「ちょっとーー!!」
 ばしーんという大きな音とともに、絵里ちゃんがドアを蹴破って入ってきた。
 いや、それは別に比喩でもなんでもなく。
 本当に、壊れたんじゃないかと一瞬錯覚するほどの勢いで、“開いた”というよりも”こじ開けられた”が正解。
「うぉい、こらぁ! とんでも教師!!」
「……あのな。ンな格好で入って来るな。床が濡れる」
「ぬぁんですって!?」
「それにお前、それは客員用だろうが」
「うるさーい! 上履きなんてとっくに持って帰ってるんだから、しょうがないでしょ!? っていうか、今は私だって立派なお客様よ!!」
 椅子に座ったままで、純也さんは冷静に彼女を観察していた。
 そう。
 その足元にあるのは、普段まず生徒が履くことのない、茶色のスリッパ。
 金の文字で、“神奈川県立冬瀬女子高等学校”と入っている。
「っていうか!! 薬品モロかぶったのよ!? 皮膚がただれでもしたら、どーすんのよ!!」
「モロじゃねーだろ。ちゃんと溶かした」
「くっ……! だから、そういう問題じゃなーい!!」
 キーキーと食ってかかっている彼女の隣……いや、後ろ。
 3歩ほど下がったそこには、相変わらず困った顔をしている彼女がいた。
「……あ……」
「さっきは、ホントにごめん。……大丈夫?」
 相変わらず、普段とまったく違うやり取りをしている純也さんたちをよそに、近づいてから眉を寄せてまず謝る。
 すると、まばたきを見せてから、小さく笑った。
「……冷たかったですよ?」
「ごめん」
「……ぅ……背中、まだ冷たい……」
 珍しく、猫背になった彼女。
 だが、次の瞬間ぴくっと反応を見せてから、背を思い切り反らした。
「着替え――……はないよな、さすがに」
「……です……」
「だよな……」
 後ろに手を回して制服を引っ張っているということは、まず、背中が間違いなく濡れている証拠。
 ……とはいえ、こんな場所に彼女が着れるような服はないワケで。
「…………」
「…………」
 少しだけ気持ち悪そうにブレザーを脱いだ彼女が、セーターに手をかけた。
 …………ん?
「……それ」
「え?」
「シャツ脱いで、直接コレ着るわけには……いかない?」
 手を差し出してまずそれを止め、顔を覗き込む。
 すると、どうやら俺が言いたかったことがわかったらしく、『あ』と呟いてからセーターをまじまじと見つめた。
「……そうですね」
「うん。それはさすがに、濡れてないだろ?」
 我ながら、いいところに気付いた。
 ……妙案、とでもいうべきか。
 仕草やら何やらで彼女に勧めると、改めてセーターを眺めてから微笑む。
 ……ほ。
 どうやら、そこまで怒ってはないらしい。
 それがせめてもの――……いや、ものすごく救いだ。
「……ん?」
「えっと……それじゃ、着替えてきますね」
「そっちじゃ寒いだろ?」
「……でも……」
 実験室へのドアに手をかけた彼女に給湯場のほうを指差すも、苦笑を浮かべて首を横に振るばかり。
 ……だが。
「……あー……」
 理由が、すぐにわかった。
 視線をすぐ右へ動かせば、そこにはまるで“龍虎”の争いにも似たものが繰り広げられていたから。
「……すぐ戻っておいで」
「はい。……寒いですしね」
「そ」
 確かに、こんな場所にいつまでも好んで留まろうとは思えない……かもな。
 いつ、巻き添えという名の火の粉が飛んでくるかもわからないし。
 …………。
 俺だって、できることならそちらへ一緒に行きたいほどだ。
 ……行き……………。
「…………」
 パタン、とドアが閉まってから、ものの数秒だったか。
 ……もしくは、もう少しあとか。
 今さらになって、なんで一緒に行かなかったのかと後悔する
 ……今さら、だろ。それこそ。
 きっと……恐らく……彼女ならば、なんだかんだ言いながらも『もぅ』なんて笑って許してくれるに違いないのに。
「だいたいねぇ、純也はいつでもそうなのよ!!」
「なんだと!? それはこっちのセリフだ!!」
