「あ、そこの信号を左です」
「左ね」
横断歩道のある信号を、しっかり減速してから曲がった先は、少し入り組んだ住宅街が広がっている。
この時間、歩いている人間はいない。
ぽつんぽつんと等間隔にある外灯が、白くアスファルトを照らしている。
「えーと……ここから先は少しわかりにくいので、ここでいいです」
「そういうわけには、いかないよ。別に急ぐ用もないし、差し支えなければ家まで送らせてほしいところだけど」
「っ……それじゃあ、お願いします」
くるくると片手でハンドルを操る姿に思わず見とれてしまい、慌てて頭を下げる。
……と、そんな彼の横顔を見ていたら、静かに口を開いた。
「瀬那さんのお兄さんて、何してる人?」
「兄ですか? えっと、大学の図書館で司書の仕事をしてますけれど」
「……冬瀬校の出身?」
「え! どうしてわかったんですか?」
ずばり的確なところを指摘されて声をあげると、彼が苦笑を見せた。
「いや……その、ね」
「あ、そこを――」
指示する前に彼がウィンカーを出し、右へと曲がる。
……ウチの方向。
どうして、何も言っていないのにわかったんだろう。
まったく迷うことなく車を進めていく彼に、思わず瞳が丸くなった。
「先生、なんで右折ってわかったんですか?」
「お兄さん、孝之って名前だよね」
「えぇえ!? お兄ちゃんのこと、知ってるんですか!?」
「いや、知ってるも何も。高校以来の付き合いだから」
「っえぇ!?」
いきなりとんでもない事実を耳にし、大声で反応してしまった。
とともに、いつしか停車した車は、自宅の外階段前の広場。
「よく送ってきたからね。ここまで」
「っ……すみません」
「いや。瀬那さんのせいじゃないから」
車庫ギリギリに幅寄せし終えた彼が、目を合わせてから首を横に振った。
たしかに、羽織のせいではない。
が、やはり兄が迷惑をかけていたのかと思うと、申し訳ない反面、恥ずかしさもあった。
「せっかくだし、ちょっと顔出してもいいかな」
「ぜひ! お茶くらいしかないですけれど、上がってください」
あはは、と笑ってから車を降り、外階段を駆け上がるようにしてたどり着いた玄関の鍵を開け、中に向かって声をあげる。
「お兄ちゃん! ねぇ、ちょっときて!!」
「……なんだよ、うるせーな」
「いいから! ちょっときてってば!」
案の定リビングにいたらしく、すぐに不機嫌そうな声が聞こえた。
と同時にカキーンと金属音と割れるような歓声が響き、野球を見ていたことも予想通りだとわかる。
『あー!』と大きな声はしたもののしばらくリビングから来なかったが、そのせいか、玄関に祐恭が着くのと孝之が姿を見せたのはほぼ同時だった。
「ンだよ、いいとこなのに……あ? なんだ、お前。こんな時間に珍しいな」
「まぁね。今日は“先生”として来たから。……ね」
「ですね」
「は?」
祐恭と顔を見合わせて笑う姿をいぶかしげに見られるが、くすくすという笑い声はなかなかおさまらない。
事情を飲み込めていないようではあったが、『まー上がんだろ?』と孝之がリビングへ彼を促す。
「羽織、なんかメシねーの? 祐恭も食ってねーだろーから、とりあえずふたり分」
「もぅ。お兄ちゃんがやってくれればいいでしょ? 私、今帰ってきたばっかりで……」
「つべこべ言うなって。内申点稼ぐチャンスかもしんねーじゃん」
「う……」
「いや、それはさすがにダメだろ」
さらりと告げられた冗談とおぼしきセリフにもかかわらず、羽織は痛いところをつかれて何も言えなかった。
「……もぅ」
仕方なくキッチンへ向かい、制服の上からエプロンをつける。
そういえば、今日はお母さんとお父さんが一緒にご飯を食べに行くとか言ってたっけ。
キッチンは片付いたままで、兄が何かを作ろうとした形跡は皆無。
何時に帰ってきたのか知らないけど、私をアテにしないで自分で作ればいいのに。
冷蔵庫を開けながら思わずため息をつく――ものの、今日ばかりはそこまで嫌じゃない自分がおかしくて、自然と笑みに変わっていた。
「いつもそうだよな、お前」
「るせーな。……にしても、お前が羽織の副担とはな。すげぇ意外」
「似てるとは思ったけど、まさか孝之の妹さんだとは思わなかったよ」
「えぇ……お兄ちゃんと似てますか?」
「目つきは全然似てないから安心して。なんかこう……なんていうのかな。雰囲気っていうか」
「……雰囲気……」
「いや、育ちのよさというか」
「どこが」
あれこれ付け足せば付け足すほど、物悲しさが漂う羽織を見て、どうしたものかと祐恭は言葉を選びはした。
だが、最終的にはどうにもならず、苦笑しか出ない。
