「っくし……!!」
 教室内に響き渡る、くしゃみの音。
 当然のように、たくさんの生徒の視線が俺へ集まった。
 ――……と同時に。
「……瀬尋先生、大丈夫ですか?」
 2組の担任である、日永先生の視線も。
「……すみません。お話中に」
 こほん、と軽く咳払いをしてから頭を下げ、教壇に立っている彼女に詫びる。
 たかが、くしゃみ。
 されど、くしゃみ。
 今は朝のSHRで、今週の初めから始まっている年度末考査に関する事項を連絡している最中だった。
 だからこそ、全員黙って聞いていたから、余計に響いたというのもある。
 ……が、しかし。
 これほど一斉に注目を浴びたのには、ワケがあった。

「……それはいいんですけれど……。大丈夫ですか? 4度目は風邪の引き始めっていいますよ?」

 仰る通り、今のくしゃみが“4度目”のモノ。
 だからこそ、さすがの日永先生も、話を区切ってまで俺を気遣ってくれたらしい。
「いや……大丈夫だと思います。ええ。……すみません」
「そうですか? 何事も最初が肝心ですからね。早めに大事を取ってくださいね?」
「ありがとうございます」
 にっこり笑った彼女に、こちらも笑って頭を下げる。
 するとそのとき、妙に気になる視線を感じてそちらへ顔が向いた。
 一瞬だけ。
 ほんのわずかな時間。
「…………」
 ……だが。
 皆瀬絵里その人は、明かに『先生、がんばりすぎなんじゃないの?』とでも言いたげな笑顔を浮かべていた。
「……こほん」
 そ知らぬ顔で咳払いをし、再び日永先生に身体ごと向き直る。
 すでに彼女の話は再開されていたので、難なく逃れることができた。
 さすがに、いくら絵里ちゃんだとは言っても日永先生の話を聞かないわけにはいかないらしく、しばらく経ってから横目で見たら、もう見てもいなかった。
 ……しかし。
 いくら、受験とは別の学内だけの試験だとはいえ、これはいわゆる“卒業試験”で。
 赤点まみれでは卒業も危うく――……なんてことにもなりかねない。
 一昨日行われた1日目の試験結果があまり芳しくなかったこともあっての、日永先生のお叱り。
 すでに進路が決まってしまっている生徒が、生半可な気持ちで望んでいることに気付いてのモノだ。
 ……進路、か。
 先日行われた、センター試験での出願。
 その結果もちらほらと届きつつある現在、やはり気になるのは――……絵里ちゃんの後ろに座って、真剣に話を聞いているウチの彼女で。
 ……今度こそ、いい結果が貰えるといいんだがな。
「……っ」
 ふと気付いたらやはり彼女へと視線が向いたままになっていた。
 慌てて引き戻し、日永先生の話へと戻る。
 ――……が、しかし。
「っくし……ッ!!」
「…………」
「…………」
「……瀬尋先生……」
「…………あ」
 途端に静まり返った、教室。
 だが今度は、くすくすと笑い声がどこからか沸き起こった。
 こうなってしまうと――……なかなか、手の施しようがないわけで。
「……もー。1度保健室に行ってくださいね。必ず!」
「…………すみません」
 両手を腰に当てて俺を見た日永先生に、ただただ頭を下げるほかなかった。

「……はー」
 1時限目に割り当てられた、学年末考査3日目の古典。
 そのテストが始まってしばらくしたとき、俺はようやく自分の巣とも呼べる化学準備室の席にいた。
 監督はもちろん、日永先生。
 半ば逃げるようにここへ戻って来たのだが、日が当たっているお陰で、大分席自体が暖かかった。
 暖房が効いているのも当然あるだろうが、なんだかほっとする。
「珍しいね」
「え?」
「祐恭君が、ひなたぼっこなんて」
 椅子の背もたれにめいっぱい身体を預けて目を閉じていたら、くすくす笑いながら純也さんが声をかけてきた。
「……そう……ですね」
「へぇ。何かあった?」
「いや、特には」
 ボールペンのノック部分をカチカチ鳴らせながら、ひと息とばかりに背を伸ばした彼。
 どうやら、昨日行ったテストの採点をすでに始めているらしい。
 ……って、俺もやらなきゃいけないんだけど。
 なんせ、第3学年が学校に来るのも、あと数日。
 それこそ、土日を挟んだ来週いっぱいで2月からは自主登校に入るからだ。
 カレンダーを見るまでもなく、あとはまさに片手にも満たないほど。
 今週は特に、俺を含めて先生方は忙しい。
「…………」
 ……んだが。
「……純也さん」
「んー?」
 窓の外を見たまま彼に声をかけると、視線を落としていたものの、すぐに上げてこちらを向いた。
 相変わらず日のさんさんと降り注いでくるこの席は、一歩間違うと命取り。
 昼メシを終えたあとなんて、本気で“昼寝モード”に突入しかねないからな。
 ……が、しかし。
 今日、今の時間だけは……本当に気持ちいいと思ってる。
 それが、純也さんの言う通り俺にとっては“珍しい”。

「……今日、寒くないですか?」

「……え?」
 両手を重ねたまま、まっすぐ彼を見る。
 すると、何度かまばたきをして見せてから、うーん……と言わんばかりに苦笑を浮かべた。
「……祐恭君」
「はい?」
「俺の格好見て、どう思う?」
 笑いながら、とんとんと胸のあたりを純也さんがペンで叩いた。
 ……その、格好。
 …………。
「……薄着、っすね」
「うん。だって、暑くない? この部屋。っていうか、この席」
 確認もせずに口にしたため、今ごろになってそれを少し後悔する。
 純也さんは、朝着ていた白衣とカーディガンを脱ぎ、ワイシャツ1枚という井出達だった。
 ……しかも。
 袖の部分は、きっちりと肘まで折られている。
「今日、天気イイだろ? 下向いてると、紙に反射して眩しいんだよな……。しかも、暑いし。その上、暖房はガンガンだし……」
「……です、ね」
「うん」
 そう言って宙を仰いだ彼は、ネクタイを緩めた。
 ふとあたりを見てみると――……確かに。
 ほかの先生方も、1枚もしくは2枚ほど脱いでおり、割と薄着。
 ――……なのだが。
「そういう祐恭君はさ……」
「え?」

「いったい、何枚着てるの?」

 少しだけ不思議そうに見た彼に対して、乾いた笑い以外何も――……返す言葉がなかった。


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