「…………」
「……うぅ」
沈黙は金なりどころか、沈黙は針のムシロ。
彼の手が途端に止まり、私をじぃっと無言で見つめてくるせいか、心拍数は急上昇。
……もぅやだよぉ。
「先生。もう、普通に丸つけてくださいっ」
「ダメ」
「……なっ……なんで?」
「羽織ちゃん次第で、クラス平均も学年平均も変わるんだよ?」
「だけどっ……!」
「それに、センター受けるんだろ? せっかく、センターの過去問から拾ってきてやった問題なのに……」
「……だって……」
「何」
……もしかして自覚ないんですか?
先生、今すごく意地悪な顔してるのに。
というか、それよりもずっと恐い顔してて……。
やっぱり、化学受けるなんて言ったの……間違いだったかなぁ。
これでも以前よりはずっと手応えがあったと思っていただけに、若干ショックではある。
普段、彼は家で採点したりしないだけに、こう……マンツーマンでちくちくやられると、結構つらい。
得意教科じゃないから、こそ。
「……もうやだ……」
「ヤダじゃないだろ。誰の答案だよ、誰の」
「それは私のだけど……」
小さな声で俯きながら呟くと、小さくため息が聞こえた。
「……俺、別に苛めてるわけじゃないんだけど」
「…………だって」
「復習だろ?」
「………………けど……」
ぽんぽんと頭に手をやられて顔を上げると、先ほどまでとは違って苦笑を浮かべていた。
その顔で安心したのか、ちょっとだけ涙が滲みそうになる。
できなくてごめんなさいっていう気持ちと、ほっとした気持ち。
……でも、どちらにしても彼に対しては申し訳ない。
「悪かったよ」
違う。彼が悪いわけじゃない。
そう言えずに首を横に振るも、彼は頭を撫でてくれるだけだった。
何も言えない。
私が悪いのは、わかってる。
でも……やっぱり切ないんだもん。
「…………」
「……しょうがないな」
何も言えずにいたのを見かねてか、彼が抱き寄せてくれた。
いつもと同じ、あたたかい腕の中。
ほっといて、息が漏れる。
「でも、点数気になるだろ?」
「……でき悪いもん」
「それはやってみなくちゃわかんらないだろ? ほら、しっかり見てる」
「……はい」
ぽんぽん、と落ち着かせるように背中を叩いた彼にうなずくと、私を足の間に座らせたままで採点を再開した。
今までのように質問はされなかったけれど、ときおり手が止まるのが少し怖かったりして。
しかも、それはやっぱり決まって私が自信のない答えを書いた場所だからこそ、何か言われるんじゃないかと多少ドキドキしていた。
……ものの、それ以降は何も言われたりしなかったけど。
変わりに、ピッと引かれる赤い線の音が大きく耳に残った。
…………やっぱり間違えた。
自信がないまま書いた場所には、ほとんど斜めの線が入っている。
「…………」
……ほっ。
最後の問題に丸がつくのを見届けると、彼がトントンと指で箇所箇所を計算しながら点数が記された。
『69』
……んー……微妙……。
平均が55だったんでしょ?
それで、私の69がプラスされて人数で割られると………。
「……微妙」
ぽつりと、同じことを彼も呟いてから答案を揃え、赤ペンを置いた。
……う。
も……もしかして、また何か言おうとか……考えてます?
などとひとりどきどきしていたら、ぽん、と肩に両手を置く。
「順位下がったら、ペナルティって言ったよね?」
「ま、まだわからないじゃないですかっ」
「そりゃあね。平均上回ったし、今回のテストはそれなりに試験対策で作ったからいい点数って言ってもいいけど……やらしい点数取ったな」
「……え?」
不思議に思って彼を振り返ると、視線を合わせずにまぶたを閉じた。
「まぁ、うちのクラス平均は絵里ちゃんがひとりで上げてくれてるようなもんだからね。それを考えれば、まぁ、いいとは思うけど」
「先生」
「でもな……平均より点を取ったとはいえ、順位が守れるかどうかは――……」
「先生ってば」
相変わらずまぶたを閉じたままで何かを隠すように続けている彼の肩を揺さぶると、うっすら目を開けて視線を合わせてくれた。
だけど、なんとなくいつもと雰囲気が違うのは……気のせいじゃないはず。
「……何?」
「なんで、69点がやらしいんですか?」
「別に」
別に、と言いながらも視線を合わせてくれようとはしない、彼。
んんー?
だからこそ、ものすごく不思議で――……不安だった。
「…………」
私の答案の採点をとうに終えた現在。
彼は何かを読んでいるらしく、分厚い紙の束をもっている。
“69”については、ちょっと聞いたんだけど……結局、詳細は教えてくれなかった。
ただひとこと。『絵里ちゃんに聞いてみれば?』と言っただけで。
……うー。
それが。結構気になるんだけど……まぁ、いいか。
月曜日に、聞いてみよう。
「…………」
今、テレビに流れているのは、ちょっとしたバラエティ。
先生は絶対に見ないような類の番組だけに、やっぱり彼は見向きもしなかった。
……恋愛がどうのっていう話は、あんまり好きじゃないらしい。
まぁ、お兄ちゃんも見なかったから、ひょっとしたら――……男の人って、女の人に比べて人の恋愛がどうのっていう話は、好きじゃないのかもしれない。
……でも、さ。
やっぱり、気になるじゃない?