ダイニングではなく、リビングへと場所を移動して向かい合って座る現在。
ふたりが話すのは互いの近況。
祐恭と孝之は、高校、大学が一緒で、それなりに付き合いも深かった。
大学を卒業してからも連絡を取り合っていたし、ともに連れ立ってどこかへ行くことも少なくない。
……だが、今回冬瀬女子校に赴任が決まったことを、祐恭はあえて伏せていた。
孝之のことだから、絶対馬鹿にするに違いない、というのが理由である。
「しかし、お前が冬女の教師とはね。すげーだろ? あそこ」
「すごいって……何が?」
テーブルに頬杖をついた孝之が、にやにやと悪戯っぽく笑う。
冬瀬女子高。略して、冬女。
それはわかるものの、孝之が何を聞きたいのかわからず祐恭は眉を寄せる。
「昔から、あそこは先公と生徒がデキちゃってヤバいって話してただろ」
「あぁ、それか。でも、そんなに目につくわけじゃないし、実際赴任したけどアレはあくまで噂にすぎないんじゃないか?」
といっても、赴任してまだ1ヶ月経っていない。
だが、所詮その手の話はある種の都市伝説のようなもので、噂が噂を呼んでいるだけではないかと祐恭は思い始めていた。
そもそも、教師と生徒が恋愛関係に陥るなど、マンガやドラマの世界ならまだしも、実際にそう起こりうるワケがないというのが持論だが。
「ふぅん?」
肩をすくめたのを見て、孝之はいぶかしげな表情のままキッチンへ声をかけた。
「羽織。今の冬女って、先公と生徒がデキてる話ねーの?」
「もぅ。いきなり、何? だいたい、そういうのってお兄ちゃんが嫌いなワイドショーと同じようなものだよ?」
料理を盛りつけたお皿をトレイにのせて運び、腰をおろしてから思いきり呆れてみせる。
普段、ニュースなんかでもちょこっと『芸能人熱愛発覚!』なんて話題が出ると、すぐに『こーゆーのにハマりだしたら、ウチのお袋と同レベル』なんて言って、お母さんに叩かれたりしてるのに。
よくわからない。
「なんの話をしてるのかと思えば……」
「いいだろ、別に。で? 実際ンとこは?」
ものすごく気になる、というよりもヤな感じの顔で見られ、ため息をついてから羽織は祐恭へ向き直った。
彼は、孝之とは違って“半信半疑”。
それもそうだろう。
1ヶ月弱、彼は冬女で“教師”をやっているのだから。
「先生。ウチ、結構多いですよ」
「……ホントに?」
目を丸くしたのを見たまま小さくうなずくと、それでもまだ信じられないといった顔で彼は口を開いた。
どうやら、本当に何も知らないようだ。
「うちの学校の独身の先生って、ほとんどが生徒とくっついてるって言われてますよ。もちろん、私が実際にこの目で見たってワケじゃないんですけれど、クラスの子が見たとか、先輩が……とか。たしかに、そういう意味では噂と同じレベルかもしれませんけれど、結婚してる先生方も、奥さんは元教え子っていうのがザラで……」
「……へえ」
お茶を入れながら呟くと、孝之とも祐恭ともとれないため息が聞こえた。
それぞれの前へ湯飲みを置いてから、もう一度キッチンへ。
空いたトレイにサラダをもりつけたボウルをのせてリビングへ戻り、再度腰を下ろす。
「先生も気をつけたほうがいいですよ? うちのクラスだけじゃなくて、ほかのクラスにも先生のことが気になってる子、多いですし」
「……いや、俺はそんなんじゃ……」
「甘いな、祐恭。そんな危機意識だと、襲われるかもしんねーぞ? イマドキのじょしこーせーってヤツは、肉食獣より怖いって知らねーの?」
「孝之。お前、もう少し言い方考えろ」
呆れたようにため息をついたのが聞こえ、苦笑が漏れる。
孝之がこんなふうにあしらわれているなど、思いもしなかった。
妹として恥ずかしいというのもあるが、これまで学校では見ない祐恭の姿を見ることができ、嬉しさもありちょっとだけおかしくもあった。
「えっと、ありあわせの物しかないですけど……よかったら、遠慮なく食べていってくださいね」
「そーそ。ウチで遠慮したら損するのは自分だ、っていつもお袋が言ってたろ? コイツ、料理はまぁ食えるほうだからな。ここに“センセイ”としてくりゃ、タダ飯食えるぞ」
「そんな職権乱用はないだろ」
「いーんじゃねーの? 別に」
よくないと思うけれどね。
フォークでこちらを指した孝之を睨むものの、彼にこの視線が届くわけがない。
はぁ、とため息をついてから自分もフォークを取り、小さく『いただきます』を口にする。
「……え?」
「? なんだよ」
すると、そんな瀬那家のふたりを見てから、祐恭が楽しそうに笑った。
「いや、ごめん。兄妹だなーって思ってさ」
