「あー……たまんないね。ゾクゾクする」
「……んっ」
 とある夜。
 俺は、彼女にそう囁いていた。
「せんせ……っ」
「……ん?」
 苦しげに呟いた彼女にちらりと一瞬視線を向ける、切なげにこちらを見ていた。
「……と……」
「と?」
「っ……! 飛ばしすぎっ……! わぁっ!!」
「大丈夫だって。それにほら、こういう場所じゃないと飛ばせないじゃない?」
「だからって……っ……! もぅ、怖いですよっ!!」
 ――……というわけで。
 今、ふたりで向かっている先に、これといったアテはない。
 だが、とりあえず高速には乗ってたりする。
 とはいえ、実は今乗っている車は自分のRX-8ではなく、祖父のフェラーリモデナF1。
 久しぶりに運転したのだが、やはりこのエンジン音はいいもので。
 ついつい飛ばしたくなってくる。
 ……とはいえ、300も出した日には曲がれないので、当然しないけど。
「……ふ」
 煽っているわけでもないのに、追い越し車線からどんどん車がいなくなるのは、結構気持ちいい。
 高速に乗ってしまうとなかなかシフトチェンジをしないので、あの独特の音を聞くことはできないのだが、それでも、ビリビリと響いてくるエンジン音はやはり心地よかった。
 今日1日、祖父の運転手をするという約束でこれを貸してもらったのだが、現在なぜか名古屋付近。
 ……おかしいな。
 沼津あたりでUターンするはずだったんだけど。
 短時間ながらも神奈川から名古屋までこれるというのは、単純にすごい。
 ……って言ってる場合じゃないか。
 そろそろいい加減降りるとしよう。
 看板が見えてきた新城インターで高速を降り、ETCのゲートをくぐって下道へ。
「……さて、と。で、どこ行く?」
「え? 帰るんじゃ……ないの?」
「せっかく、愛知まできたんだし。名物でも食べて帰る?」
 信号待ちをしながら笑うと、不意にスマフォが鳴った。
 ディスプレイを確認すると……そこには祖父の名前。
 約束の時間まで、まだあったはずなんだけどな。
 うしろに車がついていなかったのを確認してから、バックして路肩に車を止める。
 それから電話を取ると、やはり祖父に間違いなかった。
「もしもし?」
『あぁ、祐恭か。今、どこにいる?』
「え。愛知だけど」
『……愛知? 愛知県か?』
「ああ」
『……まぁいい。もうすぐ会議が終わるから、とんぼ返りしてすぐに会社にきなさい。わかったな?』
「あー……わかった」
 苦笑を浮べてうなずくしかなかった。
 そりゃ、呆れられもするよな。
 でも、つい楽しくてここまできてしまった。
「え?」
『いや、せっかく愛知に行ったのなら、何か甘いものを土産に買ってきてくれ』
「……あー。じゃあ、何かしら買って帰る」
 相変わらず、甘いものが好きなことに変わりないらしい。
 スマフォを切手彼女に渡し、そのまま車をUターンさせてきた道を戻る。
「帰るんですか?」
「うん。主のご要望なんでね」
「……ほらぁ」
 案の定、彼女にも笑われた。
 ……まぁ、仕方がない。
 SAかPAで、土産を仕込んでいくとしよう。
 などと考えながらゲートをくぐり、今度は上り車線を突き進む。
 道中もやはり彼女に散々文句を言われたが、まぁよしとしよう。
 途中にったSAに車を停めて彼女と歩いていくと、さすがに視線が刺さってきた。
 さぞかし、大勢の人間の目に『嫌味なヤツ』と映っているんだろう。
 若い男がかわいい彼女連れて、しかも愛車はフェラーリ。
 そんなものを見たら、俺だって悪態つくところだ。
 適当に彼が好きそうな土産を買って車に戻ると、そこには数人のギャラリーが集まっていた。
 ……俺の車じゃないんだけどね。
 そっと心の中で苦笑しながら車へ乗りこんで本線へ戻ると、この時間はさすがに空いているらしく、すいすいと快適なドライブを楽しむことができた。

「お帰り。しかし、ずいぶん遠くまで行ったんだな」
「いい車だとつい……ね」
 会社の前に車を横付けすると、苦笑を浮べながら祖父が近寄ってきた。
「羽織ちゃん、祐恭の運転じゃ怖かったろう?」
「そうなんですよ。……あんまり飛ばすから」
