「おはようございます」
「お。早いね」
 翌日。
 いつもより少しだけ早く目が覚めたお陰で、そのまま準備室へと早めに滑り込む。
 どうやら純也さんも今来たところらしく、まだコートを着込んだままだった。
「……祐恭君、寂しいんじゃないの?」
「え?」
「今日からの1ヶ月は」
 『週末が待ち遠しいだろ』と笑われて、思わず何も言えなかった。
 ただひとこと『ええ』という返事以外には。

「おはようございます」

「……え……」
「あ?」
 そのときだ。
 ばたーんという大きな音とともに開かれたドア。
 音からして『蹴破られたんじゃないか』と一瞬錯覚したほど。
 ほんわかした雰囲気が一瞬の内に冷め、冷たいブリザードが吹き荒ぶような雰囲気へと一変した。
 ……なぜ……?
 そんなの、俺にわかるワケがない。
 ……ただひとつ。
「……え……絵里、ちゃん……?」
「おまっ……! え!? 何してんの?」
 つかつかと俺たちの前にやってきた彼女が、間違いなく……純也さんの彼女である、カノジョだということを除いて。

「…………」
 実験室へとバトル会場を移したあと、いきなり彼女に胸倉を掴まれた。
 ……どうして俺が。
 そんな思いは、当然のようにある。
 だが彼女は、まるで俺の言動一切を許してくれないかのような雰囲気をまとっていた。
「絵里、お前…………何してんだよ、朝っぱらから」
「純也は黙ってて」
 さっきから、ずっとこうだ。
 準備室から無理矢理と言ってもいい位の勢いで連れて来られ、慌てて純也さんに助けを求めていた。
 てっきり、彼女の用事は彼なんだと思ったんだよ。
 ……だが、違った。
 なぜか、何もしてない俺で。
 だからこそ、本当にワケがわからない。
 ご丁寧に昨日までとまったく同じ制服を着込んでいる彼女が、なぜかやたらとデカく見えた。
「祐恭先生にひとつどうしても聞きたいことがあるんだけど」
「え?」
 なぜか今は、彼女のみが教壇に上がっている状況。
 俺と純也さんは、まるで立たされている生徒のように、彼女の目の前に突っ立ってるワケで。
「…………」
「…………」
「……祐恭君……何かしたの?」
「いや……まったくわかんないんすけど……」
 腕組みをしたまま彼と顔を見合わせるものの、当然理由なんて浮かばない。
「……言うなら今のうちよ」
「だから、何を?」
「それは、胸に手を当てて考えて」
 びし、ばし。
 突き刺さるような視線とともに、つんざく鋭い声。言葉。
 ……昨日俺が一緒だった、この子のツレとは正反対だな。
 なんだか、ふにふにとした心地よい彼女の感触がきれいさっぱり消え失せそうだ。
 …………。
 ……しかし、本当にいったいなんのことなんだか。
 純也さんが知らず、俺も知らず。
 だけど、ものすごく絵里ちゃんが怒ってるっていうのだけはわかる。
 ……そりゃ、分かりはするが……。
「………………」
 いったい、なんだ。
 寄った眉のまま彼女を見ると、1度視線を外してから、ギッと思い切り睨みつけて来た。
 その、視線の意味。
 言わんとしていた言葉。
 それを俺は――……当然ながら、まったく予測できてなかった。

「…………」
「…………」
 あれから、約30分以上が経過した準備室。
 すでに1時限目が始まっているので、隣の実験室では2学年の授業が行われている。
 カチカチという時計の針の音しかないこの部屋には、齋藤先生の低い声がときおり漏れてきていた。
「……思い当たる節は?」
 椅子に目一杯もたれたままでいたら、純也さんが静かに口を開いた。
「………ない、とは言えないっていうのが……正直な所」
「まぁそうだよな」
 俺だってそうだ。
 ため息混じりにそう呟いた彼を見ながら、また瞳が閉じた。
 重たい雰囲気と、重たい気持ち。
 それのみが支配するこの部屋は、決して居心地がいいとは言えない。

