いつもと同じ、月曜の朝。
気だるさを感じながらも、学校に向かう。
何も変わらない、いつもと同じ光景。
違うとすれば、自分くらいなモノか。
今週末、彼女は自分のところにきてくれるのだろうか。
まだ週が始まったばかりだというのに、ずいぶん先のことを考えてるモノだな。
我ながら、本当に呆れる。
「あ、おはようございます」
渡り廊下を渡って右に折れたところで、準備室から出てきた篠崎君に声をかけられた。
にこやかな笑み。
初々しいスーツ姿。
――……やる気に満ち溢れている様子。
眩しい。
……なんつーか、若いな。彼は。
俺とそう違わないはずなのに、なんだかやけに若く見える。
「おはよう」
「瀬尋先生……大丈夫ですか?」
「え? ……何が?」
「いえ、なんだか、すごく疲れてません?」
「…………年、かな」
これまで考えていたせいか、ぽつりと自覚のない言葉が漏れた。
……年って。あのな。
我ながら、後悔。
ものすごく、ヘコむ。
「年って、そんな。瀬尋先生、自分とそう違わないじゃないですか」
「けど、生徒たちとは6つも違うんだぞ? 篠崎先生は、たった3つ。……その差は大きいよ」
「……そうですか?」
「ああ」
3年というのは、短いようで長い。
生まれたばかりの子が3歳になるんだぞ?
……って、そのまんまだな。
あーもー、ダメだ。
なんか、頭が馬鹿になってる。
ため息をついて彼と行き違いに準備室へ入ろうとすると、篠崎君が小さく声をあげた。
「そういえば、羽織ちゃんが心配してましたよ」
「っ……」
その言葉で、思わず足が止まった。
「いつ?」
「え、昨日会ったとき、ですけど……」
「……昨日?」
自分でも、酷く顔が歪むのがわかった。
昨日、だと?
どうして休日である昨日、彼女のことを知っているんだ?
などと考えていたら、彼がその考えを知ったかのように口を開いた。
「あの、昨日会ったんです。彼女と」
「どこで?」
「……本屋、ですけれど」
「…………ふぅん」
ついつい、視線が鋭くなるのがわかる。
ヤバい。
完全に今、睨んでたぞ。
だが、ここにきて印象のいい教師なんてやってられるはずがない。
そうだろう?
彼女は昨日、『勉強するから』という理由で、俺と会うのを拒んだんだから。
「……昨日、ね」
視線を逸らして準備室の中に入り、ドア枠にもたれる。
……なんだそれ。
つーか、どうして彼が――……。
「あ、篠崎先生」
「っ……」
小さく、高い声が聞こえた。
俺とは真逆の方向。
……そして、足音。
「昨日教えていただいた本なんですけれど、この――」
あるはずのないモノが、すぐそこにあった。
「っ……! せ、んせ」
「…………」
目が合った途端、彼女は瞳を丸くして口をつぐんだ。
どうやら、準備室に入ってしまっていたので、彼だけがいるんだと思ったらしい。
……そんなに露骨な顔しなくてもいいだろ。
俺と目が合った途端、手にしていた本を落としそうになり、慌てて両腕で抱く。
だが、俺は彼女から当然だが視線を逸らすことができなかった。
「……ずいぶん仲がいいんだな」
「っえ、と……」
「篠崎先生」
「あ、はいっ?」
戸惑った彼女から彼へ視線を向け、口元だけを上げて笑みを作る。
かなりヤな感じの笑みだろうが、この際気にするだけの余裕なんてない。
「彼女、かわいいよな」
「……え? ええ、はい」
「純粋で、擦れてなくて、いい子だろ?」
「そう……ですね。……ええと? 瀬尋先生?」
彼女がている前で、すらすらと口が動く。
何か言いたげにしているのに。
口を挟もうとしながら、物すごく切ない顔をしているのに。
……それらすべてを把握しながら、俺はあえて言葉を止めなかった。
「彼女みたいな子が、自分のモノになってくれたら嬉しいか?」
「……え?」
「っ……せんせ……!」
瞳を細めてそれだけ言うと、さすがに彼女が口元を押さえた。
そこで、ようやく彼女へと視線がいく。
『どうして?』
『何を言ってるの?』
そんな、驚きと悲しみの表情に満ちた彼女が。
「俺と、彼と。どっちがいい」
無表情の問い。
あからさま過ぎる、言葉。
……こんなこと言うつもりじゃなかったんだけどな。
どうしても、本音が出た。
『優しい男がいい』
先日見た、あのテレビの映像が頭から離れない。
彼女も、そう思ってるんじゃないか。
この問いに、困る姿は容易に想像がつく。
だが、どうしても想像できないモノもあるんだ。
――……この問いで、迷うことなく俺を選んでくれる彼女の姿が。
「……冗談だよ」
「あ……! 瀬尋先生!?」
「お先に」
逃げることは、うまくなった。
彼女の口が動きそうになって、つい、背を向ける。
……最悪。
俺が彼女だったら、こんな俺は間違いなく見捨てる。
カッコ悪いな。
俺を呼ぶ篠崎君に返事もせず、自分の机へと向かってから――……途中で振り返る。
「……っ……」
ドアの正面に立っていた彼女と、目が合った。
……遠目でもわかる、瞳。
今にも涙がこぼれてしまいそうな、そんな……張り詰めた瞳。
