「…………」
 いまだに鳴り続いている、着信音。
 まったく場にそぐわない歌が流れていて、雰囲気が大きく削がれていくのがわかる。
「……え?」
 すると、小さくため息をついてから彼が立ち上がった。
 急に温もりがなくなり、慌てて起き上がると、いったんリビングへ消えたかと思いきや、手にしているのは私のスマフォ。
 ……う。すみません。
 無言で目の前に差し出されて、思わず両手で受け取りながらも正直残念でたまらなかった。
「絵里……?」
 電話の相手は彼女だった。
 時間も時間だし、そもそも絵里から電話が来ること自体が珍しいそのもの。
 ふだんはメッセージでやり取りするのがメインだから、もしかしたら何かあったのかなってちょっとだけ思った。
「もしもし?」
『ごめん、寝てた?』
 少し済まなそうに言われ、顔が熱くなる。
 ……ね……て、ないよ?
「う、ううん。大丈夫。どうしたの?」
 呼吸を整えてから小さく返事をすると、明日の待ち合わせ時間のことで電話をしてきたようだった。
 開館は10時だけど、その前にみんなで朝食をとるから9時には水族館にきてほしい、という内容。
 その後は、少しだけ他愛ない話をしてから通話を終え、スマフォを枕元に置く。
「……だ、そうです……」
 隣ではなく、やや離れたベッドサイドに腰掛けた彼が、何も言わずに私を見つめた。
 ため息をついたのはわかったけれど、動きはない。
「……祐恭先生?」
「…………」
 ……もしかして、怒ってる……かな。
 私とてしてもすごく残念だし、できればあのままって期待もしたぶん、がっかりしてないとは言えない。
 彼のそばへ手をついて身を寄せると、何も言わずに――。
「きゃ!?」
「……ったく」

『あと少しだったのに』

 かき抱くように腕が回り、耳元ではっきりと聞こえた言葉で、少しだけどきりとした。
「せんせ――っん……」
 一瞬の息苦しさを感じて彼を見上げた途端、唇が重なる。
 触れるだけの、優しいキス。
「……」
「……」
 目の前でため息をつき、そのまま額がぶつかる。
 こんなふうに触れることができるなんて、初めて会った4月のあのときには、思いもしなかった。
 あのときの私は、知らない。
 いたずらっぽく笑うことも、キスが優しいことも……ちょっぴり子どもっぽいところがあることも。
「……何がおかしい?」
「あ、違いますよ。なんか……祐恭先生、かわいいんですもん」
「かわいくない」
 そういうところなんだけどなぁ。
 嫌そうに即答されて笑うと、『ったく』と言いながらも彼も同じように笑った。
「夏休みは、どこか遠くに遊びに行こう。2人きりで……そのときはスマフォはきっておくこと」
「あはは。そうですね」
 いつもみたいに、なんでもできる人の雰囲気が薄れているせいか、彼がしてくれるみたいに頭を撫でるべく手を伸ばすと、柔らかい髪に触れた。
「約束ですね」
 いつも彼がしてくれるように“いいこいいこ”をしているのに気づいたらしく、祐恭先生が苦笑する。
「子ども扱い?」
「え? してませんよ?」
「……ふぅん」
「っ……」
 いたずらっぽく笑った彼が、私を抱き寄せてからわざと音を立てて頬に口づけた。
 咄嗟のことで何も言えずにいたら、ベッドから立ち上がって私を見下ろす。
 う、その顔ずるいですってば。
 だって、にやにやしてるの見られたんだもん。すごく恥ずかしい。
 なんて言っていいのか、わからなくなるのに。
 ……でも、嬉しいのは間違いないから、笑みが浮かぶ。
「しょうがない。明日に備えるか」
「そうですね。デートの付き添い……かぁ」
 ひょっとして大役なんじゃないかとも思うけど、でも、みんなでお出かけできるっていうのは素直に嬉しくて、楽しみにしているのも本音。
 くすっと笑ってから彼の隣に立ち、手を伸ばした彼に身体を寄せる。
「…………」
 背が高くて、自分よりずっとがっしりした身体つきで、かっこよくて……と挙げられることは、すごくたくさんある。
 そんな彼が私に伝えてくれた、何よりの愛の言葉。
 ……嬉しいなぁ。
 と思うと同時に、先ほどまでの彼と――……の、行為が思い出されて頬が熱くなる。
「風呂、一緒に入る?」
「え!?」
 リビングへ移動してすぐ顔を覗き込まれ、確実に頬が赤くなっているのはバレているんじゃないだろうか。
 うぅ、恥ずかしいんですけど。
 というか、それって本気なのか冗談なのか区別がつきにくいというか、すごく困ります!
「……冗談だよ」
「っ! もぅ!」
 彼の冗談は、冗談のようで本気だってことが最近になってわかってきた。
 だからこそ、どうしようって困っちゃうのに。
 ……もぅ。
 楽しそうに笑われ、ちょっぴり悔しくて唇がとがった。
「先にもらうよ」
「あ、はい」
 浴室へ向かった彼を見送ってから、テレビをつけてソファへ。
 そのとき、寝室に置いたままだったスマフォがメッセージの受信を知らせた。
「……? 誰だろ」
 一旦取りに戻り、開くと……絵里だ。
 ひょっとして、何か言い忘れたことでもあったのかな。
 リビングへ戻りながらアプリを開くと、そこにはたったひとこと。

『さっきは、邪魔した? ごめんね』

「……え、りってば……」
 しかもしかも、絶対『ごめん』って思ってないでしょ、これ!
 続けて送られていたスタンプは、ニヤニヤしながら『ごめん』と笑うパンダ。
 もぅ。
 きっと、何かしら感じとってるんだろうなぁ。うぅ、恥ずかしい。
 朝会ったとき、まず絵里に何を言われるか心配しなきゃいけないかもしれない。
 真面目に返事をしてもからかわれるだろうし、かといって冗談めかして言うこともできなくて。
 うぅ。私、不器用なんだなぁ。
 隠し事が苦手な自分を、改めて恨めしく思う。
「っわ……!」
「……? 何?」
 お風呂へ入ったと思っていた彼がひょっこりリビングに姿を現したのを見て、危うくスマフォを落とすところだった。
 今も、ポコポコとメッセージは続いて届いており、内容は……とてもじゃないけれど、彼に見せられないものにまでなっている。
「ど、どうしたんですか?」
「いや、着替え忘れたなと思って」
 不思議そうな顔に笑顔を見せ、そっとスマフォを伏せる。
 何もしてないです。
 と言う代わりだったんだけど、きっと彼にも見透かされているに違いない。
 ……最近わかったんだけど、なんか、祐恭先生と絵里って似てるんだよね。
 雰囲気がというか、反応がというか。
「どうしたの?」
「え!? な、なんでもないですよ?」
 少し含み笑いをしながら訊ねられて、慌てたように手と首を振る。
 全然、なんでもなくはないんだけど、言えるわけない。
 うぅ、お気になさらずお風呂へ行ってください。
 ふるふる首を振って笑うと、その姿からも何かを読み取ったらしく、『羽織ちゃんって、ホント素直だね』と小さく笑われた。

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