「……む」
「え?」
「今どこかで……夢の封印が解かれた気がする」
「……封印?」
「いや、いいわ。こっちの話」
ぴくっと、まるで何かに弾かれでもしたかのような反応。
だけど絵里は、首を振ってからまたすぐにボウルへと向き直った。
「……で、どお? こんな具合だけど」
「あ、いいんじゃないかな? おいしそう」
とろりと滑らかにボウルを流れた、チョコレート。
それを見て、笑みが浮かぶ。
「それじゃ、あとはいよいよコーティングかな」
「ホントに? じゃ、もうちょっとね」
「うんっ!」
絵里が一生懸命作ってくれたマドレーヌは、もうとっくに焼きあがっていた。
ハートの形で焼いたので、その中心をそれぞれスプーンで軽く押しておく。
こうすると、膨らみが戻って、きれいに平らになるんだって。
葉月がこっそり教えてくれた、ひと手間なる技だ。
「ごはんも、ばっちり……かな? 温野菜も準備できてるし、あとはコレを焼くだけ」
「……ふっふっふ。やだ、ちょー楽しみー!」
「あはは。そうだね」
スプーンで溶けたチョコを弄ってる絵里を見ながら、大きくうなずく。
だって、絵里ってば本当にがんばったんだもん。
……田代先生、たくさん喜んでくれるといいなぁ。
ちらりと彼女の横顔を伺うと、やっぱり、いつもと少しだけ違って、まさに『女の子』の顔をしていた。
大切で、とても好きな人のために尽くしてる……その姿。
やっぱり、かわいいと思わずにはいられない。
「あ。ねぇ、絵里」
「ん?」
「そういえばさ……アレはもう、ちゃんと……?」
冷蔵庫からトレイを取り出しながら、振り返る。
……だけど。
やっぱり、その……声が若干小さくなった。
いや、だってあの……やっぱり、ね?
恥ずかしい思いをたくさんしたから。
「……え?」
だけど絵里は、そんな私を見た途端にんまり笑って大きくVサインを突き出した。
意味するもの。
それは間違いなく、やっぱり……ひとつ。
「もっちのロンよ!! だーいじょうぶ。もうとっくに手配済みだから」
……だよね。
あれだけ、『私に任せなさい!』を連呼していた彼女のこと。
抜かりがあるとは、とても思えない。
――……にしても。
「それって……さ」
「ん?」
「誰に……お願いしたの?」
今日1番、ずっと気になっていたこと。
朝に準備したあの手紙を、絵里が学校まで届けにいけるはずがない。
だって彼女は、今までずっと私と一緒にいたんだから。
……でも、一度。
一度だけ絵里は、『頼んでくる』と言ってマンションの下まで行ったことがあった。
だから、渡せるとしたらそのとき。
でも、先生たちがいるのは当然学校で。
関係のない人が簡単に立ち入れるような場所じゃない。
「……あー、アレね」
すると、絵里がやたら意味深な笑みを浮かべた。
……う。
それは……やっぱり、何か無茶なことを……?
一瞬、そんな考えが頭に浮かぶ。
「山中先生よ」
「…………へ?」
「うっふっふ。彼こそが適任者だと思わない? だって、慎重だし丁寧だし、何よりも絶対服……じゃなかった。とにかく! 彼以外には考えられないのよねー」
眉を寄せた私の想像を大きく裏切って、絵里が声高に教えてくれた。
……や、山中先生が……?
「……そうなの?」
「うん。ホント。おおマジ」
その選択は、いったいどうして行われたんだろう。
確かに山中先生は慎重だし、用心深いし……無事にやり遂げてくれそうな気はする。
でも、絵里が言う『適任』かどうかは……どうなんだろう?
正直、彼女が山中先生を選んだというのは意外だった。
「……ま、愛の力は偉大ってことよね」
「え?」
ぽつりと呟いた絵里が、にっこり笑って――……ポケットから小さく畳まれた紙を取り出した。
「なに? これ」
「……うふふ。だから、愛よ。愛!」
手渡されるまま受け取り、音を立てて開いてみる。
……すると。
「……映画?」
「ぴんぽーん。大正解」
そこにあったのは、今年の春に公開予定の新作映画の記事だった。
「実はね、今日この映画の特別試写会があるの」
「え? そうなの?」
「そ。ほら、これって『ちょー濃ゆいラブロマンス』って評判じゃない?」
「…そう?」
「そーなの!」
熱く語る絵里を見たままで、ちょっとだけ首をかしげる。
途端に眉を寄せてぶんぶん首を振られ、ついでに思い切り指差された。
……うーん。
なんかやっぱり、今日の絵里って熱いかもしれない。
「そんで! その映画を見たがってるんじゃないかなーと思って」
「……思って?」
「思ってぇ、おばあさまにいただいたプレミアムチケットを、こっそり譲ってあげたってワケ!」
びしっと天井を指して高らかに告げた絵里へ、思わずぱちぱちと拍手を送っていた。
……なんか……そんな雰囲気だったというか、なんというか。
迫力に押されていたというのも、あると思うけれど。
「……ま、そゆこと」
「そうだったんだ。……なんかすごいね」
「まぁね」
ふふん、と腰に手を当てた絵里に、くすくす笑いながら何度もうなずく。
そのときふと、こそこそ辺りの様子を気にしながらも、しっかり手紙を入れている山中先生の姿が目に浮かんだ。
――……そう。
彼女たちふたりの彼氏が、知るよしもなかった。
その影に、ひとりの若き男性教師の涙ぐましい努力があったなどということは。