……ヤバい。
何言ってるんだ、俺は。
…………何してんだ。
思わず口元に手を当てると、彼女がきびすを返して戻って行った。
最低だ。
自分が不安定だからって、彼女まで同じ目に遭わせようとするなんて。
「……はぁ」
出てくるのは、後悔から生まれた大きなため息ばかり。
完璧に、嫌われたかもしれない。
………つーか、こんなんだから彼女が俺のところにこないんじゃないのか。
椅子を引いて机に伏せるようにすると、自然に目が閉じる。
瞼に映るのは、彼女の――……あの切なげな表情。
してはいけないことをした。
そんな後悔ばかりが、消えずにしこりとなって固まった。
それから数日が過ぎ、化学の授業を2回経た。
いつもと変わらない、彼女。
……のように見える。
顔を見ていないから、なんとも言えない。
今日は、せっかくの金曜日だというのに。
……彼女が家にきてくれるかもしれない、そんな日だというのに。
やはり、気分は重く沈んだままだ。
「今日は篠崎先生の授業で実験をやるから。研究授業なので、早めに実験室へ集まるように」
「……わかりました」
いつもと同じ時間に自分のところへきた彼女に告げると、特に何も言わなかった。
――……あの日以来、視線を合わせることができないまま。
彼女の瞳が不安げに揺れるのを見るのが、ただ怖かった。
「……祐恭君さ、喧嘩でもしたの?」
「え?」
ふと顔を上げると、すぐ横で純也さんが心配そうに眉を寄せていた。
「喧嘩っていうか、なんていうか……」
差し出されたコーヒーを受け取りながら、思わず視線を落とす。
すると、椅子を引いた純也さんがそこへ座った。
「……絵里に聞いたけど、羽織ちゃんずいぶん落ち込んでるみたいだよ?」
「…………でしょうね」
「今だって、すごい泣きそうな顔してたのに……」
「……え、そう……でした?」
「なんだ、顔見てなかったの? ……あー、だからだよ。祐恭君、最近ちゃんと顔見てあげてないでしょ」
「っ……」
ため息を漏らして椅子にもたれた彼に、小さくうなずく。
すると、彼が肩を叩いた。
「しっかりしろよ。彼氏だろ? あんまり追い詰めるなって」
「けど――……」
「行動しなきゃ、大事なものを失うんだろ?」
「っ……それは」
顔を上げて彼を見ると、にっと笑って手を振られた。
……確かに。
それはわかってたし気をつけなきゃいけない部分だったのに、放棄したのは俺だ。
「さ。授業授業」
机に戻って教科書を持ち、先に実験室へ入っていった彼。
次の時間は、空き授業の彼も研究授業に参加する。
……俺も行かなきゃ。
コーヒーを荷物に持ち替え、彼のあとを追うように実験室へと入ると――……ふたりの姿がそこにあった。
当然だ。
このクラスに在籍してるんだから。
「どういうつもり?」
1番後ろに並んでいる椅子へ座ってからバインダーを開くと、その上に絵里ちゃんが容赦なく手を置いてきた。
……そこには書類があるんだけどね。
まぁ、今の彼女にそんなことを言っても『だから、何?』と睨まれそうだが。
「羽織、最近ごはん食べてないんだけど」
「……ホントに……?」
「こんな、つまんない嘘つくわけないでしょ!!」
その言葉で彼女を見ると、視線をこちらへ向けずに前を向いていた。
だが、横から見える眼差しは確かに覇気がないように見える。
「先生、何かしたの?」
「……したけど」
「あのね。それから、羽織ずっとおかしいんだからね? ちゃんと責任取ってよ!」
「……そう言われても……」
「言われても、じゃないの! だいたい、先生ズルイわよ。どうして、羽織の顔だけ見ないわけ?」
「っ……」
………バレてたのか。
思わず口を押さえると、やっぱり、と言いながら思いきり睨まれた。
「そんなに気まずいことしたんなら、ちゃんと謝って仲直りしてよ」
「……そうしたいのは、山々だけど……」
「だけど、じゃないの! ちゃんとする! わかった!?」
「善処する」
どこかの政治家のようにうなずくと、チャイムが響いてほかの教師も入ってくるのが見えた。
これを機に、彼女を席へと戻らせる。
「ほら、授業始まるよ」
前を向くように告げてから姿勢を正すと、緊張した面持ちで篠崎君が教員用の実験台へと立った。
実験の過程を説明するため、手作りのカードを黒板に張っていく。
……学生らしいことで。
だが、これはやはり見やすさを考えればプラス材料。
そんな彼がひととおり実験の説明を終えると、生徒へ薬品を取りにくるよう告げた。
「……えーとぉ?」
「あ、それ取って」
「ちゃんと分量見るのよ?」
例に漏れず、目の前のテーブルでも実験開始。
真剣に液体を量ってからビーカーに注ぎ、反応を見るためにさまざまな物質を入れる。
泡が出るとか、色が変わるとかってたびに、嬉しそうに会話を交わす羽織ちゃんと絵里ちゃん。
そんな姿がいかにも普段の彼女らしくて、若干笑みが漏れた。
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