結局、翌日も彼女が来ることはなかった。
本来ならば、俺から電話をかけて誘いたいところなのだが、なんとなくそれが阻まれたまま。
落ち込んでないはず、ない。
だから、電話をかけて無理に彼女を強がらせたくなかったというのもあった。
彼女ならば、きっとそうしてしまうだろうことが、容易に想像できるから。
「…………」
久しぶりの、彼女のいない週末。
パソコンを起動して論文を開いたものの、結局は考えごとをしたまま手付かずの状態。
コンポから流れるFMでは、合格発表があって無事に受かったという投稿が流れている。
そして、それに対しての『おめでとう』という祝福の言葉。
「……はぁ」
ついついそんなことばかり耳が拾ってしまい、手は疎かのまま。
気付けば夕闇が迫りだす時間になっており、事実、部屋の中もかなり暗くなっていた。
だが、ディスプレイが明るかったぶん、そんなことに気付いてなかったらしい。
「……?」
リビングの明かりでも点けようか――……と思ったとき、ちょうど部屋のチャイムが鳴らされた。
……って、ここのチャイムを直接押す人間はひとりしかいない。
合鍵を持っている、彼女だ。
……さて。どんな顔をしようか。
などと考えながら玄関の鍵を開けてやると、荷物を抱えた――……彼女が笑顔で立っていた。
「ちゃんと、ごはん食べました?」
「……あ、いや。……食べてない」
「もぅ。駄目じゃないですかー。ただでさえ、平日は先生にごはん作ってあげられないんですよ?」
眉を寄せて苦笑を浮かべてから、彼女が靴を脱いであがる。
肩の出た、なかなか色っぽいセーター。
ミルクティーにも似た色で、彼女によく合っている。
「……電話くれれば、迎えに行ったのに」
「あ、ううん。お兄ちゃんが大学へ行くって言うから、送ってもらったんです」
冷蔵庫に、買って来た材料を入れながら返事をする彼女に歩み寄ると、にっこりと笑みを浮かべた。
それは、無理して笑っているという感じじゃないんだが……どうも引っかかるのは、単なる俺の思い過ごしなんだろうか。
「あ、ごはん作りますね。今日は寒くなってきたし、シチューにしようかと思うんですけれど……」
「うん。よろしく」
「はぁい」
こちらの返事に笑みを見せる彼女は、まるで何事もなかったかのようだ。
やっぱり、俺のほうがずっと引きずっているんだな。
などと考えてからパソコンとコンポの電源を落とし、テレビをつけてからソファで待つべく腰を下ろす。
心地よく響く、包丁の音。
それを聞きながらテレビを見ていると、しばらく経ってから彼女が隣に腰をおろした。
流れているのは、夕方のニュースだ。
「何か見る?」
「ううん。ほら、受験生だし。ニュース見ないと!」
首を振って微笑み、そのままテレビに視線を戻す。
そんな姿が、どこか――……強がっているように見えてしかたがない。
その一方で、すでに気持ちを切り替え、センターに向けてがんばっているようにも……見える。
「……せんせ……?」
彼女を見ていたら、自然に腕が伸びた。
「……試験お疲れさま」
引き寄せ、それだけを呟く。
……と言えば聞こえはいいが、それしか言ってやることができなかった。
ぎゅっと回された腕。
いつもよりずっとか細く感じるのは、俺の気持ちのせいなのか。
「……ん」
本当に小さく、彼女がうなずいた。
それが、なんだかとても切なくて――……。
「っ……」
「え?」
しばらくそうして抱きしめていたのだが、不意に彼女がキッチンへと向かってしまった。
「そろそろ、えへへ。いいかなーと思って」
――……聞き間違いじゃなければ。
俺の、思い込みじゃなければ。
その声は、明らかに震えていた。
「…………」
彼女のあとを追ってキッチンに向かうと、こちらに背を向けて俯いている小さな身体が見えた。
そして……時おり、震える肩。
…………やっぱり。
彼女はまだ18の女の子で。
俺なんかよりも、ずっとダメージがデカかったんだ。
「っ……」
「俺の前で強がらなくていいって言ったろ」
