「……重かった?」
「一瞬だけ……」
 すまなさそうに眉を寄せた彼と目が合い、苦笑が浮かんだ。
 瞬間的に、そう感じたのはある。
 でも、本当に一瞬。
 だって、そんな気持ちよりもまず最初に浮かんだのは――……正反対の想いなんだから。
「……? どうした?」
 ふにゃんと浮かんだ笑みをこらえきれず、くすくすと声を出して笑う。
 そのまま彼の髪へ……指で触れていた。
 そんな顔しないで。
 心底驚いたみたいに瞳を丸くされ、ちょっとだけ申し訳ない。
「……嬉しい」
「え?」
「こうして……また…………愛してもらえて」
 一瞬視線が落ち、それから彼へ向かう。
 ……うー。
 きっと今、笑顔だけど顔は真っ赤なんだろうな。
 何も言わずに私をまっすぐ見つめている彼を見ているのが、やっぱり照れくさくて、ちょっとだけ恥ずかしくて。
「…………」
 言いかけた言葉を飲み込むように唇を閉じると、そこへ……彼が指先で触れた。
「……ぇ――……?」

 『何も言わないように』

 まるでそう言うかのように、首を横に振った。
 指先を滑らせ、彼が見つめてくれる……先。
 そこにあるのは私の唇……ううん。
 それだけじゃない。
 本当に本当に愛しげに見つめてくれているのは、私すべてだと言ってもいいほどだった。
 ……恥ずかしい……。
 まだ当然、繋がったまま。
 だからこそ、格好だって……。
「……あ……」
 唇に触れていた指が動き、頬へ滑った。
 と同時に顔の距離が狭まり、彼の唇が――……ゆっくりと降りてくる。
「……羽織」
 ぽつりと呼ばれたその名前は、私の物に間違いないのに、なんだか……違うものみたいに聞こえた。
 ……すごく……ぞくぞくする。
 どんな愛の言葉よりも、胸の1番奥深い場所を震わせる。
 …………琴線に触れるって言ったら、しっくりくるのかもしれない。
 そう思うと同時に、嬉しさからか瞳がわずかに潤むのがわかった。
「……祐恭さん……」
 彼の名前を口にするとき、私はもちろんだけど……彼もとっても嬉しそうに瞳を細める。
 私……この時間って、好き。
 穏やかで、温かくて、何よりも幸せを感じられるから。
「…………」
 おずおずと彼の頬へ手のひらを置いてから、顔を近づける。
 ……キス、したいと思ったの。
 今、このときだけは……私から、って。
「……好き」
 唇が少しだけ触れたときに呟いた独り言は、彼に伝わっただろうか。
 柔かな感触に笑みが浮かびそうになり、じんわりと嬉しい気持ちが身体いっぱいに満ち溢れた。

「……何してるの?」
「見りゃわかんだろ」
 翌日。
 いつもと同じ月曜日だけど、やっぱりいつもと同じなんかじゃなかった。
 センター明けというのもあって、いつもよりずっと早く起きてしまった私。
 ……その理由はもちろん、ひとつしかない。
 先日受けたセンター試験の答え合わせを、朝食前にするためだったんだから。
「……どうして?」
「どーしても」
「でも、それ……私のために……」
「いーだろ? 別に。今やろーがあとでやろーが、結果は同じなんだから」
「っ……言いにくいことを……」
 どうして、私よりも先にお兄ちゃんが朝刊を手にしているんだろう。
 しかも、赤いボールペンまで手にして。
 おかしい。
 おかしいよ? その格好は。
 だって、受験生は私なのに。
 その新聞のその記事を誰よりも先に受け取れるのは、センター試験を受けたこの私しかいないはずなのに。
 ……それなのに。
「っだ!?」
「もぅ! どうしてお兄ちゃんが答え合わせなんかしてるの!?」
「あ、馬鹿! ちったぁ待ってりゃいいだろ?」
「それはこっちのセリフなの! これが必要なのは、私なんだよ? これから、採点して出願するんだよ!? ねぇ、わかってるの!?」
「わーってるっつーの」
「ッ……わかってない!!」
 人が真剣にまくしたてているのに、彼はまったくこちらを見ずに手だけを振った。
 その、あまりにも人を馬鹿にしているような態度で、思わずバシンっと両手をテーブルにつく。
 ……だけど。
 一瞬ちらりと視線こそ投げかけたものの、お兄ちゃんはまた赤ペン片手に新聞へ戻ってしまった。
「……もぉ……」
 どうして、私よりも先なの?
 結果を知りたいのは、私のほうなのに。
 ……なのにぃ。
「はい、羽織」
「……あ……」
 力なく椅子に座って身体を背もたれへ預けると、葉月が目の前に白いマグカップを置いてくれた。
 中には彼女お手製のスープが入っていて、温かな湯気が立ち上っている。
「……ありがと」
「いいえ」
 隣に座った葉月に軽く頭を下げてから両手でそれを包み、口づける。
 ……おいしい。
 匂いがおいしかったんだけれど、やっぱり味はそれ以上。
 毎日、日替わりで作ってくれる葉月のスープは、私だけじゃなくてきっとみんなも好きなはず。
「…………」
 もちろん、この……目の前に座りながら、一向に新聞を譲ってくれなさそうな彼もね。
「ねぇ、たーくん」
「あ?」
「新聞、羽織に譲ってあげたら?」
「なんで」
「なんでって……それは、羽織のほうが見たい気持ちが強いから、でしょう?」
 こくこく。
 『ねぇ?』と同意を求めたような葉月に、強くしっかりと首を縦に振る。
 だけど、さっきと同じようにちらりと葉月を見た彼は、フンと鼻で笑ってからまたペンを走らせた。
 ……感じ悪い。
 だって、鼻で笑ったんだよ? 鼻で!
 ひどい。
 っていうかもう、本当にありえない。
「…………」
 そもそも、どうしてお兄ちゃんがこの記事に興味あるの?
 おかしいよ。絶対に。
 だって彼は試験を受けた人なんかじゃなくて、傍観者であるべき人なのに。
 ……おかしい。
 それに、優しさの欠片もないし。
 眉を寄せたまま彼を見つめてスープを飲みながらも、やっぱり釈然としなくて悔しさだけがこみ上げてくる。
「…………ふ」
「……え?」
「ま、こんなモンだな」
「? 何が?」
 ペンを持ったまま頬杖をついていた彼が、いきなり口元だけで笑った。
「……あ」
「ほらよ」
 しかも、それまでまったく手放してくれる気配すらなかった新聞を、さっさとよこしてくれる始末。
 ……え?
 急に、なんで?
「……?」
 ワケがわからずも新聞を両手で持ち、同じように不思議そうな顔をしている葉月と目を合わせる。
 ……だけど。

