久しぶりの、彼女を伴っての帰宅。
 それだけで、こんなにも気分が高まるとは思いもしなかった。
 ……まぁ、今回は3週間も待たされたんだしな。
 当然といえば当然か。
「……ん? どうした?」
「なんか……久しぶりだなって思って」
 靴を脱いでリビングへ向かおうとしている俺とは違い、玄関で止まったままの彼女は少し照れたように笑ってローファーを脱いだ。
「……誰かさんが、人のこと避けるからだろ?」
「だ、だって……」
 困ったように眉を寄せる彼女を抱き寄せ、リビングに向かう。
 手の内にある、温もりと柔らかさ。
 これが、こんなにも心地いいモノだとは。
「……なんか、懐かしい」
「そう感じるほど、ここにこないから悪い」
「っ……だって……」
 まじまじとリビングを見つめてから俺に笑った彼女へいたずらっぽく笑うと、困ったように眉を寄せた。
 そんな彼女に笑みを浮かべてから、先にソファへ座って両手を伸ばす。
「おいで」
「……あ……」
 一瞬戸惑って頬を染めたものの、小さくうなずくと手を取って笑った。
 彼女を後ろ向きのまま抱きしめると、鼻先に髪がふわりと広がる。
「……はぁ」
 落ち着く。
 それ以外の、何物でもない。
 彼女をこうして抱きしめるのは、いったいいつ振りだろうか。
 夏休みのときはこんなこと考えずに済むほど、すぐに手が届く距離にいたというのに。
「……ひとり暮らし、結構好きだったんだよ」
 抱きしめたままでそう呟くと、顎下の彼女が頭をもたげて俺を見上げた。
「自分の自由にできるだろ? 誰にも文句言われないで済むし。だから、気楽でよかった」
「……そうなんですか?」
「それと同時に、やっぱ……自分のプライベートに踏み入られるのが好きじゃなかったんだよな、俺」
 髪を弄りながら、瞳を合わせて続けてやる。
 相変わらず、きれいな深い色の瞳。
 俺だけを映しているのが見えて、なんとも言えない気分だ。
「けど、羽織ちゃんと一緒に過ごして変わったんだ。そばにいてくれないと、何もできない」
「……先生……」
「部屋、こんなに広かったかなって驚いたよ。ソファも、ベッドも、何もかもが広くて。もうクセになってるんだよな、右側を空けることが。キッチンも、主がいないから見るたびに寂しくて」
 ぎゅ、と抱きしめたまま静かに目を閉じる。
 俺が今日まで思っていたことを。
 そして、考えていたことを。
 彼女に、どうしても聞いてほしかった。
「もう、羽織ちゃんがいてくれないと、何もできないんだよ。……みっともないくらい、ね」
「……ホント……?」
「当たり前だろ? だからこの3週間、ホントきつかった」
 ゆっくり頬を撫でてやりながら、瞳を合わせる。
 すると、くすぐったそうにしながらも、彼女はしっかりと目を見て笑った。
「人は変わるんだなって、つくづく思うよ。羽織ちゃんがいないと不安で、落ち着かなくて……」
「……先生……」
「…………頼むから」
「え?」
「……俺をひとりにしないでくれ」
 言い終わると同時に、苦笑が漏れた。
 そんな俺を、驚いたように彼女が瞳を丸くして見つめる。
「弱いよな。……情けないだろ? いつも強く見せてたって、結局羽織ちゃんには敵わない。声が聞きたくて、笑ってほしくて、触れて、抱きしめて、キスをしたくて。どれかひとつでも欠ければ、周りからは死にそうって言われるし」
 箇所箇所に指で触れるたび、指先から伝わる温もり。
 ……ああ、ここに彼女がいるのは現実なんだな。
 なんて、馬鹿な考えですら実感できて嬉しい。
「……だいたい、なんで俺以外の男の車に乗るんだよ」
 思わず、本音が漏れた。