そっと後ろ向きに抱きしめてやってから正面を向かせ、俯いた彼女の髪を撫でるようにして抱きしめると、小さく嗚咽が響いた。
今まで我慢していたこと。
周りに心配をかけないように、わざと強がってみせていたこと。
そのどれもをきちんと汲み取ってやれなかった自分に、腹が立った。
落ち込まないはずないのに。
ツラくないはずないのに。
「ごめ、なさっ……私……」
「……いいよ。わかってるから」
「ふ……ぇ」
彼女が、ほかの人間に当り散らすなんて考えられない。
だとしたら、取る方法はひとつ。
こうやって、自分の中に閉じ込めて、蓋をして、我慢をするだけ。
声を殺して泣いている彼女の背中を撫でながら、顎下に身体を引き寄せる。
もっと早くこうしてやればよかった。
そうすれば、もっと早い段階で救えていたかもしれないのに。
「…………」
壁にもたれて彼女の髪を撫でながら、ため息が漏れた。
かけてやるべき言葉なんて、そう簡単に出るもんじゃない。
実際に受験して、緊張して、こういう結果を受けたのは、彼女自身にほかならないんだ。
彼女のツラさも、悔しさも、悲しみも。ほかの人間が、わかってやれるはずない。
「……ん?」
「…………すみません」
しばらく経ってから、彼女が胸に手を当ててそっと身体を離した。
「いいよ? まだ」
「ううん。……もう、大丈夫。切り替えれそう」
真っ赤にした瞳を手で擦ってから笑みを浮かべると、何かに気付いたようにコンロを振り返った。
「わぁっ!」
慌てて火を止めて、水を足す。
どうやら、茹ですぎて煮詰まっていたらしい。
「…………」
「食える食える。ほら、シチュー作るんだろ?」
「……けど……」
「大丈夫だって。ちゃんと煮えてるんだから」
苦笑を浮べてうなずくと、彼女もまた小さく笑ってうなずいた。
少しは晴れた気持ちになってくれれば、それでよかった。
どうしても、彼女の力になりたかったから。
「……うん。普通にうまいよ」
ようやくできあがった、夕食のシチュー。
ひと口食べてからうなずくも、彼女は苦い顔をしたままだった。
「……なんか、あんまりおいしくない……」
「ま、それはまた今度ね」
眉を寄せた彼女に笑うと、こちらを見てから小さく笑った。
まだ目は赤いものの、ほかはいつもと変わらない彼女。
……それこそ、うさぎみたいだな。
って、こんなこと言ったら呆れられるかも。
などと考えながらスプーンを口に運ぶと、彼女と目が合った。
「ん?」
「……ありがとう。先生」
「なんだよ、水臭いな。いつでも貸してあげるよ、俺くらい」
「えへへ……ありがとう」
ったく。
俺は彼氏なんだぞ?
苦笑を浮べて頭をぽんぽんと撫でてやってから、シチューをすくって続きを食べる。
……ようやく、いつもと同じ彼女のテンション。
だからこそ、彼女を見ながら――……言葉が出た。
「次はセンターだな」
「うんっ。……また、ご指導お願いします」
「もちろん。今度は、びしびしいくから」
「えぇー?」
「受験生だろ? もっと気合入れる」
「……はぁい」
どうしようか迷ったのだが、受験の話が普通にできて安心した。
笑顔を見せてくれた、彼女。
これでやっと、俺自身も切り替えができるだろう。
彼女を先に風呂へ入れてやってから、自分もあとを追う。
――……と、スマフォに着信が入った。
珍しいな、こんな時間に。
などと訝りながら通話ボタンを押すと、相手は紗那だった。
「もしもし?」
『あ、お兄ちゃん? あのさぁ、羽織ちゃんのことなんだけど……』
「……ああ、この前の入試だろ? あれなら、もう吹っ切れたってさ」
『そっか……でも、もっと人のこと蹴落とすくらいでもいいのに……羽織ちゃん、優しすぎるんだもん』
きっと向こうで眉を寄せながら唇を尖らせているであろう顔が容易に想像ついて、つい笑みが漏れた。
確かに、紗那の言う通りでもある。
……でも、な。
「それができないのが彼女のいいとこでもあるんだよ」
『まぁね。……あ、それで、例の子は受かったからって、伝えておいてくれる?』
……何?
