「はい。ダーリンから預かりもの」
「は? 誰が、ダーリ……ああ、ありがと」
羽織が、純也から頼まれたものを手渡す相手は、絵里。
……そう。
彼女の“ダーリン”とは化学教師の純也なのである。
「もしかして、ケンカでもしてたの?」
「なんでそーなるのよ」
「だって、絵里ってばさっきまでと顔が全然違う」
「っ……いーの」
ぱしんっと奪うように封筒を取った絵里が眉を寄せるも、羽織はそんな彼女の姿を見ながら笑いが漏れてしまう。
こほん、と咳払いをしたあとで彼女がいそいそと封を開けた姿が、いつもとは違ってやっぱりかわいらしく見えた。
「……あら、何よ。あれだけ文句言ってたのに」
「なになに?」
取り出した中身を見て顔をほころばせた絵里の手元を覗くと、そこにはチケットが2枚あった。
「? 何? これ」
「ほら、今やってるでしょ。この映画」
そう言って見せてくれたカードは、最近人気が高まりつつある映画のチケットだった。
ファンタジーの切ない恋愛物ということで、人気を博している。
羽織も見に行こうかと思ってはいたが、ひとりで行く気にはなれず断念した。
一緒に行ってくれる彼などはもちろんおらず、絵里もこの調子のため、あとでレンタルすることになるだろう。
「で? どうだったのよ。瀬尋センセ」
大事そうにチケットをしまった絵里が、にやにや笑いながら羽織を見やった。
その顔には“いろいろ期待してます”と書かれているように見える。
「どうって? 別に、普通だったよ。あ、連絡しなくちゃ」
握手を求められた、などと言ったら冷やかされるに違いない。
そそくさと黒板に次の授業は実験室で行うと明記すると、それを見た数人の生徒が我先にと教室をあとにした。
おおかた、彼と話でもしようとしているのだろう。
そんな姿をなかば冷ややかに見つめる自分もいたが、ついさっきまでの自分も似たようなものかと苦笑が漏れる。
「そろそろ行こっか。田代先生とも話すんだよね?」
「あー、まぁそうね。お礼言っておかないと、すねたらめんどくさいし」
そう言って肩をすくめたが、嬉しそうなのは見ればわかる。
軽快に扉までステップしたのが証拠で、ようやく授業セットを抱えた羽織を絵里が振り返る。
「ほら。行くわよ!」
「あ、先に行ってていいよ?」
「なんでよ! 一緒じゃなきゃ意味ないでしょ!」
「どういうこと?」
なぜか叱られ、思わず苦笑が浮かんだ。
まあ……確かに。
今回赴任してきた彼とのことに、少し……ほんのわずかだが、期待している自分もいる。
これからの生活に、どのように彼が関わってくるんだろう。
絵里に対しては乗り気じゃないフリをしているが、楽しみなのは事実。
「ほらー、先行くわよー!」
「あ、ちょっと待って!」
ひとまとめにした教材を持って立ち上がってから歩き始めてしまった絵里のあとを追うと、ひとしれず笑みが漏れた。
準備室の手前に差しかかったところで、楽しそうに笑う絵里の声がする。
隣には、もちろん純也の姿も。
どうやら、今度の映画デートについて話しているらしい。
「あ。やっときたわね」
「あはは、ごめん」
口とは反対にのんびり歩み寄ると、純也が笑った。
「さっきは、ありがとね。おかげで機嫌直ったみたいだよ」
「別に怒ってなかったわよ。ね? 羽織」
やはり喧嘩をしていたらしい。
じゃなければ、純也が好きでもない映画のチケットを贈るはずがないのだ。
「お役に立てて何よりです」
絵里の姿があまりにもおかしくて笑いながら首を横に振ると、準備室のドアが開いた。
中から覗いた顔に、心臓が大きく鳴る。
「田代先生。……と、瀬那さん?」
「と、皆瀬絵里です。覚えてね、瀬尋センセ」
眉を寄せ、まるで子どもを叱るように絵里が言うと、祐恭が苦笑を見せた。
「失礼。よろしく、皆瀬さん」
「あら。絵里ちゃんでもいいけど」
「お前は……変なことを吹き込むんじゃない」
純也が軽く小突くと、それに対して当然のことだが祐恭は驚いた顔をした。
「ずいぶん、仲がいいんですね」
「あー……まぁね。昔からの付き合いだから」
慌てたように純也が手を振ると、横から絵里が口を挟む。
「ヒドいですよね。暴力ですよねー」
「っ、こら!」