「ははは。じゃあ今度は私とデートしてもらおうかな」
「えっ。あ、でも、里美さんに――……」
「ダメだ」
 彼女が慌てて何か言う前に、俺がぴしゃりと断ってやる。
 それを見てにやにやと何やら考えたらしい祖父だが、駐車してから部屋へ来るよう指示された。
 部屋。
 それはもちろん、彼の――……社長室。
「………………」
 だが、正直言うと会社にくるのは好きじゃない。
 父も居るし、何より『社長のお孫さん』という目で見られるのが嫌だった。
 俺は一介の教師で、祖父の跡を継ぐわけでもないんだし。
「まぁ、適当に座りなさい」
「ああ」
「失礼します」
 彼女の手を引いて社長室まで案内されてから、ソファに腰かける。
 ……しかし、いいソファだな。
 ものすごく、身体に馴染む。
 しばらく目を閉じてもたれていると、うっかり寝てしまいそうな心地よさだった。
「……これは?」
「応用化学をやってきた祐恭なら、成分表を見ればわかるんじゃないのか?」
「…………まぁ、そうだけど」
 目の前に置かれた小瓶に手を伸ばし、ラベルに書かれている文字を追う。
 確かに、応用化学は新薬の開発などにも携わる分野でもあるので、一応いろいろやってはきたが……別に、それくらい教えてもらっても、バチは当たらないと思うんだが。
「普通の栄養剤だな。……って、本当に?」
「おいおい、ひどい言いようだな。実の祖父を疑うのか?」
「ああ、疑うね。これまで、散々ひどい目に遭わされてきたんだ。おいそれとは、口にしないって決めてる」
 そう。
 こうして小瓶が目の前に置かれたことは、今までの人生の中で何度もあった。
 だが、大抵そういうときは新薬の験体。
 さすがに劇物などはないが、いろいろと痛い思いをしてきたワケで。
 というのは、肉体的にではなく――……精神的に、という意味で。
 瀬尋製薬といえばそれなりに業界には知れ渡っている製薬会社で、あれこれと商品を生み出してきた。
 だが、一般向けに卸されていない薬品なども、一部の闇ルートでは流れていて、俺自身も呆れるほど。
 といっても、別に怪しい薬を出してるとかってワケじゃないんだが……。
 口に出せば『そんな馬鹿な』と言われること間違いないだろうが、いわゆる“あり得ない薬”を開発している部署があるのだ。
 さすがに不老不死とまではいかないものの、それに近いものがすでに完成しているという 話もある。
 だからこそ、俺としては飲みたくないのだ。
 それこそ、何が起こるかまったくの未知だからこそ。
「……今度はなんだ?」
 まじまじと彼の顔を見るも、にっこり笑いながら『飲んでみたらいい』と、それをすすめてくるだけ。
 ……怪しい。
 その態度がすべてを物語ってるってことに、どうして気付かないんだ。
「本当に滋養強壮のものだ。……俺に似て、まだまだ若いようだからな」
「……いや、むしろいろんな意味でまだ若いつもりだけどね」
 にやり、と意味ありげな笑みを向けられ、自然と彼女に視線が向かう。
 だが、特に気にする様子はなく、目が合っても不思議そうな顔をするだけだった。
「……まぁいいけど」
 パキン、と小気味いい音を立ててキャップを外し、口に含む。
 ……普通の栄養剤だな。
 舌先だけでまず味わってみたののの、特に変わった味もピリピリする感じもなかった。
 とはいえ、不安が消えないわけじゃない。
 内心、ものすごく疑い、そして莫大な不安を感じつつも、飲み干した空き瓶をテーブルに置く――……と、なぜか楽しそうに祖父が微笑んだ。
 だから、その笑顔はやめてもらいたいモンだな。
「効果は1週間だそうだ。せいぜい楽しみなさい」
「……いや、だから。なんの?」
「ま、気にするな。羽織ちゃん、がんばるんだよ」
「え? あ、はい……?」
 ぽん、と肩に手をやられつつも、何がなんだかわかっていない彼女は、困ったように俺と祖父を交互に見た。
 いや、当然俺もワケがわかってないんだけど。
「あぁ、そうそう。祐恭、高校の制服を一式持っていったほうがいい」
「……は? なんで」
「何かと、必要になるだろうからな」
「…………今さら? 冬瀬の制服が……?」
 にっこり笑ってのセリフを聞いて、ますます嫌な予感が大きくなる。
