「……え?」
それは、もうすぐ2月に入るという日のお昼休みだった。
もう、今週の半ばからは自主登校が始まって、言うまでもなく――……ついに、受験の正念場。
週末には国公立大学二次試験の出願が締め切られ、そして……私立大学を受けた人たちを中心に、どんどんと結果が出始めてくる。
「それって……どういうこと?」
とっくにごはんも食べ終えて、のんびりと話をしていたんだけれど……急に、絵里が申し訳なさそうな顔を見せた。
まるで、思い出したかのように。
……もしくは、ようやく決意でもしたかのように。
これまでずっと他愛ない話をしていた相手には、とても思えない。
「だって絵里……もう推薦で合格もらってるじゃない」
――……そう。
絵里は、11月に行われた推薦入試で確かに合格の返事をもらっていた。
……それなのに。
ここに来て彼女は、今月末に行われる七ヶ瀬大学の二次試験を受けると言うのだ。
「でも……でも、絵里……! 今回、センター……受けてないんじゃ……」
そう。
それは、間違いないこと。
七ヶ瀬も一次選抜としてセンターを起用しているので、それを受けなければ二次試験の出願はできないことになっている。
……なのに、どうして……?
「……あのね、羽織」
それしか言えない私に、『羽織には申し訳ないんだけれど……』と続けた彼女は、ようやく俯いたままの視線をあげた。
「実はね。去年の終わり……それこそ冬休みに入る直前、だったかな。大学の人がね、ウチに来たの」
「……え……?」
両手を組んで机に置いたままの絵里は、そう言って理由を話し始めた。
――……去年の、12月。
その中旬、絵里と田代先生が住んでいるマンションに、スーツを着たふたり組みが訪ねて来たらしい。
格好からして一瞬『セールスか』と身構えた瞬間、ひとりが名刺を差し出しながら『七ヶ瀬大学の教学課』から来たことを告げたのが始まり。
そのあとは、田代先生ともども話を聞いて……そして彼らは、絵里にこう告げたと言う。
「教育学部から……理学部への、転部……?」
驚いたように呟いた私に、絵里はうなずきながら『そうなの』と小さく応えた。
「ほら、私が出願を直前まで迷ってたのは、羽織も知ってるでしょ?」
「それは……うん……」
「面接でね、実はそのことを聞かれたのよ。『どうして教育学部なの?』って」
どうやら、大学側でも絵里が化学で賞をもらったことは把握していたらしく、そこを指摘されたらしい。
……でも、わからないことじゃない。
だって、私から見たって、絵里はやっぱり理系の人で。
化学であれだけの好成績を残したにもかかわらず、学問でいえば『これから』というときに断念するなんて……確かにもったいないし。
「……それで……」
まるで、懺悔。
絵里らしくない口調と雰囲気で、なんだかこっちまで妙な感じ。
伏目がちな表情が、やけに目に付いてしまう。
「……それで、私……もし、二次試験で理学部の合格ラインに達したら……そのときは転部するって……」
「……え?」
「だってほら、教育学部で合格もらってるでしょ? だから、試験も何もしないのにそのまま理学部にっていうのだけは、やっぱり自分でも納得できなくて……」
「……うん……」
「それに! ほかにもたくさん理学部を目指してる人はいるんだし……」
少しだけ慌てたように私を見た絵里は、堰を切ったように理由を話し出した。
それに対して、情けないけれど私はただただ黙って聞くしかできない。
きっとそれは喜ばしい話なのに、どうしてここまで彼女が思いつめたような顔をしているかが、正直理解できていなかったからだと思う。
だって、そうでしょ?