話が飲み込めず、眉を寄せてから彼女に続ける。
「……例の子って?」
『え? お兄ちゃん、羽織ちゃんから聞いてないの?』
「何も……言われてないけど」
すると、小さく声を上げて紗那が押し黙った。
……なんか隠してるな、お前。
「なんだよ。そこまで言われたら気になるだろ。……で? 何かあったのか?」
『やー、そのー……んー……あー、そっか……羽織ちゃん、言わなかったんだねぇ』
「だから。なんのことだよ」
眉を寄せたまま、大き目の声で“白状”させるべく語勢を強める。
すると、ようやく観念したように紗那が渋々切り出した。
『実は――……』
紗那の言葉を聞き終えたところで電話を切るとともに、浴室へ向かう。
彼女らしいっちゃ彼女らしいが……まさかそんなことになっていたなどとは、考えもしなかった。
だが、試験終了後からずっと彼女が不安な顔をしていた理由が、ようやくわかった。
紗那の言葉と彼女の態度からして事実だろう。
……どうして言わなかったんだよ。
思わず眉を寄せてから、引き戸を開ける。
「…………」
……とはいえ。
やっと切り替えができた今、もう1度蒸し返すのはどうなのかとも正直思いはする。
何より、今さら騒いだところでどうにかなるものでもない。
……だが、これだけは言っておこうと思う。
なぜ、彼女が試験に不合格だったのか、その理由を。
浴室に入ると、のんびりと湯船に彼女が浸かっていた。
ざっと髪と身体を洗ってから、対面する形で自分も中に入る。
「…………」
湯が少し溢れ、彼女と自然に視線が合った。
「なんですか?」
何度かまばたきをしてから、こちらを見る彼女。
……さて。どう言ったらいいものか。
恐らく、もっといろいろな言い方があったんだろうが、結局普通に切り出していた。
「例の子が合格したって」
「……例の子?」
「そう。……例の子、だよ。例の子」
「例の子……。あ」
やっぱりか。
訝しげに眉を寄せていた彼女が、いきなりほっとしたように微笑む。
……なるほど。
紗那の言ってたことは、事実だったんだな。
「そっかぁ、受かったんだー。よかったぁ」
「……よかった、じゃないだろ? どうして紗那たちに任せておかなかったんだよ」
「っ……! せん、せ……聞いたんですか?」
「今、紗那から電話があった。だいたい、受験票を探してて遅れたなんて話、聞いたことないぞ。しかも、他人のために」
思わず瞳を細めて彼女を見ると、申し訳なさそうに俯いた。
「……ごめんなさい」
「俺に謝っても仕方ないだろ? もう過ぎたことだから、まぁ……仕方ないとは思うけど」
それでも、正直納得いかない。
あえてため息をついて視線を逸らすと、叱られた子どものように彼女が口を結んだ。
「……まぁ、羽織ちゃんらしいっちゃらしいけど」
フォローになってるかどうかはわからないが、とりあえずそう付け加える。
別に、怒ってるわけじゃない。
それを、彼女に伝えるために。
「だって……今にも泣きそうだったんだもん」
「……そりゃそうだろ。面接の前に受験票なくせばな」
「その子、中学まで一緒だった友達なんです」
「……そうなの?」
「うん。だから……つい、困ってるの見て、ほうっておけなくて。でも、受かったんだ……よかった」
顔を上げて嬉しそうに笑う彼女に、思わずため息が漏れる。
すると、眉を寄せて恐る恐る俺を見上げた。
「怒って……ます?」
「別に」
「……怒ってるじゃないですかっ! うぅ。私が、そういうことしたから?」
……ったく。
もう1度ため息をついて苦笑を浮べてから、彼女に手を伸ばす。
しょーがない子だな、本当に。
「怒ってないよ。……でも、どうしてそんなふうに笑えるんだ? その子さえそんなことしなかったら、受かってたんだよ?」
「受かってたかどうかはわからないですよ。……でも、彼女も心理専修希望だったし……。同じ目標持ってる友達が成功すると、嬉しいじゃないですか」
……この子は。
つくづく、受験戦争では勝ち残れない組だと思ってしまった。
そんなところでまで、他人を優先してやる義理はないのに。
「……あのね。いい? ライバルなんだよ? その子を放っておけば、空席ができたかもしれないじゃないか」
「ライバルって言っても……同じ目標持ってるんですよ? 友達だし……だもん、そんなふうに思えないです」
眉を寄せて真っ向から否定され、思わずため息が漏れた。
