。
 そう思い、封を開けてトイレに入った。

 ――数分後。

「うそぉおおおぉぉお!!!!?」

 ものすごい絶叫がトイレだけでなく我が家全体に響き渡った。

「…………」
 どっくんどっくんどっくん。
 家に帰って来てから、もうずっとこの足を抱えて座り込んだ格好。
 ついでに、その鼓動も表情も変わらない。
 強く高鳴る鼓動。
 ニヤけたまま強張るんじゃないかというほど、緩んだ頬。
 ……どうしよ……。
 もしもこれが本当だったら、私、ものすごく幸せだと思う。
 たとえ、ダメだと拒絶されても……私はもう答えを出している。
「てへへ」
 夕日が部屋を照らしている状況下で、ひとり物思いにふけってる時間は悪くない。
 私、嫌いじゃないし。
 でも、今日だけは違ったの。

 早く、綜に会いたい。
 会って、話がしたい。
 ……教えてあげたい。

 そんな気持ちで、いっぱいだった。

ガチャンッ

「っ!!」
 ここまで聞こえるほど大きな音。
 この家の鍵を開けるのは、私以外にもうひとりしかいない。
 ……帰ってきた。
 帰って来たんだ!!
 つい、嬉しくて気持ちが先走る。
「うぁっと……!?」
 慌てて向かったせいで、転ぶ所だった。
 ……あ、あぶな!
 ばくばく鳴った胸をぎゅうっと掴んでから、息を整えて改めて玄関に向かう。
 そこに居る人。
 必ず、居てくれるであろう本人に、ちゃんと教えてあげるために。

「おかえりなさい」
 こちらに背を向けて靴を脱いだ綜に声をかけると、ゆっくり振り返った。
 うーん。今日は55点って所か。
 機嫌もまぁ悪くないみたいだし、表情もまだ柔らかい。
 っていうか、綜が60点以上をマークすることなんてこれまでないんだけど。
「……ほぅ。やっと自分の立場をわきまえたのか?」
「え?」
「主を出迎える。その当然のことを、付き人のお前はこれまで一度もしなかったからな」
「何よそれー」
 ふ、と鼻で笑いながら横をすり抜けた彼に、思い切り眉が寄った。
 もうちょっと、言い方ってものがあるじゃないのよ。
 まぁ、そんなモノを綜に求めたところで、実現されるはずはないんだけど。
「あ。ねぇ、綜! ちょっと……見せたい物があるんだけど」
「くだらんモノは――」

「ッ……くだらなくない!!」

 ぴしゃりと、自分でもビックリするくらいの声が出た。
 と同時に、少しだけ瞳を丸くした綜が振り返る。
「……あ……」
 我に返って、口元に手を当てる。
 なんか……つい、出たのよ。
 自分のことなら、ここまで強く言ったりしなかったと思う。
 だけど、今回ばかりはそうじゃない。
 私と、綜の……赤ちゃんの存在を決定付けるもの。
 だからこそ、『くだらない』なんて言われたことで過剰に反応したんだと思う。
「なんだ?」
 リビングのテーブルにファイルのようなものを置いた彼が、背を正す。
 その顔は、いつもとは違って、私の話をちゃんと聞いてくれそうだった。
「絶対、綜だってびっくりする。私だって……! 私だって……そうだったんだから」
 ぎゅうっと後ろ手に持ったプラスチックを握り締める。
 どんな顔するだろう。
 喜ぶ? それとも――。
「……っ」
 そんなことない!
 一瞬、迷惑そうに表情を歪めた彼が瞼に浮かんで、首を振りながら瞳を閉じて否定する。
 ……大丈夫だよ。
 綜は、そんなことしない。
 だって彼は……彼のことは、小さいころから私がずっとずっと知ってるんだから。
「はい」
 恐る恐る、後ろに隠していた白い物を手渡す。
 小さい、体温計みたいな大きさのプラスチック。
 中央に窓が付いていて、そこに検査結果が表示されている。
 陰性ならば、そこに何も映らない。
 ……だけど……。
「…………」
 陽性ならば、青いラインがくっきりと2本。
 黙って受け取った綜の瞳が、恐らくそこを見たであろうとき。
 どんな表情をされるのか怖くて、反射的に目を閉じていた。

「病院へ行って来い」

「……え……」
 思わず、どくんと鼓動が大きく鳴った。
 それは……いったい、どういう意味で言ったんだろう。
 ……生むな、ってこと……?
 それとも、もっとしっかり診てもらえって……こと?
 様々な思いが絡み合って、笑顔なんか当然出てこない。
「俺を誰だと思ってる。医者の息子だぞ?」
「っ……」
 ため息をついた綜が、私の頭に触れた。
 反射的に、そのままの格好で瞳だけで見上げる。
 すると、これまで私が見たどんな綜とも違うすごく優しい顔で、こんな顔見たの久しぶりかもってちょっと思った。

「ひとりで行けないなら、俺も一緒に行ってやる」

「っ……そ……」
「だから、早めに病院へ行け。……わかったな?」
 それは、父親とか兄とか、そんな身内が見せるような優しさではまったくなくて。
 ……こんなの……初めて見た。
 思わず、彼の顔を見たまま、時が止まったような感じだ。
「……優菜?」
 まじまじと見ていたのがヘンだったのか、彼が私を呼んだ。
 その名前までもが、なんだか特別なモノのように思える。
「そ……ぉ……! 綜ぉっ……!」
 思ってもなかった彼の言動。
 頭を撫でられ、欲しい言葉を呟かれ。
 ……たまらず、ぎゅうっとしがみつくと同時に涙がこぼれた。
 まさか、こんな優しいことを言われるなんて思わなかった。
 ましてや、もしかしたら……彼が望んでなかったんじゃないか、って不安なことばかり考えていたから。
「綜……っ……綜!」
「ったく。なんなんだお前は……」
 いつしか上がり始めたしゃくり。
 だけど、彼は呆れたようにため息をつきながらも、ぽんぽんと背中を撫でてくれた。
 ……こんなに優しい綜、初めて見た。
 こんなふうにしてもらえるなんて、もしかしたらこの先二度とないかもしれない。
 そう思うくらい、びっくりしたし、めちゃめちゃ嬉しかった。
「嬉しい……っ……うえーん! 嬉しいよー!!」
 嬉しくてたまらない。
 彼との赤ちゃんを授かったであろう、ということが。
 そして、彼がすべて受け入れてくれたことが。
 きっと、今の私ほど幸せな人は世にいないんじゃないかって、このときばかりは、世界は自分中心に回ってるんだと本気で思った。
 ……ううん、だって思ってもいいでしょ?
 こんなにもこんなにも満たされて、本当にたまらないくらい、嬉しくて幸せなんだから。

 彼にしがみつくように抱きつきながらようやく泣き止むことができたのは、それから30分弱経ってからのことだった。

 子育ては大変だ、って話は聞いてる。
 つらくて悲しいニュースも、いっぱい見てる。
 ……だけど。
 ううん、だからこそ。
 私は、この授かった命を大切に育てなきゃいけないって、本気で思った。
 誓った。
 だって、お腹にいるこの子は、天からの授かりものなんだから。
 私の『モノ』じゃない。
 預かった大切な命。
 所有物にしちゃいけない子。
 ……この子は、私と綜を選んでここに来てくれた。
 私は、そう思ってる。
 新しい生活が始まるまで、きっと、もう少し。
 だから待ってて……?

 それまでに、ちゃんと準備しておくからね。

 お腹に手を添えて微笑むと同時に、向こうにいる誰かへその言葉が向かった。






*ウィンドウを閉じてくださいませ*