大学の偉い人が直々にお願いに来るなんて、そんなのすごくて自慢できるような話以外の何物でもないんだから。
「っ……ごめん、羽織……!!」
「えっ?」
「私が最初から理学部に出願してたら、今ごろは……っ」
「……絵里……?」
「だって、そうでしょ? そうすれば羽織は……! ……羽織は、あんな思いしなくて済んだのに!」
まるで、今にも泣き出しそうな顔で。
絵里は私に頭を下げてから、眉を寄せた。
彼女らしくない、言葉遣い。
……っていうか……なんていうのかな。
ハッキリしないっていうか、まるで何かを躊躇っているみたいに小さな声っていうか。
とにかく、すべてにおいて『らしくない』っていう言葉が最初に浮かぶ。
それほどまでに、いつもの絵里とは違っていた。
……ううん。
もしかしたら、今日の朝からずっとそうだったのかもしれない。
今になってわかることだけど、そういえば彼女は、朝からどこか私に対してぎこちなかった。
……きっと、ずっと『いつ話そう』って……気を揉んでたんだろうな。
そう思うと、何も知らなかったとは言え彼女にストレスを与えていたんだということが、申し訳なかった。
「違うよ」
「……え……?」
「違うよ、絵里。……それは違う」
緩く首を振りながら、俯いてしまった絵里にそっと触れる。
すると、少しびっくりしたみたいな顔で、私を見た。
「私が受からなかったのは、私のせいなんだから。……絵里のせいじゃないんだよ?」
「羽織……」
「確かに、絵里が理学部を最初から志望してたとしたら、その席には誰かほかの子がいたと思うよ? でも、それは私じゃなくてその子だもん。……だから、そんな顔しないで」
当然だけど、私は確かに笑っていた。
むしろ、そんなふうに謝られてしまうと、かえって申し訳ない気持ち。
……絵里は、優しいから。
きっと、大学の人からその話を聞いて、ずっとずっと今日までひとりでつらかったんだろうな。
推薦入試で私が不合格をもらったことですら、随分と気にしてくれていたから。
……だもん、今回のことはそのときの何倍なんてものじゃないはず。
「きっと絵里なら、田代先生や祐恭先生みたいな化学の先生とか……ううんっ。すごい研究をする人になると思う!」
「……え……?」
「だって、すごいじゃない! 直接大学の人が来るなんて! なんか、シンデレラみたい」
ほら、ガラスの靴の片方を持って会いにくるみたいな。
そんなことを続けながら『ねっ?』と笑いかけると、次第にその表情が明るくなってきたのがわかった。
……それを見て、すごく自分が安心しているのに気付く。
だって、もしも逆の立場だったら。
ありえないことだけど、でも、そう考えただけで――……やっぱりつらいもん。
きっと、私も絵里と同じように『自分のせいで』なんて考えるに違いない。
「二次試験まであと少しだし。これでまた『一緒にがんばろう』だね」
ほんの少し、それが嬉しかった。
一緒に、同じ目標をそれぞれの道から目指す。
……あのときと一緒だ。
推薦入試に向けて、日永先生のもと放課後まで一緒に小論文を励んだあのころと。
「……ったく……あんたって子は……」
「え? ……っわ!?」
「あーもう! かわいいんだから、こんちくしょー!」
「え、ちょっ……絵里! いた、痛いってばっ!?」
何も言わずに見られているのが少しだけ気恥ずかしくて、あれこれと『らしくない』仕草のまま絵里を見ていたとき。
わずかに眉を寄せて私を見たかと思いきや、小さなため息のあとでいきなり、がばしっと強く抱き寄せられた。
机を挟んでいるので、正直少しだけ苦しい格好。
でも絵里は、いつもと同じ大きな声で……そしていつもと同じ調子ではっきり告げた。
「えぇいっ、このこのー!!」
「わぁ!?」
ぐりぐりとつむじを刺激され、思わず声が出る。
……こ……この変貌はどうなの……?
ほんの少し思ったけれど、でも、やっぱり絵里は絵里だから。
こんなふうに明るい高い声を出している彼女こそが、素の彼女だから。
…………沈んだ声でしどろもどろに告白するなんて、絵里らしくないもん。
苦笑を浮かべながらも、やっぱり喜んでいる自分が確かにいる。
「よし! 今日からまた一緒に対策練るわよ!!」
「え? あ、うん」
「えぇい、声が小さいー! 『えいえいおー!』でしょ!?」
「えぇ!? ……え……えいえいおぉ……」
「ちいさーい!!」
「っ……え、絵里ぃ……」
ガタンっと大きな音を立てて椅子から立ち上がった絵里が、両手に腰を当てて私ににっこりと笑った。
……うぅ。
一気に視線が集まるのがわかったけれど、絵里は当然やめたりしない。
あの……ええと。
確かに、こういう絵里は大好きだけど、でも……やっぱり……その、か、変わり身が早いというかなんというか……。
いやあの、もちろん好きなんだけれどね?
でも……でもなぁ。
思わず赤くなった頬に、手のひらが向かう。
「……もぅ」
『よーし、やるわよ!』などと言いながらガッツポーズを作る彼女に、苦笑が浮かぶ。
でもそれは、確かな安堵と喜びから来るものに違いなかったけれど。
「――……というわけで、こちらの書類の提出をお願いいたします」
「わかりました」
「……?」
玄関の鍵を開けて中に入った途端『あ、なんかいつもと違うな』って思った。
漂ってる雰囲気とか……匂いとか。
私の家に間違いないのに、なんだか違う感じがあって。
靴を脱ごうと目線を下げたとき、理由が否応なくわかった。
お客さん。
しかも、きっと気軽にあいさつできるような人じゃなくて、多分――……ちょっと私の周りにはいないような。
例えるならば、お父さんの仕事の関係の人とか……はたまた、セールスの人……とか?