 ヤキモチ。
 嫉妬。
 ……カッコ悪いな、相変わらず俺は。
「え?」
 俺の手を取った彼女が、小さく笑った。
 それはそれは優しく見つめられ、一瞬どきりとする。
「……篠崎先生、似てたんです」
「似てる……?」
「はい。赴任してきたばかりのころの、先生に」
「俺……、に?」
 怪訝そうに眉を寄せると、苦笑を浮かべてうなずいた。
 かと思いきや、目を伏せてから首を横に振る。
「だけど……違うんです。私が大好きな瞳と、手と、声と……車と……全部が違うの。優しい笑顔のときも、意地悪な笑顔のときも。やっぱり先生じゃなきゃ、ダメなんだもん」
 きゅっと手を握ってそのまま頬へ引き寄せた、彼女。
 こうされるだけで、なんともいえず嬉しくなる。
「ん?」
 などと思っていたら、顔を覗きこんだ彼女が珍しくいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……もぅ。先生のせいですよ? いくら優しくされても、それだけじゃ満足できなくなっちゃったんだから……」
「ちょっと違うな」
「え?」
 瞳を細めて彼女を見ると、少し驚いたらしく目を丸くした。
 そのまま、握られていた手の指先で唇をなぞる。
「……俺じゃなきゃ物足りない、満足できないってことだろ?」
 つい、こちらこそいたずらっぽく笑いが漏れる。
 だが、それを見た彼女は意外にも頬を染めて照れたように小さく笑った。
「ったく。根っからのいじめられっ子だな」
「そんな! ……私、そんなんじゃないですよ?」
「違わない。ていうか、見てるといじめたくなるし」
「……もぅ」
 雰囲気がそうさせるのか、はたまた声がそうしてくれと頼んでいるのか。
 どれが原因かはわからないが、彼女を見ていると弄りたくなる。
 もちろん、俺だけに反応を見せてほしくて。
「……ん……」
 小さく笑いながら頬を撫で、ゆっくりと彼女を引き寄せる。
 久しぶりに味わう、唇。
 柔らかくて、心地良くて、吸いつく感触にたまらず角度を変えてもう1度。
 いつもながら、この瞬間の彼女も好きだ。
 こうしていると、一層愛しさがこみあげる。
「ふ……ぁ、んん」
 唇の輪郭を舌でなぞってやってから挿し入れると、おずおずながらも彼女が応えた。
 甘く、包まれる彼女との口づけ。
 相変わらず、甘美で酔わせてくれる。
「ん、……んっ……」
 何度も角度となぞる場所を変えて繰り返してやると、すっかり力が抜けて、しなだれかかるようにもたれてきた。
 静かな室内に響く、ふたりの口づけの音。
 それが、より一層淫らなものに変わって身体に届く。
「……は、ぁ……」
 ため息にも似た吐息。
 それと同時に目が合い、久しぶりに抵抗のない潤んだ瞳を見ることができた。
「ん?」
「……えっち」
「羽織ちゃんがそうさせるんだろ」
 思わずニヤけた瞬間を見られ、苦笑を浮かべた。
 そのまま頬に口づけてから、首筋へと滑らせる。
「っん! ……だ、めっ」
「なんで?」
「だって、夕飯……先に作るから……!」
「材料ないし」
「じゃあ、先にお買い物!」
「いいよ、面倒くさい」
「もぅ、先生っ!」
 彼女の話の腰をぽきぽき折ってやりながら続けると、小さく笑われてしまった。
 自然とこちらも笑いが漏れ、肩が揺れる。
「……何?」
「もぅ……いつもの先生と違う」
「そう?」
「うん。どうしたんですか? すごく、こう……甘えたさん?」
「……かも」
「っ……え……?」
 思わず素直にうなずいてしまった途端、彼女が露骨に驚いた。
 ……って、あのさ。
 何も、そんなにびっくりしたような顔しなくてもいいだろ?
