しっとりと夕闇に包まれたホテルの窓の外は、きらきらと光る夜景が広がっていた。
これだけ高いと、見えるものが光だけなので気分もいい。
「さて。それじゃ、飯でも行こうか」
「あ、はーい」
立ち上がって彼女に声をかけると、うなずいてから同じく立ち上がった。
財布にディナーチケットを挟んで外に出てすぐ、エレベーターで早速レストランのあるフロアまで下りる。
どこもかしこも、結構な賑わいだった。
かつ、意外にも種類が豊富で悩む。
「んー……どこがいい?」
「え? そうですね……あ、イタリアンはどうですか?」
「じゃあ、そこにしようか」
「わぁい」
彼女にうなずいてからレストランを目指すと、感じのいいギャルソンが出迎えてくれた。
照明がこれまでのロビーより1段階落とされており、ラウンジかはたまたバーのような雰囲気だ。
「いらっしゃいませ。おふたりさまですか?」
「はい」
「では、こちらへどうぞ」
案内された席へ腰をおろしてから、早速メニューを開く。
……あー。
さすが、一流ホテルのレストランだな。
「たくさんあって、迷っちゃいますね……」
「いいよ、ゆっくり選んで」
眉を寄せて呟いた彼女に笑うと、苦笑まじりにうなずいた。
だが、彼女が言うのもわかる。
かなりの種類があり、パラパラとページをめくりながらも目移りしてしまいそうだ。
思わず笑ってから、メニューに再び視線を落とす。
――……お互い、注文が決まったのはそれから少し経ったときだった。
「でも、やっぱり緊張しますね」
「まぁ、そりゃあね。なんせ、代表でやるんだから」
「っ……うぅ。そう言わないでください」
注文した料理が運ばれてくるまでの間、自然と話題は明日のことにスライドしていった。
彼女の父親役が誰かは聞いてないが、そいつと腕を組むんだよな……。
そう考えると、あんまりいい気はしない。
だが、そんなことを考えている俺の気持ちなど微塵も感じ取ってくれていない彼女は、教わった歩き方を楽しそうに教えてくれた。
「間違えないようにね?」
「わかってますよっ」
わざといたずらっぽく笑うと、眉を寄せて睨まれた。
まぁ、そんな顔もかわいいからいいんだけど。
ほどなくして運ばれてきた、うまそうな料理。
ちょっとした前菜とメインディッシュの大皿からは、それぞれいい香りが漂っていて、空腹を刺激するには十分だ。
「じゃあ、いただこうか」
「はい」
ともにうなずき、フォークとナイフを手にする。
早速料理に口をつけると、さすがに高級ホテルだけあって味は申し分なかった。
一緒に食事をしている相手が彼女だからというのもあるのだろうが、いつもよりもずっとうまい。
さすがだな。
などと考えながら半分ほど食べ終えたとき、ふいに後ろが騒がしくなった。
……喧嘩、か?
思わず眉を寄せてフォークを置くと、彼女と視線が合う。
彼女からすれば、正面になる俺の後ろのテーブル。
どうやら、カップルが喧嘩をしているらしい。
そんなに派手じゃないだろうし、すぐに収まるだろうと考えていたのだが――……そううまくはいかなかった。
「っ……せんせ……!」
「え?」
彼女が小さく声をあげて目を見張った瞬間、『悲惨』としか呼べないような出来事が我が身に起きた。
ばしゃ
突如、背中に感じた冷たい感触。
……水……?
眉をひそめると、彼女が慌てて立ち上がる。
「大丈夫ですかっ!?」
「……なんだ、これ」
慌てて席を立った彼女がおしぼりで拭いてくれているものの、じっとりと背中に張り付いたシャツの感触は思った以上に不快だった。
ワインか?
独特の、鼻に付く匂いは間違いない。
恐らく赤ワイン。
ウェイターが気付いてタオルを持ってきてくれたが、それよりも何よりも……この状況はどうしてくれる。
「…………」
怒りをどういう形で処理したらいいのか悩みながら振り返ると、弾かれたように頭を下げている男がいた。
「す、すみません! 本当に申し訳ありません!!」
舌打ちが出なかったあたり、俺も大人になったということか。
ふつふつと湧いてくる怒りを抑えながら彼を見――……って。
「……山内さん?」
「え? あ……瀬尋さん!? うわぁ、す、すみません!!」
そう。
申し訳なさそうに何度も頭を上げた人物は、先ほどまで俺たちを案内してくれていた山内さん本人に間違いなかった。
驚いたように目を丸くすると、慌てて腕を取られる。
「え?」
「本当にすみません! クリーニングにお出ししますので、申し訳ありませんが一緒に来ていただけますか?」
「あ、でも、まだ飯が――」
「のちほど、お部屋に改めてお持ちします! とにかく、早く!!」
彼の勢いに圧倒されながらレストランを出ると、従業員用の通路らしきところを通って少し広い部屋に出た。
バックヤードらしきその部屋にあった、大きめのカウンター。
中にはずらりといろいろな職種の制服のようなものがかかっており、前に立っていた男性も、ポーターとおぼしき制服を受け取って戻っていくところだった。
「こちら、すぐにクリーニングへお出ししますので、申し訳ありませんが……それまでこちらを着ていていただけますか?」
「それは構いませんけれど……」
「本当に申し訳ありません」
カウンター内にいたスタッフから受け取った真っ白いワイシャツにその場で着替え、代わりに赤ワインでピンク色に染め上がっているシャツを持って、彼が奥へと駆けて行った。
「山内さん……だったんですね」
「羽織ちゃん見てたんじゃないの?」
