「すぐそばにいますから、何かあったら言ってくださいね」
「……ん」
 安心した、ってのもあるだろう。
 ……あとはまぁ、さっきまでの疲れがどっと出たってのも。
 自分じゃ気付かなかったが、改めて体温計で計ってみると先ほどよりも若干高くなっていた。
 ダルい。
 そして、やけに熱い。
 まだ咳が出ないだけいいのだが、それでも感染しないという保証なんてもちろんどこにもないワケで。
 彼女にはなるべく、リビングにいてもらうことにした。
「絶対、ですよ? ……何かあったら、すぐに――」
「わかったよ」
 間仕切りから向こうへ行ったはずの彼女がまたひょっこりと顔を出し、まるで念を押すかのように眉を寄せた。
 そんな姿に一瞬苦笑が浮かびながらも、内心はやっぱり喜んでたりして。
 ……あー……。
 なんかこう、人に介抱してもらうなんてそれこそ何年ぶりだ。
 思い出すのは、自分がもっと小さかったとき。
 それこそ、小学生とかのころにかかったインフルエンザ。
 普段は病気の“び”の字すらない俺にとって、アレは本気で死ぬかと思った。
 苦しいし、痛いし……ホントにたまんなかったよな。
 家で寝てるだけだし、つまんねーし……。
 ……でも、普段仕事で忙しい親父やじーちゃんが心配して昼間に帰って来てくれたのは、嬉しかった。
 子どもながらに『たまにはイイもんだな』なんて思ったのも、覚えてる。
 ……まぁ、看病しててくれたのはお袋なんだけど。
 あのときの、やたら芯が残ってる硬い卵粥は今でも忘れない。
 そういや、風邪引いて熱出すたびに、決まってなんかこー……ワケもなく怖い夢とか見たよな。
 デカいUFOに追われて逃げ惑う夢とか、デカい車に追いかけられる夢とか。
 とにかく、“何かから逃げる夢”ばかり。
 大人になってからは熱らしい熱も出さなかったから記憶にはないが――……それでも、ヤな夢ってのはよく見るようになった。
 ……なんの因果か。
 とりあえず理不尽さだけは覚える。
「………………」
 寝返りを打つと、アイスノンの冷たさが頬に当たった。
 少し離れた場所から聞こえてくる、生活感のある音。
 ……包丁……?
 規則正しいリズムの硬い音となると、そんな感じか。
 一応『まだ何もいらない』とは言ったんだが、彼女のことだ。
 多分、何かしらやってくれてるんだろうな。
 …………ホント、有難いと思う。
 精神的にも肉体的にも、すべてにおいての支え。基盤。
 彼女なしじゃ、本気で生きていけない。
「……弱くなったな」
 一瞬、笑みが漏れた。
 だが、それがただの“弱さ”じゃないことは十分にわかってる。
 裏返すまでもなく、彼女がいてくれるからこその“強さ”であるんだから。