 俺だって傷つく。
「……そんなに意外?」
「だって……先生、いつも素直に『うん』なんて言わないじゃないですか」
「失敬だな。俺だって素直な部分ぐらいある」
「あはは。それもそうですね。……じゃあ、せめてお風呂――」
「ムリ」
「……でも、だって、もう7時すぎて……」
「ダメ」
 瞳を合わせたままで即答すると、また可笑しそうに笑った。
 ……さっきから人の反応で楽しそうにしやがって。
 と思いながらも、つい笑みが漏れる。
「……なんだよ」
「あはは! だ、だって……」
「だってじゃない。……ったく。人のこと、馬鹿にしてんの?」
「馬鹿になんてしてないですよ! ただ、いつもの先生と違って、かわいいなぁって」
「それは馬鹿にしてるに入らないのか?」
「褒め言葉ですよ?」
「嬉しくない」
 視線を合わせたままであからさまに不機嫌な顔をすると、少し考えるような仕草をしてから、彼女が続けた。
 相変わらず、素直な子だ。
 絵里ちゃんあたりだったら、うるさいと一喝しそうな気もする。
「んー……じゃあ、かわいいじゃなくて、素直?」
「……もうちょっと」
「もうちょっと? ……純粋?」
「ま、いいだろ」
「……もぅ」
 くすくす笑って頬を肩に寄せ、顔をごく近づけて呟かれる言葉。
 吐息がかかり、小さく喉が鳴る。
 これは結構……ヤらしいな。
 多分、彼女は自覚ないんだろうけど。
「……風呂入るか」
「え……?」
「ダメ?」
「……だ……って……まだ、ごはんも……」
 抱きしめたまま呟いたのだが、すぐに彼女は身体を離して瞳を合わせた。
 照れたように頬を染め、困ったように見せる顔。
 ……これを見ていると、どうしても今すぐに欲しくなる。
 などと考えていたせいか、声が妙に自分っぽくなかった。
「……あ、そうだ」
「え?」
 不意に思い出した、大事なこと。
 コレだけは、聞いておかなければならない。
 今回、3週間も彼女が俺から離れた理由を、孝之から仕入れてきたんだから。
「俺が論文書くから、邪魔になるなんて思ったワケ?」
「あ……そう、です。だって、夏休み中先生が論文やってるところなんて、あんまり見なかったから……だから、朝早く起きたり、夜中に起きてたんじゃないかって思って……」
「……それで?」
「だから……私が邪魔する時間がなければ、先生もっと楽になるかな……って」
 顔をごく近づけたままで彼女を見ると、語尾をしぼませて上目遣いにこちらを見上げた。
 ……なんにもわかってないな。
 思わず、ため息が小さく漏れる。
「この3週間、まったく論文がはかどらなかったんだけど」
「え!? な、なんでですか?」
「俺、学校でも論文書いてるんだよ? 毎日、結構空き時間あるし。もちろん、授業とか教材研究のためにも使うけど、それだけじゃない。だから、羽織ちゃんが心配するようなことはないんだよ。……むしろ、会わないほうがはかどらない」
「だけど……!」
「いい? 俺だって羽織ちゃんと週末会えるから、平日頑張れるんだ。授業の合間とか、平日の夜とかで十分間に合うんだよ。だから、もちろん夜もちゃんと寝てる。……なのに、その週末の楽しみを奪われてから、気が気じゃなくて仕事どころじゃなかったよ」
「……ホントに……?」
「嘘なんて言わない」
 そんなことしても、メリットがないからな。
 ため息混じりに呟くと、驚いたように彼女が瞳を丸くした。
 そりゃ、そうだろう。
 自分がよかれと思ってしたことが、かえって(あだ)になっていたんだから。
「空き時間も余計な考えに支配されて、すげー嫌だった。家に帰ってからだって、いくら否定しても拭いきれないし……だから、俺の場合は羽織ちゃんと会わないと論文も仕事もうまくいかないんだよ。わかった?」
「……そんな……じゃあ、私がしたことって……」
「逆効果」
「っそんなぁ……!」
 瞳を細めて呟くと、眉を寄せて困ったような顔を見せた。
 そんな彼女の頭に手をやって、撫でるように髪へ触れる。
「だから、もう2度と変なこと考えないように」