自分と同じ年齢のカップルの話って。
「…………」
内容が内容だけに、いつしか無口になってしまう。
だから、彼に声をかけられても、しばらく気付かなかった。
……気付かなかったことにも、気付かなかったんだけど。
「っわぁ!?」
いきなり両脇を鷲掴みされて声を上げると、背後から小さく笑う声が聞こえた。
「なっ……せ……先生っ!!」
「やっと気付いた? ……ったく。そんなに面白いのか? この番組は」
「……だってぇ」
瞳を細めてテレビと私とを交互に見られ、思わず眉が寄る。
別に、そこまで面白くて仕方がないという番組じゃない。
……だけど。
「…………先生は、どう思います?」
「何が?」
「だから……これ」
彼を上目遣いに見上げてから、テレビへ視線を戻す。
すると、しばらく黙って同じようにテレビを見た。
今やっている番組は、付き合っているカップルが出てお互いのことを話す……という物だった。
本当かどうかは、もちろんわからない。
だけど、今ここで放送されている物を見る限りでは――……やっぱり、本当のような気がしてくる。
……それに。
やっぱり……内容が、ね。
『泊まりがけの旅行を、親に許してもらえない』
そういう相談を持ちかけた彼女も彼氏も、私と同い年。
だから、すごく……親近感が湧くというか。
「…………」
……先生は、どう思っているんだろう。
私はお父さんにもお母さんにも反対されなかったけれど、でも、もし反対されていたら……彼もこのテレビの中の彼と同じように言うのだろうか。
そこが、何よりも気になる。
「……で?」
「え?」
なんとも言えない雰囲気の彼を振り返ると、ソファにもたれて頬杖をつきながら視線を合わせてきた。
……この顔は、苦手だ。
呆れているっていうのがすごくよくわかるし、それに何より――……彼がこの顔をするときは、大抵機嫌がよくないから。
「俺にどうしろと?」
「……あの……。だから……」
彼の言い方で、答えを聞くまでもなくわかる。
……うぅ。
確かに、彼はこの手の番組を嫌いだということはよーく知っている。
だけど……やっぱり気になったんだもん。
……でも、マズったかなぁ。
まさか、こんなに嫌そうな顔されると思わなかった。
「……あの……怒ってます?」
「別に」
う。
……ウソだ。
先生、絶対機嫌がよくない。
声が明らかに怒ってるし、それに何よりも――……視線がテレビを向いたままだったから。
……うー。
彼は、よっぽど今出ている男の子が嫌いらしい。
今喋っているのが男の子なんだけど、そのひとことひとことに対して明らかに反応を見せていた。
……確かに、彼が好きじゃないタイプだとは思う。
見た目も話し方も、いかにも今どきの高校生っていう感じだったから。
「このふたりが、どうして許してもらえないかわかる?」
「え?」
突然の質問でまばたきをすると、さっきまでよりは優しい顔になっていた。
……ほ。
その顔を見れたことで、自分がやけに安心しているのもわかる。
「……未成年だから……かな」
テレビを見てから呟くと、彼がぽんぽんと頭を撫でた。
「確かに。それに、親だって心配だろ? こんな男と泊まりがけで旅行に行かせた日には大事な娘がどうなるか」
「……どうなるって……?」
「…………」
「わ!?」
ぽつりと呟きながら、振り返った瞬間。
いきなり、頬を両手で挟まれた。
ぐいっと顔を近づけられ、思わず喉が鳴る。
……うぅ。先生、近いですってば。
それに、なんだかちょっと不機嫌そうだし。
…………今度は怒られ、るかも。
こくん、と喉が動いたのも、彼にはバレているかもしれない。
「……羽織ちゃんの口からそんなセリフが出るとは思わなかった」
「そんなセリフって……何がですか?」
「だから。キミは経験者だろ? え?」
「え? 経験って何を――……」
ぼそ。
「なっ!!?」
「ホントのことを言ったまで」
「……せっ……先生!!」
いたって平然とした顔の彼を睨むと、肩をすくめてから視線を逸らしてしまった。
な……何を言うのかと思いきやっ……!
『身体は知ってるクセに』
そんなこと、言ったりしないでしょ!?
もぉ……。
赤くなった頬を落ち着かせるように深呼吸してからテレビに向き直ると、コメンテーター役の人も私と同じことを言ったのが聞こえた。
『未成年だから』
だから、外泊を許さない親の意見は当然だ、と。
……やっぱり、それが普通なのかな。
「…………」
じゃあ。
………じゃあ、どうして私は許してもらえたんだろう。
夏のあのときの旅行といい、こうして彼の家に泊まりに来ることといい。
やっぱり、行き着くのはそんな当然といえば当然の疑問だった。
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