 『いったい、何が起きたの?』

 やっぱり葉月も、私にそんな顔を見せているだけだった。
 ――……だから。
 だからこのときの私には、自分が知らない場所で何が起きていたのかなんて……まったく知る由もなかった。
 だって、お兄ちゃんは何も言わずにセンターの答え合わせをしていて、何も言わずに新聞を手放して、そして――……。
「……うま」
「ホント? よかった」
 片手にリモコンを持ちながら、葉月のスープをおいしそうに飲み始めたんだもん。
 ……何?
 急にいったい、何が起きたの?
 もらった新聞を手にしながらも、まったく動けないこと数十秒。
「…………あ」
 その沈黙から解き放ってくれたのは、テレビのニュースで。
 ……しかも、先日行われたセンター試験の内容だった。
「…………」
 試験の日の天気。
 そして、受験者数。
 ……と、実際に起きてしまった不都合なこと。
 そんな、まさに私にとって他人事じゃないことが、どんどん情報として流れる。
「…………」
 ぼーっと見つめたままでいたら……改めて、強い気持ちが湧いてきた。
 もちろん。ただひとつ。

 『絶対に、合格したい』ということ。

 受験生なんだから当たり前なのかもしれないけれど、でも、やっぱり強く改めて実感した。
 これまでの、自分のがんばり。
 だけど、それだけじゃない。
 私を励ましてくれた人や、実際に私の力になってくれた人。
 そして――……。

 『七ヶ瀬、おいでよ』

 ……私の背中を、両手でしっかりと押してくれただけじゃなくて、ちゃんと手を引いてくれている人。
 その人がいるから。
 だから私は、がんばりたいと思った。
 “合格”っていうボーダーラインに、ぎりぎりでもいいから入りたいって。
 そして、春からは自分がやりたかった勉強をするんだ。
 無理だって思って、最初から諦めてしまっていたけれど……それでもチャレンジすることを教わった場所で。
 自分が尊敬する、とってもとっても大好きで……大切な人が、導いてくれた場所で。
 ……ですよね? 先生。
「…………」
 ふと、自分が新聞を持ったままで何もしていない事に気付き、慌ててそれを開く。
 ……ぅ。
 そんな、『お前馬鹿だろ』とか言いたげな目で見るの、やめてほしいなぁ。
 スープをすする彼を見ながら、眉が寄った。
「すー……はー……」
 椅子に座って大きく深呼吸をし、新聞を開く。
 ……これで、いろいろなことが全部決まる。
 ずっと確かめたかったことが載ってるんだから。
「…………」
 ……先生も……もしかしたら、今ごろこれを見てるのかな。
 どうしても彼のことが頭に浮かんでしまい、自然と笑みが浮かぶ。
 …………はっ。
 また、誰かさんに嫌味を言われるところだった。
 慌てて頬に手を当てながら顔を作り直し、小さく咳払いをする。
 さぁ、今自分がやらなきゃいけないことを、まずはやらなくちゃ。
「……うんっ」
 気合を入れなおしてから、自己採点を始めることにした。

 ――……だから。
 このときの私はまだ、どうしてお兄ちゃんが試験問題と解答を見ていたのかまったく知らなかった。
 ……そして。
 彼だけじゃなくて、実は先生自身も同じような朝を送っていた……なんてことも。
 でもだって、わかるはずないでしょ?
 まさか、ふたりがこのセンター試験でお互いに競い合いをしていただなんて。
 ……ありえない。
 いったいなんでそんなことをしたのかまったくわからないけれど、でも、やっぱりそれを知ったときに私がため息をついたのは、当然の反応だと思う。


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