きれいに磨かれている黒の革靴からしても、恐らくびしっとスーツを着込んでいるような人であろうことは、簡単に想像がついて。
とにかくもう“珍しい”という感想しか浮かんでこなかった。
「…………」
声が聞こえてくるのは、1階のリビング。
ドアもきちんと閉まっているので、わざわざ顔を出す必要もない……かな?
知ってる人とか、それこそ親戚の人とかだったら話は違うけれど、どうやら違うみたいだし。
でも、これでわかったことがある。
家の前に見慣れない車が停まってたその理由が、すんなりと。
「…………」
気にならないといえば、嘘になる。
でも、私のお客さんであるはずはないし……。
そう思って、そのまま階段に向かうことにした。
もうすぐ自由登校になるけれど、でも、だからといって勉強しないでいい理由にはならない。
……だって、私自身の入試はこれからが本番だと言ってもいいくらいなんだから。
「ありがとうございました」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ」
「っ……!」
階段を半ばまで上り切ったときになって、急に大きな声が聞こえた。
こっそりと身を屈めて玄関を覗くと、そこにはやっぱり、想像した通りのおじさんがいた。
しっかりしたスーツを着込んで、少しだけ恰幅のいい人と眼鏡をかけた人が、揃って頭を下げる。
「…………」
そんな彼らに対しているのは、意外にもお兄ちゃんで。
……てっきり、お父さんのお客さんだとばかり思っていただけに、ちょっとびっくりした。
「それじゃ、瀬那君。また明日」
「ありがとうございます」
「いやいや」
眼鏡をかけていたおじさんがお兄ちゃんに頭を下げると、慌てたように彼も同じく頭を下げた。
……なんだか不思議な光景。
お兄ちゃんが誰かに頭を下げるところを見れるなんて。
もしかしたら、あの人はものすごく……すごい人なのかもしれない。
「……はー……」
玄関のドアが閉まったのを見てため息をついた彼が、鍵を閉めて向き直る。
お兄ちゃんがこんな顔するってことは、間違いなく彼よりも立場的に上の人なんだろう。
「お客さん?」
「あー……俺じゃなくて、葉月にな」
「葉月?」
といっても、今ここに葉月はいない。
年末からずっと一緒に過ごしていたんだけれど、日曜日になって唐突に恭ちゃん……葉月の父である彼が、連れて行ったとのこと。
理由はわからないけれど……お兄ちゃんがため息ばっかりついてるから、もしかしなくても何か関係あるらしい。
ただ、葉月へメッセージを送るとそれはちゃんと既読になるし、返事もあるから元気は元気みたいなんだけどね。
「葉月、どうかしたの?」
「いや。いい知らせだ。奨学生に選ばれたんだとよ」
「奨学生?」
「ま、早い話が成績優秀者への給付金ってとこだな」
「っ……すごい!」
肩をすくめたお兄ちゃんが、さらりとすごいことを言った。
給付って……え、すごいよね。
もらえるってことでしょ?
しかも……成績優秀につき、って。
「……葉月って、すごいんだね」
「ま、お前もがんばれよ」
「ぅ。わかってるもん」
ひらひら手を振ったのを見ながら、心の中でもう一度『わかってる』と反芻していた。
わかってる、の。
だって……だって、決まってないのは、私だけ。
「…………」
絵里も、葉月も4月から七ヶ瀬大学へ通うことができる。
進路は確定していて、あとはその日を待つばかり。
……だけど、私は違う。
まだ、決まってない。
4月になった私は、どこで何をしているんだろう。
「っ……」
「羽織?」
「え……あ」
バッグを持ったまま立ち尽くしていたのが、よほど妙だったらしく、リビングへ一旦姿を消したお兄ちゃんが眉を寄せて私を見ていた。
……えっと。
「なんでもない。あの……勉強、しないと」
出た言葉は本音。
でも、ほんの少しだけ自分らしくない気の焦りが伴う。
『私もがんばらなきゃ』って思ったのは本当だし、次は私の番だって思ったのもそうなのに……なんだろう。ちょっとだけ苦しい。
……大丈夫。次は、私。
ふたりのあとを、追うんだから。
続くんだから。
「…………」
電気もつけずに階段を上がり、部屋を目指す。
振り返らなかったから、気づかなかった。
お兄ちゃんが、私を見てどこか訝しげに眉を寄せていたなんてことは。
|