「……羽織ちゃんが……?」
「ええ」
 ――……つい、先ほど。
 絵里ちゃんが俺と純也さんの目の前で告げた言葉に、自分でも稀にみる気持ちの昂りを感じたのは。
「……ちょっと待てよ。だからって、そうだとは言い切れないだろ?」
「それはそうだけど! でも、羽織は昨日だって何も言ってなかったのよ? ……だもん……考えられるのは、それしかないじゃない」
 先ほどまでの勢いを少し落とした彼女は、同時に視線も落とした。
 純也さんの言葉が聞こえているのだが、ちゃんと……頭に入っては来ない。
 ……どういうことだ……?
 そんな、自分ひとりでは決して答えの出ない自問ばかりが、ずっと続いている。
「あの子、ずっと具合悪がってた。……気持ち悪いって。昨日もその前の日も、お弁当ロクに食べてないんだから!」
 悲痛な叫びに、自分も同意せざるを得ない。
 俺だって、目の前で彼女の体調がおかしいことは気付いていたし、実際に彼女に告げられてもいた。
 ……でも、だからこそ。
 だからこそ俺は、もっとちゃんと気遣ってやらなきゃいけなかったんだろう。
 無理矢理にでも彼女に休養を取らせるべく、連れ出すくらいの勢いをもってして。
「……それは……確かに」
「っ……! そう思ってたなら……っ……なんで先生がもっと早く気付いてやれなかったのよ!!」
「……すまないと思ってる」
「すまない、で済むワケないじゃない!!」
 小さくうなずいてから彼女を見ると、唇をきゅっと結んでから、思い切り怒鳴りつけられた。
 確かに、そうだ。
 ……そんな言葉で済むはずがない。
 なんせ俺は昨日まで……いや。
 昨日も確かに、この手で彼女に触れたんだから。
「オイ、絵里!」
「うるさいっ!!」
 あまりの勢いに、純也さんが慌てて彼女を止めに入った。
 だが、当然収まるはずなんか到底なくて。
「っ……」
 彼女は結局、彼を振り払って俺のすぐ目の前に来た。
「あの子がどれほど覚悟して行ったと思う? ……っ……どんな気持ちで行ったか……!」
「……それは……」
「ひとりで行くのがどれほど嫌か……っ……男にはわかんないのよ!!」
 半ば泣き叫ぶかのようにぶつけられ、またしても言葉に詰まる。
 まだ高校生で、未成年で。
 ……ひとりきりで。
 その光景がぱっと頭に浮かんで、いかんともしがたい。
 正直言えば、『どうして言ってくれなかった』という思いもある。
 だが、どうしてあの子が俺にそれを言える?
 きっと彼女ならば間違いなく……ひとりでどうにかしようなどと考えるはず。
 頼られていないとか、信頼されてないとか。
 そういう意味じゃなくて、彼女ならば『俺に迷惑だから』などという結論に達するだろうということ。
「……明日、彼女が家に来る」
「それで? それで、どうするのよ!!」
「俺は元々きちんと話していたし、それに……」
 純也さんに抑えられながらも、ものすごい力で振り解こうとする彼女。
 恐らく、1対1だったら数発殴られでもしただろう。
 それを止めてくれているのが、彼。
 その表情にはどこか、同じ男としてというそんな色がある。
「彼女とちゃんと話して、責任はまっとうするから」
「……っ……」
 まっすぐに彼女を見て告げると、言いかかっていた言葉を飲み込んでから、眉を寄せた。
 その顔。
 そこから、どれほど彼女を大切に思っているかがわかるからこそ、やはり……正直つらい。
 わかってる。
 たとえ『責任を取る』などと言ったところで、それが、現状を打破できる言葉なんかじゃないのは。
 ……このことで、彼女を待っている多くの広い世界や可能性を、もぎ取ってしまうことになるのも。
 俺の、この手で。
 ……俺のせいで。
 俺の責任どうこうの前に、彼女は……思い描いていたモノを棒に振るんだから。
「……もういいだろ」
「けどっ……!」
「お前がどうこう立ち入るような話じゃない」
 気持ちはわかるから、落ち着け。
 きゅっと握った拳を見てか、純也さんが静かに彼女をたしなめた。
 ……俺と彼女の問題。
 確かにそれはそうだ。
 だが……目の前で、必死になって真剣に俺に向かって来た彼女の思いも、当然わかる。
「……泣かせないから」
「え……?」
「どういう結果になっても、彼女だけは絶対に」
 気付いたら、まっすぐ彼女を見たままで、誓いにも似た言葉を口にしていた。

「……最初に、どう言うべきですかね」
「え?」
 ――……改めて、椅子に座ってから窓に向き直る。
 そこからは相変わらず冬の穏やかな光が差し込んで来ていて、心地よかった。
 ……いや。
 暖房の少し利き過ぎているこの室内では、熱く感じられるか。

「謝罪と感謝、どっちが先だと思います?」

 別に、答えを求めたワケじゃない。
 そうじゃないが……やはり、同じ男でもあり、そして同じ未成年の彼女を持つ純也さん。
「…………そうだな」
 音のない静かな空間に響いた、彼の声。
「羽織ちゃんの顔を見れば、自ずと出てくると思うよ」
 そのすぐあとで彼が見せたのは、案の定柔らかな微笑と言葉だった。


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