「……なんだそれ」
「初めは似てないと思ったんだけど、結構似てるもんだなと思ってね」
「えぇ? どのへんがですか?」
「似てねーだろ。俺とコイツは、かなりデカい能力差がある」
「ひどい! それは私のセリフ!」
「ちげーだろ。俺のほうだっつの!」
「あはは、そういうところかな」
「えぇ!?」
結局、いつものようにくだらない言い合いに発展しかけたが、今日だけはいつもと違って気分がいい。
なぜなら、この場に自分たち以外の人がいるから、だ。
「…………」
学校では決して見ることのない、声をあげて笑う彼の姿。
そんな彼を見ることができて、内心はかなり嬉しい。
こんなふうに祐恭が笑うのを知っているのは、冬女の生徒の中で自分だけなんじゃないだろうか。
そう思うと、どうしようもなく嬉しさが身体の内側から溢れてきて、頬が緩んだ。
「ん、うまいね。これ」
「よかったです。いっぱい食べてくださいね」
「うん、ありがとう」
おいしい、と言ってくれた祐恭に笑うと、孝之がニヤニヤと性格の悪そうな顔でこちらを見ているような気配がした。
……気にしないもん。
このときの彼が何を思ったのかは、だいたいの想像がついたので黙っておく。
「今日は本当にありがとう。逆にお世話になっちゃって……申し訳なかったね」
「とんでもないです。おもしろい話も、いっぱい聞けましたし」
――そう。
あのあと、祐恭の“彼女”の話にもなった。
本当は、嬉しい反面切ない気持ちもあったのだが、ほかの子が知らない情報を得たという点では優越感のほうが大きい。
「じゃ、またな」
「ああ」
孝之に軽く手を挙げた彼が、羽織に微笑む。
気のせいかもしれない。
だが、今向けてくれている微笑みは、学校でこれまで見せてくれていたものとは違うかのように思えた。
「じゃ、また学校で」
「はいっ。気をつけてくださいね」
「ありがとう」
祐恭を見送ってドアを閉めたところで、ドアノブに両手を置いたまま、ほぅ……とため息が漏れる。
……いい気分だなぁ。
とくんとくん、と規則正しく脈打つ身体がぽかぽかして、いつもとは全然違う心地よさでいっぱいだった。
「お前、アイツみてぇのがタイプか」
「っ……な……! 何を言いだすのかと思えば……」
「照れンなって。お前の態度見てれば、ンなことくらいわかるっつーの。……でもま、俺としてはアイツがお前の彼氏だったら、かなり都合イイけどな」
「だから、なんでそうなるの? 別に私、瀬尋先生をそんなふうに見てないよ?」
「俺の知り合いってのもあるし、まあ……悪いヤツじゃねーぞ? アイツ」
「……そう言われても」
からかっているのか、本気なのか、彼の態度からはまったく判断ができない。
あれこれといろんな情報をくれるのは嬉しいものの、羽織とてまだ彼が好きだとはっきり自覚しているとは言いがたい。
……単なる、憧れ。
そう。
彼に抱いているのは、まさにそれだ。
「それに、瀬尋先生には理恵さんっていう彼女さんがいるんでしょ?」
「……あー。でも、よくわかんねーんだよな。ふたりが付き合い始めたってのも学生のころだったし、だからっつって一緒にツルんでるとこ見てねぇし。ある意味、彼女ったって名前だけじゃねーの?」
「……え。そうなの?」
「多分な」
両手を頭のうしろで組みながら言われた言葉に、目が丸くなった。
意外だ。
そんなこと、彼はひとことも言っていなかった。
……と、それは当然だろう。
彼は教師で、自分は生徒で。
たかが“いち生徒”の自分に、彼がぺらぺらと余計な話をするとは到底考えられない。
「さっき、祐恭も言ってたろ? もうずっと連絡取ってないし、自然消滅で時効だって」
「それは……そうだけど……そっか」
「今がチャンスって思ったろ」
「っ……だ、だから! そんなんじゃないってば!」
ニヤニヤと相変わらず性格が悪そうな顔で見られ、慌てて我に返る。
今の自分は、絶対に顔が赤くなっているに違いない。
あえて彼から目をそらし、ぱたぱたと足早にリビングへ戻ってから思い出したように声をかける。
「お兄ちゃん! 食べっぱなしにしないで、片付け手伝ってよね!」
「わーってるよ。うるせーな」
「だって、食べっぱなし!」
「だから、わーってるっつの! お前はお袋か!」
カチャカチャと音を立てて食器を手早くまとめ、キッチンへ向かう。
そのとき、ガラスに映った自分の顔がなんとも情けないモノで、慌てて視線をそらすと唇が“へ”の字に曲がった。
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