……はたして、今ので何回目のため息だろうか。
――……とは思うものの。
「……ったく。しょうがないな」
そう言ったときの自分は、明らかに笑っていて。
その顔を見た彼女も、嬉しそうに微笑んだ。
……もう、仕方ないとしか言えないよな。
彼女らしいといえば、らしいんだから。
「羽織ちゃんが不合格だったのは、それなんだよ」
「え?」
「だから。受験しに大学へ行ったのに、いくら他人のためとはいえ時間を守れなかったから……だってさ」
「そうなんですか?」
「うん。紗那が教授に直接聞きに行ったから間違いないだろ。小論文も実力テストも申し分ない成績だったのに、人を助けるためとはいえ時間の枠を緩めることはできないため、残念ながら不合格にせざるを得なかった、って」
……あの教授が言いそうなことだ。
思わず苦笑すると、彼女も同じように苦く笑った。
「……でも、本学の学生としては、彼女のような子を理想とする、って。だから、センターでも一般入試でも、ぜひ突破して春には門をくぐってほしい、ってさ」
「……ホントに……?」
「ホントだよ。なんなら、紗那に直接聞いてみる? そもそも、受験受験で手段も選ばずに人を蹴落とすことばかり考えてる人間よりはずっといいし。第一、教師目指してる学生だったら、なおさらね」
「……そっか……。うん。そうですよね。がんばります」
「よし。……それでこそ、俺の彼女」
にっ、と笑ってうなずくと、少し照れたように彼女も微笑んだ。
この分ならば、恐らく彼女は4月にリクルートスーツを着て、あの大学の門をくぐることになるだろう。
……改めて、しっかり化学叩き込むか。
などと密かな目標をいだきつつ彼女に微笑むと、さっきまでは赤かった目元も、今はほとんど目立たなくなっていた。
「さて。そろそろ出る?」
「そうですね。……ちょっとのぼせた感じ」
「ああ、それなら大丈夫。俺が介抱してあげるから」
「っ……だ、大丈夫ですってば!」
「まあ、そう遠慮せず。俺も、目の前の羽織ちゃんにだけは優しいから」
「もぅっ! 平気なの!」
「はいはい」
肩をすくめて湯船から上がったところで彼女を振り返ると、少しだけくったりしてるように見えた。
……俺の介抱が必要らしい。
目が合った途端慌てたが、口角を上げるといっそう顔を赤くして視線を逸らした。
「失礼します」
「お、ちょうどいいところに」
「え?」
週明けの、いつも通りの化学の授業前。
彼女が笑顔で準備室にやって来たので、早速ある物を見せてやる。
「……あ。北海道行ったんですか?」
「俺じゃないよ?」
「わかってますよっ」
眉を寄せて呟くと、案の定軽く睨まれた。
だが、見せた箱をしげしげと手に取った彼女は嬉しそうに微笑む。
「おいしいですよねー、白い恋人」
「……おいしいよなぁ」
「あれ? 先生、甘いもの平気でした?」
「ん? 甘いもの違いじゃない?」
「……え? ホワイトチョコは平気?」
「まさか。甘い物全般受け付けないけど」
「じゃあ何がおいしいの?」
「だから、俺の白い恋人」
「…………ッ……な!」
やっと気付いたか。
にっこり笑って頬杖をつきながら見あげると、ようやく意図に気付いたらしく頬を染めた。
「や……っ……え、えっちっ」
「なんで? 俺は正直に言ったまで。先週は食いそびれたしね。今週は問答無用で連れて帰るから」
「……い、行きませんっ」
「駄目。赤本やるんだろ?」
「そうだけど……でも、先生……間違えると意地悪なんだもん」
「そりゃ、間違えるほうが悪い。受験戦争真っ只中なんだよ? 羽織君」
「……むぅ。それはわかってますけど……」
「どうかなぁ。……あ、今日は実験やるから早めに準備するように伝えてね」
「はぁい」
箱を机に置いて渋々うなずくと、頭を下げてから準備室をあとにした。
今週末はこれで釣って、そのまま勉強させてから……いろいろやるか。
菓子の箱を書類の下に置きながら少し笑うと、ついつい週末へと意識が飛びそうになる。
今週末、勉強もいいけど……秋のドライブもいいよな。
……って、“恋人”は受験生だから。
ついつい楽しいほうへ向かってしまう安直な思考をなんとか制しながら、午後の授業の準備に入ることにした。
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