「……わかりました」
「よし」
 こくん、と素直にうなずいた彼女を見ながら、人差し指を立ててみせる。
「え?」
 話はまだ、終わらない。
 聞きたいことは、まだまだある。
「先週、篠崎先生と会ったってホント?」
「……あ……。はい」
 小さくながらもうなずいたのを見て、再びため息が漏れる。
 ――……だが。
 慌てたように、彼女が首を振った。
「違うのっ! 本当に、偶然なんです。本屋さんにいたら、篠崎先生がいて……」
「それで? どうして、彼と話す必要がある?」
「だって……」
 我ながら、嫌な性格してると思う。
 知っている教師がいたら、俺だって声をかけるのかもしれないのに。
 なのに、彼女にはそんなことすら許せないらしい。
 俺という、心の狭い彼氏は。
「……化学の参考書、教えてもらったんです」
「化学の?」
「はい」
 意外な答えに、つい聞き返していた。
 彼女が本屋で選択しそうにない科目だし、もっとも縁遠そうな本だからだ。
 なんでまた、参考書なんか選んでるんだ。
「それなら、俺に聞けばいいじゃないか」
「……だって……」
「だって?」
 当然だろう。
 どうせなら、俺に直接聞いてくれれば、それなりに答えもあったしほかの選択を与えてあげることもできたのに。
 だが、眉を寄せた途端彼女は俯いて――……から、再び目を合わせた。
「……先生の科目だから内緒で勉強したかったんです」
「内緒で?」
「うん。……先生のこと、ちょっとてびっくりさせたかったっていうか……」
 ぽつりぽつりと呟いた言葉を聞いていたら、瞳が丸くなった。
 途端に、彼女が頬を染めて俯く。
「だからっ……あの……。私――……っ!」
「……かわいいな」
「なっ……! か、かわいくないですよっ!」
「かわいいんだよ」
 ぎゅっと抱きしめ、首を振る彼女の背中を撫でる。
 ……あーもー。
 こんな彼女だからこそ、そばにいてほしいワケで。
 先日までの多くの時間を一緒に過ごせなかったのが、ものすごくツラかった。
 ……なんかもう、ものすごくダイレクトに鷲掴まれた感じだ。
 すっかり落ちるところまで落ちたな。俺も。
 年下がというよりは、彼女が特別なのかもしれない。
 ……というか、特別だろう。
 ヤバいな。
 本当に、中毒かもしれない。
「せ……んせい?」
「……ダメ。もう、待てない」
「え……えっ!?」
 ぼそっと呟いてから、そのまま持ち上げて向うのは――……もちろん浴室。
「ちょ、まっ……! せ、先生! 待って!!」
「だから、待てないって言ってるだろ? 無理」
「む、無理じゃなくてっ! だって、こんなっ……!!」
「いいから、黙って大人しくしてなさい」
 じたばたと腕の中で暴れる彼女を見ずに、洗面所へ入ってから降ろしてやる。
 もちろん、後ろ手でしっかりきっちりとドアを閉めてから。
 俺がどれだけつらい思いをしたか、彼女にもしっかりわかってもらわなければならない。
 それこそ、その身を持ってして。
「3週間のお預け分、きっちりもらうから」
「……な……! 何をですかっ」
「明日休みだし、別に用事はないだろ? だから、できることなら朝まで離したくないね」
「えぇ!? そんなぁ!」
 洗面台に両手をついて彼女を挟みこみ、口角だけを上げて笑みを作る。
 途端に彼女が眉を寄せるが――……俺が離してやるワケないだろ?
「……ったく。もう少しで危うく1ヶ月放置だよ? 勘弁してくれ」
「だってぇ……」
「だって、じゃない。もう待てないから」
「せ、先生っ!」
「……何?」
「もぅ……何も、そんな……」
「男にとっては切実な問題。ていうか、彼女がいる男にしてみれば不健康極まりない」
 シャツのボタンを外すと同時に、ついつい笑みが浮かんだ。
 今夜だけは。
 ……なんとしても、我侭を聞いてもらう。
 それこそ、ものすごい数とかに膨れ上がった“欲望”にも似た我侭を。


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