「もぅ、絵里ってば。授業始まっちゃうよ?」
純也をからかって楽しむ絵里の手を羽織が引いて引き離すと、ぺろっと舌を出して『しつれー』と口にした。
楽しいのはわかる。
事実、この場にいる羽織とて楽しいのだから。
「瀬尋先生、全部信じちゃダメですよ? 絵里ってば、先生をからかうの得意なんですから」
「失礼失礼」
『じゃーねー』と手を振った絵里の腕を取ったまま実験室へ入り、祐恭に目を合わせて小さく笑ってからドアを閉める。
すると、廊下に残された祐恭と純也は顔を見合わせて笑った。
「女子高生って元気ですね」
「そーだなぁ。まあ瀬尋君も、丸め込まれないように気をつけて」
「はは、そうします」
冗談半分に聞きながらうなずいて実験室へと向かう祐恭の背中へ、純也が改めて声をかける。
「なんですか?」
「絵里……皆瀬のこと、よろしく」
「え? ええ。わかりました」
いつもの彼と雰囲気が違ったが、祐恭は改めて微笑みを返した。
それを見た純也も笑みを浮かべると、今度はきびすを返して準備室へ。
「………………」
彼の後姿に、祐恭は少しだけ首を傾げたものの、それ以上何も言うことはなかった。
「あ、先生。きりーつ」
学級委員の子が入ってきた彼に気付き、大声でざわめきを正す。
すぐに授業体勢をとれるのは、この学校の生徒のよいところか。
「れーい」
彼女に続いてみんなが『お願いします』と言うと、委員長が着席の合図をかけた。
がたがたと椅子を鳴らして全員が着席したところで、両手を彼女らの正面にある大きな実験テーブルへついた祐恭が、厚い教員用の教科書を開く。
「相変わらず、きちんとしてるね。今日は最初の授業だから、みんながどこまで進んでるか教えてもらいたいんだけど」
教科書をめくりながら訊ねた彼に、誰ともなく分野をあらわす言葉を返す。
だが、その声のあとでなぜか『目立ちたがりー』『いいじゃん別に』などの声も聞こえ、思わず祐恭が苦笑を浮かべた。
「この時期にしては、結構進んでるね。それじゃ、今日は復習もかねて67ページから始めようか」
「えー。1回目から授業しちゃうんですかぁー? もっと先生のこと知りたいなぁ」
祐恭の言葉に、唯一そんな大きな声で異議を唱えたのは、長い髪を大きな白いリボンでまとめた姿が印象的な、中野綾乃。
だが、それに賛同する者は少ない。
授業は授業という区別はきっちりしているというのもあるが、何よりも彼女らは今年受験生。
授業はきちんと受けたい者のほうが多いらしい。
それに気付いた祐恭も、苦笑を浮かべる。
「プライベートなことは、休み時間にでも個人的に聞きに来てもらえたら話すよ」
「……はぁい。わかりました」
しぶしぶではあるが綾乃がうなずいたのを見て、祐恭がもう一度67ページから、と促したところで授業再開となった。
「それじゃあ、まずはこの分子構造について。これは――」
「っ……」
黒板に、丁寧な字と図を描きながら説明する後姿を眺めていた羽織は、いきなり腕をつつかれた拍子に、勢いよくシャーペンを床へ落としてしまった。
彼の声だけが響く室内に、カシャーンという乾いた音が響き、慌てて椅子から離れて取りに行く。
言うまでもなく、注目と失笑の的。
くすくすと小さな笑い声が聞こえ、顔が真っ赤になる。
「絵里……っ!」
「やー、ごめんごめん。ちょっとしたアクシデンツ」
「もぅ!」
席に戻ってから彼女を睨むも、ひらひら手を振り、いつもの調子で答えるだけ。
……もう何も反応しないんだから。
口を真一文字に結んでノートを取るべく黒板に顔を向けると、今度は軽く腕を叩かれる。
「ごめんってば。いやー、あまりにも瀬尋先生を見つめてるから、よっぽど気になるんだなーと思って」
「別にそんなんじゃないもん」
「そう? でも、視線が熱っぽいわよー」
「っ……違うったら! ただ、その……キレイな字だなーと思って見てただけだもん」
「字? アンタ、相変わらず変なフェチよね」
「別にフェチじゃないよ。ただ、字がキレイってだけで、私にとってはすごい人に見えるだけだもん」
ふぅ、とため息混じりに変なことを言われて眉を寄せるものの、実は内心どきどきしている。
視線が熱っぽい。