 いったい、どれくらい時間が経っただろうか。
 ふと目を覚ますと、シンと静まり返った部屋の音しか耳に届いてこなかった。
「…………?」
 無意識の内に起き上がろうと身体が動き、眠っていたお陰か少しだけ身体が軽くなったように思える。
 ……羽織ちゃん、は……?
 隣を見てみても、そこに彼女の姿はない。
 棚に置いてあった時計を取ると、22時を少し回ったところ。
 ……まさか、帰った……ってことはないと思うが……。
 彼女のことだ。
 多分、俺に何も告げずにそんな真似をするはずないだろうし……時間も時間だし。
 外に出る、なんてこともないと思うんだが……。
「…………」
 人ってのは、肉体的に参ってるときにはこんなに脆くなるんだな。
 落ち着かなくて、どこか焦ってて。
 彼女の姿が見えず、“いる”という確かな確証が掴めていないせいか、無意識の内に彼女を求めて床に下りていた。
 いるっていうのは、わかってるんだぞ?
 だけど、目に見えないし、音も聞こえないし……そうなると不安で。
 ……子どもみたいだな。
 とうに成人して、いつだって自分ひとりでなんでもできると思っていたからこそ、若干情けない。
 間仕切りを開けると、そこはすぐにリビング。
 寝室からでもわかっていたが、そこはやはり明かりがついたまま。
 だが、キッチンにもリビングにも、彼女の姿はない。
「…………?」
 すると、少し離れた場所から音がしているのに気づいた。
 さっきまではまったく聞こえなかったのに、こうしてここに立っていると十二分にわかる大きな音。
 ……間仕切り1枚隔てただけで、随分と違うモンだな。
 普段は、ひとりで家にいるかもしくは、彼女がいるときは一緒か――……いても、リビング。
 寝室にひとりきりでいたのなんて今回が初めてだったからこそ、改めて気づくこともあった。
「……あ」
「…………ここにいたのか」
 洗面所のドアを開けると、鏡越しに目が合った彼女が改めて俺を振り返った。
 パチンという音で切られた、ドライヤー。
 途端に、ふわりと髪が肩に落ちる。
「ごめんなさい! あのっ……起こしちゃいました?」
「いや、平気。たまたま起きただけだから」
 眉を寄せて申し訳なさそうな顔をした彼女に首を振り、ドアにもたれる。
 ……どうやら、こうしてどこかに寄りかかるのがクセになってしまったらしい。
 ちょっと情けないが、まぁ……今だけは仕方ないと大目に見よう。
 ……自分で。
「……………」
「……少し……下がったかもしれませんね」
「うん。俺もそんな気がする」
 ひたり、と当てられた彼女の手のひら。
 風呂上がりだけあって、先ほどよりも温度差はないように思える。
「っ……! 先生、ダメですよ! そんな薄着で……」
「え?」
「もぅっ! 寒いですから、向こう行きましょ?」
「……あー……うん」
 俺の格好を改めて見た彼女が、慌てたように俺の背を押してリビングへと足を向けた。
 ……なんか……なぁ。
 これじゃあまるで、ホントにワケがわかってない子どもみたいだ。
 …………まぁ、たまにはこうして彼女に仕切られるのも悪くないけど。
 全部お任せってのもあながち悪くないな、なんて改めて思える余裕があるぶん、やっぱり回復してはいるらしい。
「何か食べられそうですか?」
「……んー……いや、まだいいや」
「いいの?」
「うん。ごめん」
 リビングに入るなり、なされるがままの我が身。
 ソファに座らされて、パーカーを着せられて……って、介護されてるみたいだな。
 まぁ、似たようなモンなので言い訳はしない。
「何か飲みます?」
「あー、それくらいなら自分で――」
「ダメですよっ! ……もぅっ……本当は、寝てなきゃいけないんですよ?」
「いや、でもそれは――」
「ダメですっ」
「……はい」
 普段と違って、なんだかものすごく彼女が強いんだが。
 ……いや、別にそれが悪いとか言ってるわけじゃなくて。
 ……………。
 ……ちょっと、笑える。
 今の彼女の顔はまさに『めっ!』と子どもを叱る母親だった。
「……あ」
「少し下がったかな」
「そうですか? よかったぁ」
 キッチンの彼女が俺を見るのと同じタイミングで、体温計を取り出す。
 ほどなくして、テーブルに温かそうな湯気の立つカップを置いてから、ほっとしたように彼女が微笑んだ。
 その顔を見れただけでも、自分をがんばったと褒めてやりたい。
「……羽織ちゃんのお陰だね」
「え? ……でも私、何も……」
「そばにいてくれてるじゃない」
「……でも……」
「俺にとっては、それが1番の支えだよ」
「……先生」