御年、25歳。
山中昭はそのとき、手紙を開くふたりの様子をこっそり柱の影から眺めていたのだ。
……そして彼は、心の中で大きな雄叫びを上げた。
小さく作ったガッツポーズとともに。
「…………」
……うん。
もしかしたら、やっぱり1番の適任なのかもしれない。
絵里の説得にしっかり押されたようで、今では私もそう思っていた。
「……で」
「え?」
「ずっと気になってたんだけど……そういう羽織は、今日何を持って来たの?」
ようやく落ち着いたらしい絵里が、再び作業台へ向き直ったとき。
ちらりと私を見てから、カウンターに置いたままだった白い箱を指差した。
「……あ。それ?」
「うん。コレ」
よっ、と腕を伸ばしてから、それを手にした絵里。
……器用だなぁなんて思っている内に、ごそごそ――……。
「って、絵里!」
「……あら、何? これ。お酒?」
「んもー……。ダメだよー! せっかく、先生たちに持って来たのにぃ」
あっという間に、箱を開けて中身を取り出してしまった。
「実はね、それ……この時期だけの限定発売なの」
まじまじと瓶を眺めている絵里を見てから、改めてそれを見つめる。
宮本酒造 バレンタイン限定“艶姫”
ここ数年で、割と有名になり始めたコレ。
中身は、先ほど絵里が溶かしたチョコレートと同じような、チョコレートだ。
……といっても、普通のチョコなんかじゃもちろんなくて。
蔵元が一から作り出した、本当の日本酒チョコレート。
最近では、チョコレートの中に日本酒が練りこまれていたり、液体の日本酒が入っていたりするチョコが売れているみたいだけど……。
でも、これは違うの。
例えるならば、チョコレートシロップ。
あんなふうに、純度の高い日本酒と合わされた、ここでしか味わえないような物。
去年のバレンタインでお兄ちゃんが買って来たんだけど、匂いがまず甘くて。
チョコレート特有の甘さが鼻に付くんだけど、でも、あとから当然のように日本酒の香りがあって。
……でも、ね?
実はこれ、普通の日本酒みたいにさらさらしてないから、シロップみたいに使うこともできるのだ。
アイスにかけたり、はたまたケーキに添えたり。
もちろん、そのままストレートで飲むこともできるんだけど……それだと、もしかしたら少し甘いかもしれない。
お兄ちゃんは、『この喉にクル感じが……』とかひとりで楽しんでたけど、多分彼以外の人は好まないだろうなと、そのとき思った。
「……というわけだから、ね? せっかく絵里が作ったパウンドケーキに、これと生クリームを添え――……っあれ?」
先生たちは、どんな反応してくれるんだろう。
そんなことを思いながらサラダを和えていたんだけど……ない、のだ。
今、確かにここにあったお酒の瓶が。
「……っほぉ」
「え? ッ……わぁ!?」
感嘆ともため息とも聞き分けの付かない言葉で振り返ると、そこには、ぺろりと唇を舐める絵里の姿。
言わずもがなその手には、なにやら茶色い液体の入ったグラスもある。
「へぇー。おいしいじゃない」
「え、ええ、え、っ……絵里!!」
ぱくぱくと、自分の口が開くのがわかった。
でも、言葉がちゃんと出てこない。
……や、あの、だ、だってその……。
目の前でおいしそうに飲まれたら――……って、そうじゃなくてー!
「わー、わー!? だ、ダメだったら! ねぇ、絵里!!」
「いーんや、大丈夫よ。味見なんだから」
「もう! ダメったら!! 味見も何も……っ……ダメだよ、絵里ぃ!」
ぱっぱと手を伸ばして取ろうとする私に対し、絵里はいつも以上に機敏な態度を見せた。
……あーうー。
なんだかものすごく楽しそうな顔をしている彼女。
……だけどやっぱり、その瞳は徐々に据わりつつあった。
注)お酒は二十歳になってからv
「ねぇ、絵里! お願いだからそれ、返して!?」
ね? と言いながら手を伸ばし、ぎゅっと彼女の肩に手を置いて――……。
「ちょっーとお待ちよお嬢ちゃんー!」
「っわ!?」
「こーんなおいしいモノを、そうやすやすと……渡すことはできないわ!!」
びしっ!
「うぁいた!?」
片手に持っている瓶をもらおうと手を伸ばしていたら、いきなり、チョップを食らわされた。
しかも、それだけじゃない。
なんか……な、なんか……えぇ……?
人格が丸ごと入れ替わっちゃってるような。
……そんな気がするんだけど、どうしてだろう。
「おっほっほっほっほ!! 欲しくば、私から奪って御覧なさい!!」
「ひ、ひぇ……!? え、絵里っ!? ちょっ……きゃぁあー!?」
「ほーっほっほ!! 欲しくばぁーー! 取ってみろー!」
まるで、『へへーんだ』とでも言いかねない表情で、思わず眉が寄る。
……だけど。
彼女の瞳が、きらきらとそれはもう楽しそうに輝いているのだけは、確か。
…………あぁあ……どうしよう。
こういうときの絵里って、ものすごく楽しそうっていうか……トランス状態、っていうか……。
「いらっしゃいな、おじょーうさーん?」
洋画なんかで見かける、相手を挑発するポーズ。
あれを器用に実演して見せた絵里が、一瞬祐恭先生とカブって見えた。
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