……そんなんじゃない、もん。
カチカチとシャーペンの芯を出しながらもう一度心の中でそう呟くものの、そう簡単に頬の熱は冷めてくれないらしい。
「ねぇ。なんだったら、純也に取り持ってくれるように言ってあげよっか?」
「っ……だから、そんなんじゃないってば!」
いきなりの提案に思わず大きな反応をしてしまいそうになるものの、すんでのところで抑えることができた。
眉を寄せるものの、にやりと見つめる絵里の顔は相変わらずで。
ふぅ、とため息をついてから小さく笑うと、黒板をちらりと見てまたため息が漏れた。
「あのね、そうじゃなくて。その……やっぱり、私が化学苦手なのって先生のせいじゃないんだなぁと思って」
楽しそうに笑う絵里とは逆に、気持ちはつい沈む。
なぜならば――。
「これでも化学部の部員なのに、化学が赤点ってどうなの? ……ダメだよね、やっぱり」
そう。
実は羽織は、れっきとした化学部員なのだ。
点数こそとれないものの、実験などの過程を観察したり、考察したりするのは好きで。
……というのもあったが、半分は絵里に引っ張られて入部したというのもある。
「まあまあ。先生が変わればそのうち成績も上がるでしょ。ほら、アレ大事なとこ。ノートとりなさい」
「……うー」
絵里が話しかけてきたのに、などと恨めしく思いながらも、しっかりノートに書き写す。
まだ、今日スタートしたばかりの彼の授業だが、それでも自分にはわかりやすく、もしかしたら“できない者”に合わせて授業をスタートしているのではないかとさえ思った。
3年ともなると、できないものに合わせていては支障が出てくるものなのだが、それでも……あえてこういう授業スタイルをとっているのだとすれば、自分にとっても助かるし、何より、好感が持てる。
今までとは違い、ひとつひとつ丁寧に化学式の構造を説明してくれたので、今日やった単元については少し飲み込めた気がして嬉しかった。
とはいえ、自分は初歩の初歩でつまづいているため、今の段階の授業がわかったところであまりテストに期待はもてないのだが。
などと考えながら彼を見ていたら、あっという間に授業が終わり、生徒たちがそれぞれ実験室をあとにし始めた。
「………………」
目の前の黒板を、教員である祐恭自らが消している姿に感じる、違和感。
その正体は、なんだろうか。
「っ!」
ふと考えこんでから、慌てて駆け寄る。
仕事。
そう。あれは自分の仕事だ。
「先生! 私が消しますから、そのままにしておいてください!」
「ん? ああ、気にしないで。ほら、白衣だし。瀬那さんじゃ制服が汚れるだろ?」
「でもっ! それは係の仕事で……」
「いいんだよ。俺には気を遣わなくて。ほかの先生にやってあげてくれれば、十分だから」
困りきって慌てるものの、彼がくれたのは微笑み。
キレイに消し終わり、チョークの粉にまみれた手を洗う姿を申し訳なく思いながら見ていると、なぜかにやにやしながら絵里が寄ってきた。
「先生、やさしーい。で、も。羽織はお役に立ちたかったみたいですよ?」
「え?」
「なっ……!」
含み笑いを見せた絵里のせいで、祐恭にまじまじと見つめられ、ぶんぶんと顔と一緒に手を横に振る。
「ち、違いますよ!? っ……! もぅ、絵里! 変なこと言わないで!」
「いーじゃない別に。減るモンじゃなし」
「そういう問題じゃないの!」
減る減らないじゃない。
真っ赤になった顔をクールダウンすべく両手を頬へ当てるものの、恥ずかしくて視線がまた床へ落ちた。
「あ、そうそう。私、化学部の部長やってるんです。で、こっちは副部長」
「っ!」
思い出したかのように宣言した絵里に指をさされ、途端に固まる。
きっと、彼は私のこれまでの化学の成績を知っているだろう。
だからこそ、化学部、しかも副部長なのに化学ができないとはどういう話だ、と笑われると思ってつい身体がこわばった。
「へぇ、そうなんだ。一応、俺が副顧問っていうことになったんだ。よろしく」
「え。あ、はいっ。……こ、ちらこそ。よろしくお願いします」
だが、こちらの考えは大きく外れ、特に何も言われなかった。
この点では、難を逃れたようだ。
「で、今日の実験なんですけど、水酸化ナトリウムを使いたいんです」
