目の前に積まれた書類は、もう見慣れた。
日永先生の突然の呼び出しで休日出勤となったわけだが、それから結構な時間経ったにも関わらず、一向に仕事の量は減りそうになかった。
……むしろ、増えているんじゃ……。
そんな気がして、余計滅入ってしまう。
彼女には帰れるのが何時になるかわからないから……とは伝えたんだが、それでも待つと言ってくれた。
それは嬉しかったが、やっぱり申し訳ない。
……あれから、数時間。
すでに時計はいつもならば定時である17時をとうに過ぎ、18時近くを指していた。
そりゃあ、休日は手当てがそれなりに付くというメリットもあるが、彼女と一緒にいられる時間を削ってまで稼ごうとも思わないわけで。
……まぁ、仕事なんだから仕方ないって割り切れれば簡単なんだけど。
そうもいかないんだよ……。
ただでさえ、一緒にいられる時間が少ない俺たちの場合は。
「……あれ」
ふと窓の外に視線を向けると、渡り廊下を歩いていく山中先生の姿が目に入った。
……あー、山中先生も休日出勤なのか。
なんてことを考えていると、向かいからひとりの生徒。
彼を見つけるなり嬉しそうに走り寄ったのは――……紛れもなく田中詩織本人だった。
それに気付いた彼も、嬉しそうに小走りで近づく。
何やら楽しそうに話して……ふたりは、一緒に向こうへと消えて行った。
……はぁ。
いいよな、あのふたりは。
……って違うか。
俺だって、家に帰れば彼女がいるんだし。
…………つーか、早く帰りたい。
黙々と作業を続けながら書類の束を糸でまとめ、机の端に置く。
「っわ!?」
その途端、ばさぁーっと雪崩が起きた。
……だけならば、修復が容易に可能。
…………なのに……。
「……嘘だろ……」
この日に限って、飲まないコーヒーを机に置いていたため……カップを勢いで倒してしまった。
無論、机の上に茶色の液体が溢れ、冷め切っているのにコーヒーの匂いがやけに強く充満する。
……当然……書類も被害を受けたわけで……。
「…………はぁ……」
今夜は、ひょっとしたら帰れないかもしれない。
自分のしたことだけに誰を責めるわけにもいかず、改めてイチからやり直すはめになった。
……俺が何したって言うんだよ。
…………泣きそう。
朝からずーーっとこんな調子で、俺自身ある意味限界だったのかもしれない。
やっと仕事から解放されたのは、21時を目前に控えたときだった。
職員室もほとんどの教師がおらず、もはや数名。
そんな彼らに挨拶をしてから足早に駐車場へ向かい、相変わらず匂いが容易に想像つくセリカの運転席に座ってから、彼女に電話を入れる。
「……あ、もしもし」
『お仕事、終わったんですか?』
「うん。これから帰るから……ごめん。ずっとひとりにさせてて……」
エンジンをかけながら俯くと、慌てたように彼女が続けた。
『ううんっ。だってほら、お仕事じゃ仕方ないじゃないですか。だから……気にしないで』
……ああもう。
相変わらず、いじらしい。
そんな彼女だからこそ、余計にツラくなってしまう。
甲斐甲斐しく夕飯でも作りながら、まだ帰ってこないなぁ……なんて時計見たりしてたんじゃないか?
留守中の彼女の行動が手に取るように伝わってきて、非常に申し訳なかった。
「じゃあ、今から帰るから」
『はぁい。気をつけてくださいね』
「ん。わかってる」
声を聞いていたいのはやまやまだが、家に帰ればすぐに彼女がいるわけで。
ここは、とっとと自宅へと向かうのが得策だと思った。
ここからなら、車ですぐだし。
正門に向かってから左に折れ、そのまま自宅へ向かう。
……が。
…………んだよ……やけに混んでるな……。
いつもはもっと早い時間に混むのだが、今日は珍しくこんな時間に混んでいた。
……だったら、1本向こうに行くか。
ウィンカーを出して右の細い路地を抜け、ひとつ横の大通りへと車を出す。
――……と。
「……うわ」
捕まった。
何にって……検問に。
別に何もやましいことがあるわけではないが、やっぱりいい気はしない。
黒と白のパンダカラーと、遠くからでもよくわかる赤色灯。
……今の時間となると……飲酒か。
まぁ、俺は飲んでないからいいんだけど。
この場で折り返すのはいかにも怪しいし、ヘタしたら追いかけられそうな気がしたので、仕方なく順番を待つことにした。
……それで、向こうが混んでいたのか。
ならば、うなずける。
前の車が難なく通ったのを見てから運転席の窓を開けると、いかにも警察官という感じのする制服を着た中年の男性が軽く頭を下げてきた。
「免許証、拝見できますか?」
「どうぞ」
用意していたそれを渡すと、一瞥してから返却される。
「ちょっと、息吐いてもらえますかね」
「……はーっ」
「…………えーと……」
え。
いやいやいやいや、ウソだろ?
俺は飲んでないぞ!?
明らかに顔色の変わった警察官に眉を寄せると、何やら神妙な顔をしてから再びこちらに向き直った。
「すみません、もう1度……」
「……ええ」
いぶかしげに再び息を吐くものの、やっぱりいい顔を見せない。
……ちょっと待て。
俺は飲んでないぞ。
つーか、今までずっと仕事してたんだし。
それを証明してくれる人間ならば、たくさんいる。
そんなことを考えながら焦っている自分を落ち着けるようにため息をつくと、警察官がバインダーを持ちながら再び手のひらを出してきた。
「失礼ですが、もう1度免許証を」
「……どうぞ」
ものすごく嫌だ。
俺は何もしてない……!!