「はぁ!? 馬鹿言わないでちょうだい!! 私がいつそんなトンだことしたのよ! えぇ!?」
「いつなんて限定的なモンじゃねぇだろうが!! しょっちゅうだろ、しょっちゅう! 普段から! 毎日!!」
「くぁー!! なんですってー!?」
「なんだよ!!」
 ぎゃいぎゃいぎゃいぎゃい。
 飽きることなく、終わることなく、同じ調子で続いている……やり合い。
 このまま見続けていたら、そのうち間違ってこっちが刺されかねない。
 ……無論だが、下手なことは言えないし。
 どっちかに意見でも求められた日には、泣きを見るのは間違いなく自分だ。
「………………」
 そろりそろりと彼らに背を向けないよう注意を払いながら、あとずさりで実験室のドアを目指す。
 ほどなくしてぶちあたった固い物。
 これこそは、間違いなくあのドアだ。
 愛しの彼女がいる――……いや、もしかしたらオイシイことになっているかもしれない、秘密の部屋の。
「……っ……」
 今だ……!!
 一瞬の隙をついてノブを回し、ささっと身を翻す。
 音を立てないように慎重に慎重を重ねながら、そっと……ドアを閉め、そして――……。
「…………はー……」
 カチャリ、と小さな音とともに完全にドアが閉まったのがわかって、もたれたまま重たい息が漏れた。
 やっぱ……人は安寧を求めるのが常だよな。
 彼女というまさにその塊がそばにある俺としては、当然だと思うが。
「……あれ」
 てっきり、まだ途中だったりして、もしかしたら高い声が聞こえるかと思った。
 ……なんだが……。
「え?」
 彼女はすでに紺色のセーターへ着替え終わったらしく、俺よりも少し高い位置からこちらを眺めていた。
「……もう終わったの?」
「? 何がですか?」
「着替え」
 そちらへ身体ごと向き直ると、瞬時に眉を寄せて『何を考えてたんですか』なんて、少しだけ批難の目を向けられた。
 心なしか赤くなっているその頬が、やけにかわいく思える。
「……もぅ」
「ごめん。本音なんだけど」
「っ……先生!」
 教壇に上がっている彼女へ近づき、にっこり微笑む。
 すると、少しだけ唇を尖らせながらやっぱり眉を寄せられた。
「…………」
「っ……な……んですか?」
 同じ場所へ立てば、当然目線が上になるのは俺のほう。
 すぐ隣にいる彼女をどうしたって見下ろす格好になり、そうなると当然――……視線が落ちるのは1箇所。
「……素肌にセーターってのは……そこはかとなく、ヤラシイな」
「っな……!?」
「……えっち」
「ち、違います!!」
 自然とできている、胸元の影。
 あからさまに覗いているつもりはないのだが、ささっと肩を抱くようにして彼女が一歩引いた。
 頬を染め、ぶんぶんと首を振りながら。
「冗談」
「……もぉ……」
「でもないけど」
「っ……先生!」
 こういうやり取りは、やっぱりイイと思う。
 ……まるで……そうだな。
 少しだけ、懐かしい感じもあるから。
 当時――……それこそまだ、付き合う付き合わない以前の時間をともに過ごしていたころの。
「っ……あ……!」
 ふわり、と白衣がなびいた。
 同時に甘い香りが漂い、腕の中に大きな温かさが生まれる。
「せ、んせ……っ……! ダメですよ、こんな……場所で……」
「平気だって」
 慌てたように俺を見上げた彼女。
 だが、もがこうとしたその身体は、当然ながら押さえつけるまでもなく、自由になんてさせてやらない。
「前にも言ったろ? ……ここは見えないって」
 言うと同時に、横にある大きな柱を見つめる。
 ちょうど、アレのお陰でほかから見えない死角。
 ……見つけたときは、素直に『使わない手はないな』と思った。
 無論――……。
「っ……」
 この、かわいい彼女とともにあるために。
「……知ってた?」
「え……?」
 後ろ向きに彼女を抱きしめたまま、黒板にもたれる。
 隣の部屋とは大きく違い、ひんやりと……どころか、冷えた空気しかないこの場所。
 だが、だからこそ大きく感じられる互いの体温が、やけに愛しい。

