「え? 先に混ぜるの?」
「うん。混ぜて置いておくと、しっとりするから……そうしたら、卵とかと一緒に入れるの」
「ふぅん……。で、味付けはどれくらいやったらいい?」
「んーそうだなぁ。タネ自体には、それほどしなくても平気だと思うよ。ほら、煮込んじゃうんだし」
「あ、そっか」
 今日は、華の金曜日。
 ……ではなく、1日前の木曜日。
 そんな日の放課後に、絵里と羽織は近所のモールへと買い物に来ていた。
「今日は、職員会議があるから遅くなる」
 と、純也が絵里に言ったのは、部活が終わる少し前。
 祐恭が羽織にそのことを言わなかったのは、今日が木曜日だったからだ。
 ……なのだが。
「買い物付き合って」
 という絵里の誘いに嫌な顔を見せることなく、羽織は笑顔で了承していた。
 なぜなら――……今夜は、祐恭の家に行こうと思ったからだ。
 今日は木曜日だし、本来ならば羽織は自宅へと帰るのが通常。
 だが、会議で遅くなるということは、祐恭が自分で食事を摂らない可能性が高まるため、彼には内緒でそんなことを考えていた。
「しっかし、あんたもなかなか大胆になったじゃない」
 そのことを聞いたとき、絵里は嬉しそうな笑みを見せた。
 ……と同時に、少しいたずらっぽくも笑う。
「先生、嬉しすぎて今夜帰してくれないかもよ?」
「えー? まさか。だって、明日はまだ学校あるし……。それに、夕飯食べたら帰るもん」
「だからぁ、それは羽織の考えでしょ? 考えてもみなさいよ。あの祐恭先生が、家に帰ってきたら甲斐甲斐しくごはん作ってくれてる羽織の姿見て……何もしないで帰すとでも思ってるの?」
「っ……絵里。なんか、言い方が……」
「だって、ホントのことでしょ? あ、キノコもだっけ?」
 野菜売り場を通りながら絵里が呟くと、それに羽織もうなずいてみせた。
「種類は、なんでも平気だよ。……でも、いくら先生だって……そこは大丈夫じゃないかなぁ? ほら、『先生』なんだし」
「……甘いわね。ま、がんばりなさい」
「もぉ……」
 にやっといたずらっぽい笑みを向けた絵里にたまらず羽織も苦笑を見せるものの、内心若干そんな気もしていたりする。
 ……大人しく家に帰らせてもらえればいいけど……。
 これまでの祐恭の行動パターンを考えてみても、そうそう簡単に離してくれるとは考えられない。
 だが、明日はまだ1日学校がある。
 それを盾に、今日ばかりは乗り切るつもりでいた。
「田代先生って、嫌いな物ないの?」
「んー、そうね。コレといって苦手な物はないと思うけど……」
「そうなんだ。やっぱり、嫌いな物はないほうがいいよね……。献立も決めやすいし」
「でも、祐恭先生だってトマトが苦手なだけでしょ? それなら、大丈夫じゃない?」
 あれこれとカゴに今夜の夕食の材料を入れながら絵里が呟くと、羽織が小さく『まぁね』と漏らす。
 内心は、トマト嫌いが結構ネックになっていたりするのだが。
 彼にバレないように、あれこれ料理にトマトを刻んで入れてみたりするのだが、それでもなぜかバレてしまう。
 そのたびに、ちくちくと苛められるわけで……しかも、楽しそうに。
 今日の夕食はハンバーグなのでさすがに入れることは考えていないが、ソースに少し使おうかと考えていた。
 ……これもバレるかなぁ。
 トマトを手に取りながらそんなことを考えるものの、普段野菜を気をつけて摂取しようとしない彼にはなるべく食べてほしい。
 そんな思いから、しばらく考えたあとでカゴに入れていた。
「あ、そういえば歯磨き粉がなかった気がする……」
 もうすぐレジというとき、羽織が棚を曲がる。
 迷うことなく手にした歯磨き粉を見ながら、絵里は少し笑ってしまった。
 自分と同じように……いや、自分以上に彼の面倒を見る羽織の姿が、いかにも幸せそうで……そして、その素振りが一緒に住んでいる普通のカップルと同じだったからだ。
 幸せそうな彼女を見るのは、絵里とて嬉しい。
 これまで、いくつもの報われない恋……というよりは、見送った恋を見てきているので、今の羽織の姿は本当に嬉しかった。
 若干、あれこれと祐恭が羽織に対して容赦なくしていそうで、心配ではあるが。
 それでも、愚痴らしい愚痴も言わずに、いつも彼の話となると嬉しそうな笑み。
それがある限りは、余計な心配はいらないと思っていた。
「あ、ねぇ。ちょっと雑貨見てかない?」
「うん。いいよー」
 清算を終えて荷物を袋にまとめてからエスカレーターを上がると、絵里が向かった先は――……。
「……ここ……?」
「うん。かわいいでしょ?」
「まぁ……そうだけど……。でも、あの……」