 高校卒業して、どれだけ経ってると思ってるんだ。
 とは思うが――……そう言われたら、無視はできない。
 それこそ、今までも痛い目に遭わされてきた相手だから。
 きっと、今のは“忠告”に違いないから。
「……じゃ、車。ありがとな」
「また、来るといい。羽織ちゃんも、また今度ゆっくりおいで」
「ありがとうございます」
 にっこりと笑って頭を下げる彼女の手を引き、社長室のドアをうしろ手で閉める。
 ――……そんな俺たちがあとにした室内で、祖父が楽しそうにどこかへ電話をしているなど、このときの俺は知るよしもなかった。

 実家に顔を見せがてら寄り、忠告どおり制服を引き取ってからマンションへと向かう。
 結局、家に着いたのは19時過ぎ。
 なんだかんだいって、実家で結構のんびりしていたらしい。
 それでも、今日はツイてでもいるのか、渋滞につかまることなく冬瀬市の境界看板が見えてきた。
「…………」
 信号待ちで止まると、思わずため息が漏れた。
 なんとなく、鼓動がいつもより早い気がする。
 それだけじゃない。
 なんか、さっきからやたら暑いんだよな……。
 だが、ちらっと彼女を見ると、いたって普通の顔をしていることから、どうやら自分だけが暑いらしいことはわかった。
 ……さっきのアレのせいか……?
 とはいえ、これといって彼女に対する性欲が高まっているワケでもなければ、ソッチがうんぬんという気配もない。
 首をひねりながらも車を走らせ、マンションの駐車場へ車を停めてから、いつも通りに家へと上がる。
「先生……?」
「……え?」
 玄関に上がったところで、先に上がっていた彼女が眉を寄せて俺を振り返っていた。
 神妙な面持ちに何事かと思っていると、伸びた手が額に当てられる。
「風邪、引いたんですか?」
「……え。そう?」
「うん。……ちょっと熱いですよ?」
「……確かに、少しだるいかな」
 リビングに行ってから鍵とスマフォをテーブルに放り、うなだれるようにソファへもたれる。
 ひんやりとした床の感触が心地いい。
 思わず目を閉じてため息をつくと、隣に彼女が座ったらしく、ソファが沈んだ。
「大丈夫ですか?」
「……ん」
 うっすらと瞳を開けて彼女を見ると、心配そうに眉を寄せていて。
 そんな顔しないでくれ。
 笑みを作りながら、彼女に手を伸ばす。
「大丈夫だよ。夏風邪なんてすぐ治る」
「……うん」
「栄養のつくもの作ってくれれば、十分だから」
「がんばりますね」
 にっと笑ってそれだけ言ってから、重い身体を起こして寝室へ。
 あー、だる。
 思わずベッドへ座り込むと、そのまま倒れるように横へなっていた。
  ……重い。
 なんだか知らないが、急激に身体が重たく感じる。
 そして、だるい。
 ものすごく。
「今日は風呂いいや。先に休むよ」
「あ、はい。……大丈夫? 何か飲みます?」
「んー……いいや。明日までには治すから」
「……うん」
 心配そうに見上げた彼女に微笑んでから、軽く手を振る。
 ……だるい。
 それこそ、インフルエンザにでもなったみたいだ。
 とはいえ、身体が熱いだけで寒気はない。
 ……夏風邪って、そういうものだったか?
「……はー……」
 そんなことを考えながらベッドに入ると、すぐに意識が途切れたらしい。
 そのため、風呂から上がった彼女がベッドに入ったことにも、まったく気付かなかった。
 ……なんか、ヘンなんだよな。
 漠然とした不安がつきまとう中、当然のように頭の隅では『アレを飲んだせいか?』と疑ってもおり、心配でたまらなくもあった。
 ――……ちなみに、その日の夢はあまりよくなかった。
 どれもこれも、なぜかすべてが高校時代のモノばかり。
 ……制服を持ってきたからかもな。
 そういえば放りっぱなしだけど……どうしたっけか、アレ。
 まぁ、多分彼女が掛けてくれてあるだろうな。
 ホント、できた彼女だから。
 夢うつつにそんな心配をしている自分は、ある意味マメなのかもな、なんて少しばかり思いもした。


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