「ここからいつも、俺が見てたこと」

 まっすぐに顔を向ければ、ちょうど……後ろから2番目の席。
 真ん中の列の最後尾のテーブルに、彼女はいつもいた。
 ときに少しだけ眠たげに。
 ……ときに、ほんの少し得意げな顔で。
 たまに熱っぽい視線で見てくれればどれほどいいか、なんて不謹慎なことを願ったときもあった。
 そんなことされたら、間違いなく困るのは俺なのに。
「……いつだって特別だった」
 きゅ、と両肩に腕を乗せるようにして、改めて彼女を抱きしめる。
 袖口にかかる、彼女の吐息。
 それすらも独り占めしたくなるほど、愛しい。
「……俺のこと、見てた?」
 耳元に唇を寄せ、わざと吐息がかかるように囁く。
 彼女がどんな反応をしてくれるか。
 ……どんな顔をしてるか。
 それはなんとなく想像がついているけれど、でも、だからこそ敢えてしてやりたい。
 …………もっと。
 俺以上に、俺のことを考えてほしくて。
「教科書読むときも、実験するときも。……考察も、説明も……いつだって、見てたんだよ?」
 まるで、内緒話をするときのように、囁く。
 息を含んだ、掠れた声。
 ……だけど、それじゃなきゃ意味がない。
 ぞくぞくして?
 もっと、どきどきして?
 俺はいつだって、そうだったんだから。
 ……だから、今度は君の番。
 俺の気持ちすべてが、届きますように。
 そして……同じように、思ってもらえますように。
 そんな願いからか、顔がほころぶ。
「初めて俺のところに来たときから……もしかしたら、ずっと気になってたのかも」
「え……っ」
 思い出すのは、あの、初々しい笑顔。
 見た者すべてを安心させてしまうかのような、純真でまっさらな。
「……全部……独り占めしたんだ」
「っ……」
「何もかも」
 さらりと指先で髪をすくい、そのまま頬を撫でてやる。
 滑らかで、温かくて、柔らかで。
 何もかも自分とは違う、特別な存在。
 ……いつからだったか。
 こうして直に触れてみたい、なんて欲を持つようになったのは。

 『お願いします』

 教科連絡としての仕事をまっとうすべく、彼女が準備室に来たあのとき。
 たったひとことの、何気ないあいさつ。
 そのまま握手を交わしたのが、最初。
 ……あのときが、最初で最後か。
 なんの意図もなく、彼女に触れたのは。
「……1年か」
 ここで起きたことも、教室で起きたことも……そして、学校内の箇所箇所で起きたこと全部。
 どれもこれもが思い出であり、記憶であり。
 それらは間違いなく、俺と彼女の歴史。
 ……ともに歩み、ともに共有し……ともに想う。
 2月も末の日曜日。
 今日行われた七ヶ瀬の二次試験の結果が出るのは、奇しくも3月3日の雛祭り。
「…………」
 ……どうか。
 彼女に祝福を。
 俺の何を使っても構わないから。
 ……俺に、すべてを与えてくれた彼女に、幸を。
 これからの未来を。
 …………どうか、彼女に。
 自分は二の次。
 そう思えるほど俺を変えてくれた彼女に、すべてを捧ぐ。
「……長かった?」
「え……?」
「それとも、短かった?」
 きゅ、と抱きしめていた腕に力を込めると、いつしかそこに触れてくれていた彼女もまた、手に力を込めた。
 ここまで来るための日は、どれもこれも大切で。
 ひとつたりとて欠けてはならない、絶対条件。
 ……彼女あってこそ。
 ともにすごした時間が、貴重だと思える。
 思い出せば鮮明に、リアルに。
 ふつふつと蘇る、確かな証拠と記録の日々。
 ……一緒にいた、という事実。
 それがたまらなく嬉しくて愛しい。
 あのとき、と頭に浮かべれば、まるで動画を見ているかのようにスムーズに思い出せる。
 音も、色も、そして香りも。
 ひとつひとつ細かな部分までしっかりと覚えている、その中心には言わずもがな彼女自身があって。
 ……いつだって、彼女という人が主だった。
 今までも、そしてこれからも。
 彼女が映らないときはない。
 ……否。
 それは、あってはならないことだ。
「……先生……」
「ん……?」
 瞳を閉じたまま抱きしめていたら、ほんの少しだけ掠れた声が、すぐそばで聞こえた。
 薄っすらと瞳を開き、少しだけ彼女を覗き込むように身体をずらす。
 ――……と。
 次の瞬間、瞳が丸くなった。

「……ありがとう」

「……え……?」
 それは、まるで桜を散らしたかのようにぱっと開いた笑顔だった。

「今までずっと……一緒にいることができて、すごく嬉しくて……」
 その言葉は、先に俺が言うべきだったのに。

「……先生とこうしていられるようになるなんて、あのときは思ってなくて……」
 そうは思いながらも、声にならなくて。

「……だからすごく、嬉しかったんです」
 情けないことだが、釘付けになったまま指1本すら動かなかった。

「毎日が幸せで、どきどきしてて……」
 きれいすぎる笑顔。

「私、すごく幸せ者なんだって自信あるんですよ?」
 どんどんと溢れ、こみあげてくる……たまらない愛しさという名の愛情。

「……だから……」
 これほどの想いを抱かせてくれた彼女は、俺にとって絶対だ。

「だからどうか、これからも……」
 ――……そばにいてください。

 はにかむように微笑んだ彼女の唇を、待ちきれずにたまらず塞いでいた。


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