 絵里が一瞬見せたいたずらっぽい笑みに、思わず羽織が喉を鳴らした。
 目の前にある店は、間違いなく――……下着専門店。
 正確には雑貨屋の一角にあるのだが、どうしたって目に付くのは色とりどりの下着だった。
 かわいらしいフリルがあしらわれた物から、結構キワどい大人っぽい色気溢れるものまで。
 これはこれで、羽織の気持ちを刺激する。
「……絵里ぃ……」
「んー? あ、ほら。これなんか、どお?」
「……ど、どおって……?」
「羽織に似合うと思うのよねー。むしろ、これ着たら……先生喜ぶんじゃない?」
 にやっとした絵里のいたずらっぽい笑みに、思わず眉が寄った。
 黒のつるりとした生地にフリルがあしらわれている、それ。
 いかにも『勝負下着』という感じだ。
「……もぉ。絵里が着ればいいでしょ」
「私が? 純也のためにぃ?」
「うん」
 イヤそうな顔を見せた絵里に真面目な顔でうなずくと、無言で下着を戻してから首を横に振った。
「どうして?」
「……だって、絶対純也バカにするし。目に見えて笑うに決まってるんだから、イヤ」
「そうかなぁ。それこそ、先生喜ぶと思うけど?」
 絵里が戻した下着を見ながら羽織が呟くが、相変わらずいい顔は見せなかった。
「いーやっ。だいたい、そんな下着つけてどんな顔しろっての?」
「え? 普通でいいじゃない? ……喜ぶと思うなぁ」
 いつもと違って少しいたずらっぽい笑みを見せた羽織。
 そんな彼女に思わず面食らってから視線を外すと、わずかに絵里の頬が染まる。
 ……喜ぶ……っていうより、多分照れると思う。
 そんなことを考えていると、買おうかどうか迷っている自分がいるのに気付いた。
「……羽織は?」
「え?」
「羽織が買うなら、私も買う」
「……えぇ!? そ、それとこれとは――」
「一緒なの! ほらっ! あんたも買いなさい!!」
 びしっと指差されて思わず戸惑うが、羽織とて悪い気はしない。
 確かに、自分が普段身に着けている物を考えれば、今目の前にある下着は大人っぽくて……色っぽさがある。
 ……喜ぶかなぁ。
 ふとそんなことを考えながら絵里を見ると、なんだかんだ言いながらも先ほどの下着を買う気満々の表情を浮かべていた。
 そんな彼女のためにも……という口実を作って、自分も1組揃えることに決めた。
 実は、最近ブラがきつくなってきた気がしていたからというのも、理由のひとつ。
 ……あとはまぁ、かわいらしさに惹かれたというのもあるが。
「……あんたらしいわね」
「そう?」
「うん。でも、確かに羽織には似合うかもね。……清純? っていうか」
「せ……清純……?」
 勝負に出るつもりがないこともあってか、やはり無難な色に目が行ってしまう。
 絵里のように黒の下着……はやっぱり手が出しにくいため、レースがあしらわれている白の下着を選んだ。
 とはいえ、結構大人っぽい……と、羽織本人は考えている。
 つるつるした布地で若干光沢があるそれは、デザインは大人しめだが、やはりキワドさがあった。
「それ買ったってことは期待してるってことかな? んん? 羽織ちゃーん」
「ち、ちがっ……! だから、これは――」
「ま、せいぜい先生に襲われないようにね」
「……もぉ……」
 いたずらっぽい彼女の笑みで、頬が染まるのがわかる。
 ……何も起こりませんように。
 ぎゅっと握った下着を見ながら、そんなことを考えたのだった。

「それじゃ、また明日ね。……無事に学校で会えることを祈ってるわ」
「……絵里。さっきからそればっかり……」
「だって、そうでしょ? それじゃあね」
「ん。気をつけてね」
 バスから降りて互いに違う方向へと歩み出すと、絵里はひとり自宅へと足を向けた。
 ……しっかし、羽織ってば。
 幸せそうな顔するようになったわね。
 半ばムリヤリ下着を買わせたような気がして少し悪かったかなぁと思ったけど、あれなら平気みたい。
 ……むしろ、先生には感謝してほしいくらいだわ。
 なんてったって、あんなに羽織にぴったりの下着買わせたんだから。
 …………明日、つつくか。
 そんなことを考えながらマンションのオートロックを解除し、部屋へと上がる。
 ――……もう、どれくらいになるだろうか。
 こうして、純也と一緒に住み始めて。
 私が高校2年のときからだから、実質はまだ1年ちょっとなのよね。
 だけど、ずっと前からここに住んでるような気がする。
 すっかり生活観の溢れた部屋を見るたびに、少しおかしかった。
 初めてここに来たときはどうしようかと内心思っていたけど、一緒に暮らすかって言ってくれたときは……すごく嬉しかったし。
 ……牛乳黙って飲まれるけど。