「あ、でも私が見えたのは女の人だったから……」
「……女性?」
「うん。女の人が立ち上がって、ワイングラスを振ったかと思ったら――」
「……あー、なるほど。山内さんが避けたから俺に当たったのか」
なんたる災難だ。
手近にあった簡易的なベンチへ腰をすえながらため息をつくと、走って戻ってきた山内さんが何度も頭を下げた。
「大変申し訳ありませんでした! 本当に、なんとお詫びすればよいか……」
「いえ、いいですよ。……でも、一緒だった女性、置いてきちゃってよかったんですか?」
「……あ……ええ。ちょっと……嫌われてしまったみたいでして」
「え?」
自嘲気味に笑った彼を見て、思わず彼女と顔を見合わせると、苦笑を浮かべてから山内さんも椅子に座った。
「実は、婚約者と夕食を取っていたのですが……私が不甲斐ないばかりに、嫌な思いをさせてしまって。それで、あんなことになってしまったんです」
彼らは、今年で付き合って6年目になるカップルらしく、それで結婚を思い立ったのだとか。
しかし、ここにきて目に付くようになった彼の煮え切らない態度に怒り、たびたび喧嘩するようになってしまったらしい。
「……やっぱり、私には彼女のパートナーには相応しくないんですかね」
「そんなっ!」
「山内さんがそんなに弱気では、さらに彼女が離れてしまうんじゃないですか?」
「……ええ。そうですよね。わかって、るんですけれど……」
眉を寄せて彼を見ると、力なく笑ってうなずいてしまった。
さて、どうしたものか。
思わず腕を組んでため息をつくと、隣で大人しくしていた彼女が口を開いた。
「でも、彼女さんは山内さんのこと嫌いになったりしてないと思います」
「え……?」
「だって、今までずっとお付き合いしてきたんでしょう? だったら、山内さんのことを全部わかって結婚を承諾したんじゃないんですか? それに……何も、無理なことを言いたかったんじゃないと思うんです。きっと、山内さんに少し強引でもいいから、『幸せにする』っていう言葉が欲しかったんじゃないでしょうか」
彼女は、ときに鋭いことを言う。
以前――……そう。
あの遠足の夜も彼女に、はっとさせられた。
いつも穏やかで大人しい彼女からは想像できない、的を射た言葉。
……こういうところに、惚れたのかもしれないな。俺も。
「それは…………なるほど」
「っ……すみません、生意気なこと言って」
「いえ、とんでもない。……そう、ですよね。同じ女性にそう言われたら、なるほど、と反省するばかりです」
どうやら、驚いたのは彼も同じだったらしく、瞳を丸くしてから真面目な顔でうなずいた。
「……洋平」
「え? ……あ」
女性の声で振り返ると、そこには申し訳なさそうな顔で頭を下げた女性が立っていた。
「あの、先ほどは大変失礼いたしました。私のせいで……本当に申し訳ありません」
「あ、いえ。大丈夫です」
苦笑を浮かべて首を振ると、彼女が山内さんに向き直ってから小さくうつむいた。
「……ごめん。ちょっと、言い過ぎた」
「いや、俺のほうこそ……ごめんな」
「……え?」
「行くよ」
少しほっとしたような顔をしている羽織ちゃんを促し、出口に向かう。
ここから先は、俺たちがいても邪魔になるだけだ。
「あ、瀬尋さんっ!」
「え?」
扉から出たところで声をかけられ、顔だけで彼を見ると、慌てたように頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいえ。あとで、服だけお願いします」
「あ、はいっ」
小さく笑って彼に頭を下げ、彼女を伴ってエレベーターホールに向かう。
その道中、彼女の顔を見てみるも――……やはり、いつもの彼女なわけで。
ついつい、笑みが漏れた。
「しかし、羽織ちゃんはすごいな」
「え?」
エレベーターに乗り込んで笑うと、不思議そうな顔で彼女が俺を見上げた。
こうして見ていると、先ほどの言葉を口にした同一人物には、やはり思えない。
「俺も言われたけど……なんか、恋愛の達人みたいなアドバイスが出てくるじゃない?」
「……もぅ、そんな大したこと言ってませんよ。私はただ、そうなんじゃないかなぁって思っただけですもん」
ふるふると首を振って否定し、苦笑を浮かべる彼女。
こういう控えめなところも、好きだけどな。
そんな彼女の髪を撫でながら部屋に入ると、ほどなくして備え付けの電話が鳴った。
「もしもし?」
『あ、山内です。……先ほどは、大変失礼いたしました』
「ああ、いえ。……で、仲直りはできたんですか?」
『はい、お陰さまで。瀬那さんにもよろしくお伝えください』
「ええ、伝えておきます」
ほっとしたような声に安心しながらうなずくと、ルームサービスを奢ってくれるという話になった。
そういえば、さっき半分しか食ってなかったのを今ごろ思い出す。
「いいんですか?」
『ええ、もちろんです。何がいいですか?』
「えーと、じゃあサンドイッチか何かを……あ。あと、これは自分で負担しますんで、ちょっとお願いがあるんですが――……」
不思議そうな声の彼に続けて頼むと、小さく笑ってからふたつ返事で引き受けてくれた。
すぐに持ってきてくれると告げられたあとで電話を切り、テレビに見入っている彼女の隣へ座る。
……どんな顔するんだろうな。
ドラマを見ながらくるくると表情を変えている彼女の横顔を見ながら、思わず苦笑が漏れた。
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