 一瞬表情を曇らせた彼女の頭を撫で、念を押すように目を見る。
 すると、少しだけはにかんだものの、確かに微笑んでくれた。
「ありがと」
「……もぅ……そんな」
「謙遜しすぎだって」
 首を振って恥ずかしそうにした彼女に笑い、カップに手を伸ばす。
 そこには、ミルクティのような液体が入っていた。
 じんわりと手のひらまで伝わってくる、熱い温度。
 ミルク特有の匂いの中に、少しだけ特徴のある香りが鼻につく。
「……これは?」
「えっと……ジンジャーミルクティ、なんですけれど……」
「へぇ」
 おいしくないかも……なんて謙遜した彼女に首を振ってから、まじまじとカップを見つめる。
 聞いて納得。
 なんの匂いかと思っていたのは、どうやら生姜らしい。
 ……って、日本語に直すと随分和モノに思えるな。
 しっくり来るといえば、そうなのだが。
「……あ。うまい」
 飲んですぐ、生姜特有の辛さがわかった。
 だが、すぐあとにそれを包み込むようなほどよい甘さとミルクの味。
「…………へぇ……」
 意外や意外。
 もっと生姜の味が強いのかと思っていたが、あと味は普通のミルクティだった。
「うん。うまいよ」
「ホントですか? ……よかった」
 まじまじとカップを見つめてからうなずくと、嬉しそうにほっとした顔を見せてくれた。
 ……うん。
 普段は甘いモノなんて飲まないんだが……意外とイイな。
 というよりも、彼女が作ってくれたからというのがもちろん大前提なんだが。
「よく飲むの?」
「え? ……あ、えっと……やっぱり、私も風邪を引きそうだなって思ったときとか……あとは、病み上がりのときとかですね」
「……へぇ」
「ほら、生姜が入ってるでしょ? だから、すごく身体が温まるんですよ」
 少しだけ照れたように笑った彼女から再びカップへ視線を落とすと――……なるほど。
 確かに、じんわりと身体の芯から徐々に温まって来ているのがわかる。
「ハチミツも入ってるから、栄養も少し取れますよ」
「うん」
「消化もそんなに悪くないと思うし……」
 ひとくちずつ飲みながら丁寧な説明を聞いていると、あっという間に空になった。
 ……うまかったな。
 冷たくなりかけていた手足も、今ではぽかぽかと少し熱いほど。
 これならば、しっかり汗をかいて早く回復できそうだ。
「ご馳走さま」
「いいえ」
「……うん。ありがと。なんか……元気になりそう」
「よかったです」
 カップをテーブルに置き、彼女に微笑む。
 すると、心底嬉しそうにうなずいてくれたのが見えて、本気で嬉しかった。
 ……あー……。
 やっぱり、彼女がいてくれるってことが、俺の回復に大きく影響を与えているに違いないな。
 たとえ今と同じ体温でも、ひとりきりじゃあ……多分参ってるはず。
 ……有難いな。
 こうして、自分の時間を割いてまでそばにいてくれるっていう彼女の気持ちが。
 ……薬以上の効き目だな。
 弱ってる部分を素早く治癒して、たちまち元に戻してくれるんだから。
「……羽織ちゃん」
「はい?」
「あのさ。……ひとつお願いがあるんだけど……」
 しどろもどろなのは、別に熱がどうこうって理由じゃない。
 ……そうじゃなくて。
 …………。
 ……あー……そんなかわいい顔でまっすぐな瞳を向けないでくれ。
 言おう言おうとしている気持ちが、恥ずかしくて曲がりそうだ。

「その……一緒に、寝てくれないかな?」

 案の定、まっすぐ彼女を見ては口に出せなかった。
 ごほん、と白々しく咳払いをし、そっぽを向く。
 誘うのとは少し違う言葉。
 そして、雰囲気。
 だからこそ――……なんだか、ものすごく恥ずかしい。
 言った瞬間少しだけ瞳を丸くしたのがわかったからこそ、『あぁヘンなこと言ったな』と後悔もする。
 ……だけど、これが本心。
 散々『風邪がうつるから』とかなんとか言っても、やっぱり……そばにいてほしいし、言うまでもなく触れていたい。
 いや、決してやましい考えからじゃなくて、だな……。
「……よかった……」
「え?」

「……私も、お願いしようと思ってたんです」

 だが、そんな言いわけじみた考えはあっさりと吹き飛んだ。
 嬉しそうな笑みとともに、快くうなずいてくれた彼女を見たら。
「……ありがとう……」
 いったい、今日だけでどれほど口にした言葉か。
 言葉だけじゃ足りないっていうのは、わかってる。
 ……だけど今は……甘えさせてもらおう。
 彼女が俺だけに向けてくれる、無償の愛情を敬承すべく。


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