 あ。そういえば今朝も飲んでたわね。
 人がせっかくおいしい牛乳確保するためにどれだけがんばってるのか、知ってるのかしら。
 しかも、毎度毎度直接飲んで。
 ダメだって何度言ってもやるんだから、子どもよりタチが悪い。
 玄関の鍵を開けて中に入り、まず明かりをつける。
 相変わらず、殺風景な玄関。
 雑貨のひとつでも置こうかと話したら、即却下された場所。
 ……ったく。
 まぁ、祐恭先生のところも相変わらず殺風景だから、どっちも似たようなモンなのよね。
 リビングに向かって、最初に取った手紙の束を放ると、その中に珍しく自分宛の物があった。
 縁に青と赤のストライプがあしらわれた、それ。
「……珍しい」
 思わず、瞳が丸くなった。
 引き出しからペーパーナイフを取り出して封を開け、白い便箋を取り出す。
 相変わらず、丁寧な字で書かれている、自分宛の文章。
 ……独りでに頬が緩んでしまう。
「ったく。純也によろしくはいらないのよっ。私がよろしくしてやってるんだから」
 とは言いながらも、相変わらず私と彼のことを気遣う内容は、嬉しくもある。
 向こうは向こうで仲良くやっているらしく、元気そうな両親の写真が同封されていた。
 髪伸びたなぁとか、随分日に焼けてるなぁとか思いながら、手紙を広げたままテーブルに残して置く。
 純也も読むんだし、いいとしよう。
 それに、このほうが読みやすいだろうし。
 制服のリボンを取って着替えてから、再びキッチンに向かう。
 ……いよいよ。
 羽織にレシピは教えてもらったけど、実際作るのって久しぶりなのよね。
 今日の夕食は、煮込みハンバーグ。
 以前ハンバーグを作ったときに、中が焼けてなくてものすごく文句を言われた。
 ……人が作った物にケチつけやがって……。
 と、内心思うものの、料理は純也のほうがうまいし、何よりも手早い。
 だから文句は言えないんだけど。
 でも、結構ショック受けてるのよ? 私だって。
 完璧人間なワケじゃないんだから。
 だけど、悔しい物は悔しい。
 今日こそは、絶対に『おいしい』って言わせてやるんだから。
 そんなことを考えながら、まずは玉ねぎをみじん切りすることにした。

 一方変わって、こちらは祐恭の家。
 いつも通りに郵便物を手にリビングへ向かって、テーブルにまとめて置く。
 平日の夕方、こんなふうに彼の家にいることがないせいか、ちょっと嬉しかった。
 ……先生、どんな顔するんだろうなぁ。
 思わずにやけてしまう顔を抑えながら寝室に向かい、まず服を着替える。
 彼と一緒のときは制服で作ることも多いけれど、せっかくクリーニングに出して返って来たばかりの服。
 また汚すわけには行かない。
 ……しかも、今回出したのは……その……あのときが原因なワケで。
 まさか学校であんなことをするハメになるとは思わなかっただけに、あとからあとから後悔の念が押し寄せてきた。
 学校では、もう二度としないんだから。
 思い出すだけで赤くなる頬を押さえながらキッチンに向かう――……途中で、ある袋に目が行った。
「……しまっとかなくちゃ」
 思い出して本当によかった。
 だって、これ……見つかったら、絶対タダじゃ済ましてくれないもん。
 先ほど買ったばかりの、ペアの下着。
 ……けど、どこにしまおう……。
 チェスト……まさか、開けたりしないよね。
 うん。ここにしよう。
 別に誰かに見られているわけじゃないのに周りを見てしまうのは、何だかアヤシイことをしているような気がして笑えた。
 ……よし。
 今日の夕食は、『煮込みハンバーグ』。
 ソースにトマトを入れるため、なんとかバレないように工夫しなくちゃ。
 ……なんか、好き嫌いがある子どもにごはん作るみたいだなぁ。
 って、こんなこと言ったら怒られるだろうけど。
 苦笑を浮かべながらキッチンに向かい、玉ねぎをみじん切り開始。
 ……でも、絵里がレシピ聞いてきたのはちょっとびっくりした。
 普段は田代先生がごはん作ってるって言ってたし。
 けど、なんだかんだ言って、絵里だって先生のために何かしてあげたいんだよね。
 いつもは強気だったり、田代先生のことをあれこれ言っている割には、やっぱり彼に対する想いが伝わってくるわけで。
 今ごろどんな顔してごはん作ってるんだろ。
 そんなことが思い浮かび、つい笑みが漏れた。
 時計を見ると、18時を少しすぎたところ。
 ……いつごろ帰ってくるんだろう。
 玉ねぎの皮をむきながらも、やはり想いは彼へと向かってしまった。


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