「あぁ、いいよ。今日は田代先生も俺もいるし。気をつけて使ってもらう分には、文句はないから」
「ホントですか? それじゃ、お願いしまーす」
祐恭の言葉で嬉しそうに両手を合わせた絵里が、ふいにいたずらっぽい笑みを羽織へ向ける。
また何か言われる。
そう思った羽織の勘は正しかった。
「羽織、わかってる? 今日の実験で何するのか」
「え? 水酸化ナトリウム使うんだよね?」
「そうじゃなくて。前回何と何を混ぜてどうする実験をしたの?」
「……え? えーと……すい……水銀?」
「違うわー!」
「あいた!?」
真面目に考えて答えたのに、思い切りツッコミを入れられた。
ぺちん、と音を立てた額を両手ですりすり撫でるものの、そう簡単に痛みは取れそうにない。
「この子本当に化学苦手なんですよ。実験は好きなんだけどねー」
ちらっとこちらを見てから、絵里が祐恭に笑いかけた。
そんな姿を見ながら、苦笑よりも先に盛大なため息が漏れる。
……みっともないなぁ、私。
かなり、恥ずかしい。
「というわけで、羽織のことをよろしくお願いします」
「もちろん。わかる授業をしていきたいから、わからなかったらすぐに言ってね」
「っ……はい」
にこりと微笑まれ、思わず漏れる乾いた笑いとため息。
憧れ始めていた人に、いちばん知られたくないところを知られることになるとは思わなかった。
少々手痛い紹介だったが、いた仕方ない。
これが絵里のやり方でもある。
「それじゃ、失礼しまーす」
ぺこっと頭を下げて先に出て行く彼女に、慌てて自分もならう。
「またね」
祐恭もそんなふたりを見送ってから、準備室へと消えていった。
「……もぅ。瀬尋先生に、あんなこと言わなくてもいいじゃない」
「あんなことって?」
お弁当を机に広げながらのランチタイムに絵里を見ると、どうやらすでに忘れているようで眉を寄せた。
だが、それには慣れているので、これといって非難はしない。
「……まあいいんだけど。それで映画はいつ見に行くの?」
「んー、今週末かな」
サンドイッチをほおばりながら嬉しそうに話す絵里を微笑ましげに見つめていると、急にその笑みがイタズラっぽいモノへと変わる。
「羽織も早く彼氏作りなよー? かわいくないわけじゃないんだし、もったいないよ。青春でしょ? 今が」
「青春かぁ。でも、私はこうして学校で楽しく過ごしてるだけでも十分青春を感じるけど」
「だめ! それじゃ、もったいなさすぎ! もったいないおばけがでるわよ!」
飲んでいたジュースを吹き出しかけて反論した絵里が、ぶんぶんと首を振った。
そんなに気合を入れて否定され、少しばかり物悲しくなる。
せっかく、つい先日友人のひとりが彼氏自慢をしてきたので、『今はまだ自分はこれでいい』と納得したばかりだったのに。
「いい? 今年の夏までには彼氏作りなさい! 夏が終わったら、受験受験で恋愛どころじゃなくなるんだから」
「……でも」
「でもも何もないの! いいわね? ……ていうか、むしろ今度の遠足でナンパされて付き合うくらいの勢いで!」
「えぇ!? それはやだ」
ナンパの言葉に眉をよせると、『贅沢者』なんて言葉が返ってきた。
その言葉でさらに唇を尖らせるものの、絵里はそしらぬ顔でサンドイッチを口にした。
そこまでして彼氏が欲しいとは思わない。
確かに、純也といて楽しそうな絵里を見ていると彼氏もいいかなと思うこともあるものの、やはり付き合うのならば“好きな人”が理想で。
誰でもいいというわけではない。
「遠足か……」
3年の彼女らに、修学旅行はない。
だが、1泊の泊りがけで遠足と称した旅行があるため、それはそれで楽しみだった。
その予定まで、もう1ヶ月を切っている。
「そろそろ委員決めあるね」
「そーね。でも大変そうだし、できればパスで」
机に頬杖をついた絵里にうなずきながら、ジュースをひとくち。
委員はどうせ“じゃんけん”での選出になるだろう。
楽しいことは好きだが、面倒くさいことは避けたいのが、やはりふたりの本音だった。
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