「えーと……」
すると、免許をじぃーっと見つめていた彼がこちらに鋭い視線を向け、再び免許を見つめた。
「失礼ですが……ご職業は?」
「……教員ですけど……」
「教員? 小学校か何かですか?」
「いえ、高校です」
「……高校の先生ですか?」
…………なんだよ。
ものすごく感じ悪いぞ。
俺が高校教師やってちゃ悪いのか。
「高校の先生が、ずいぶんすごい車乗ってますねぇ」
「……は? ……はぁ」
『教師ならば普通のセダンにでも乗れ』と言いたげな警察官の視線に思わず眉を寄せると、軽く頭を下げてから免許証を返してくれた。
「はい、結構です。ちょっと匂いますけど、お酒は大丈夫ですね」
…………は……?
「え。あの、ちょっ……酒は平気って……」
「ええ。大丈夫ですよ」
「ちょっ、まっ……! じゃあ、何が匂うんですか!?」
「いえ、大丈夫ですから。ご協力、ありがとうございましたー」
「え、ちょっ……!?」
普通にスルーされて促され、仕方なくその場をあとにするしかなかった。
んが。
気になる。
匂うって……えぇ!?
俺、そんな匂いの強い物食った覚えないのに!
…………あ。
そういや、昼メシでにんにく食べたような……。
いや、でもそれだけだし……じゃあ、あとはコーヒー……?
それとも、にんにくとコーヒーの匂いが混ざって……?
意味深な警察官の言葉を引きずったままで運転を続けていると、すぐに自宅に着いてしまった。
……気になる。
匂うって……何が……?
思わず口元を押さえながら家に向かい、玄関を開ける。
すると、パタパタという小さな音が近づき、嬉しそうに彼女が出迎えてくれた。
「おかえりなさいっ」
「……ただいま」
「……? どうしたんですか?」
「……いや……なんでもない」
不思議そうな顔なのは、当然だろう。
こんな、口押さえて帰ってくれば、な。
「気分悪いんですか?」
「いや、平気」
「大丈夫……?」
「……うん」
言葉少なく洗面所に向かい、とりあえず歯磨き。
……匂うって……何がだよ。
しかし、自分で何臭いのかわからないとなると、対処のしようがないんだが。
しっっっかりと磨いてから液体歯磨きで仕上げを施し、リビングへ。
……が。
「せっかく帰ってきたのに申し訳ないんですけど……。そろそろ、私……」
「……あ……。そうか」
今日は制服もここにはないし、なおかつ時間も遅い。
……結局、何もしてあげられなかった。
ただひとりで家に残し、留守番を任せたようなもんだ。
「……ごめん」
手を伸ばして抱き寄せ、そのまま力を込める。
安心する温もり。
……今日はずっとこうしていたかったんだが……。
あとからあとから自責の念が込み上げ、申し訳なさでいっぱいになる。
「また、明日きても……いいですか?」
「もちろん! ……ていうか、むしろこっちからお願いしたい」
「うんっ」
頬を撫でながら苦笑を浮かべると、嬉しそうに笑みをくれた。
……あー、相変わらずいい子だな。
ものすごく愛しい。
………………ぅ。
「じゃあ、送ってくよ」
「お願いします」
いつもならば、普通にキスしていた……独特の雰囲気。
なのだが、今日はつい手が出なかった。
あれだけ歯も磨いたし平気だとは思うんだが、それでも……万が一のことがあるし。
ンな口でキスして、妙な素振りでも見えた日には……それこそ、立ち直れない。
彼女を促して、今来た道を戻り……一路、今度は彼女の家へ。
絵里ちゃんとこんな話をしたとか、どんな物を買ったとか楽しそうに話す彼女を見ていると、やっぱり帰したくなくなってくる。
……今日1日がいろいろありすぎたからこそ、余計に。
すぐに着いてしまった家の前でしばらくあれこれ話していたのだが、すでに時計は22時近いわけで。
「じゃ、また明日ね」
「はぁい」
車を降りて運転席側に回ってくれた彼女に窓を開けて手を伸ばすが、どうしても……キスはできなかった。
唇に触れるだけの軽いものならイイかもしれないが、でも、もし……ってなるわけで。
……彼女に嫌われるのが1番怖い。
というか、多分そんなことになったらこの先一生立ち直れない。
……だからこそ、軽いキスすらも阻まれた。
「じゃあ、おやすみ」
「……おやすみなさい……」
一瞬寂しそうな顔が見えたのは、もしかしたら……気のせいじゃなかったかもしれない。
彼女も、恐らく何かしら感じ取っているのだろう。
だけど……。
「……ごめん」
「…………え?」
ぽつりとそんな言葉を漏らすと、鋭く反応を見せた。
「……おやすみ」
「あ……おやすみなさい」
儚い笑顔に、苦しくなる。
……あー……。
小さく笑みを返して車を出すと、ついバックミラーで彼女を見てしまった。
いつも通り、見えなくなるまで見送ってくれる姿。
それは嬉しいのだが……今日は、すごく切なかった。
なんか……嫌な感じだな。
漏れるため息をそのままに、ひとり家へと戻る。
明日は、金曜日。
……そう。
金曜日だ。
明日を乗り切れば、彼女をしばらく独占できる。
……がんばれ、俺。
ヘコみっ放しの自分を励ますように頭を振ると、ほどなくして自宅が見えてきた。
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