「おはようございます」
いつもと同じように、準備室へ入る。
すると、珍しくまだ田代先生が来ていなかった。
「おはよ」
明るい日の差込んでくる、窓辺。
こちらへ背を向けて立っていた先生が、ゆっくりと振り返る。
にこやかな、笑み。
それだけで、なんだか少し恥ずかしかった。
「……あ……」
笑みに見惚れていたら、不意に彼の手のひらが頬に触れた。
あったかい……。
ほんわりと、気持ちまで優しくなる。
「実は、羽織ちゃんにお願いがあるんだけど……」
「お願い、ですか?」
撫でるように動いた手が、さらりと髪に触れた。
その動きが、少しくすぐったくて……でも、嬉しくて。
私にも笑顔しか浮かばなかった。
「もう1度、3年生やらない?」
「…………え……?」
にっこりと告げられた、言葉。
それはまさに、我が耳を疑うようなものだった。
「え……。っ……え!?」
言われたことの重大さが、今になってひしひしと伝わって来る。
もう1度、3年生を。
それは……それは、ええと……。
「………………」
やっぱり……そういうことなんだろうか。
ぽかんと口を開けたまま彼を見つめるものの、やはりその表情を崩すことはなかった。
「どうかな?」
「や……あの……」
「どうしても俺、羽織ちゃんに留年してほしいんだけど」
「えぇっ……!?」
難色を示した途端、彼が眉を寄せてそれはそれは悲しそうな顔をした。
……うぁ。
な、なんでこんなことに……!
話の流れがまったくわからず、筋も読めない。
どうして彼がこんなことを言い出したのか。
どうして彼がそんなことを願うのか。
まったくもって、意味がわからなかった。
「……ダメかな……」
「っ………あ……あの、ですね。……えと……あの、そういうことじゃなくて……」
「あ、言い方が悪かった?」
「やっ……そういうことでも……」
しゅん、と肩を落とした彼を見て、慌てて手と首を振る。
だけど、やっぱり私の気持ちは伝わっていないというか、なんというか……。
そもそも、どうして彼がそんなことを望むのかが、さっぱりわからない。
「……あの……先生」
「ん?」
「どうして……私を留年させたいんですか?」
要は、そこ。
私がダブることで、何か彼にとって有益なことでもあるんだろうか。
まず考えられない理由だけに、こちらも眉が寄る。
……うぅ。
いったい、どんな顔してこんなことを聞けばいいんだろう。
「え……?」
だけど、次の瞬間。
彼は、ものすごく嬉しそうな顔でにっこりと笑った。
……その、顔。
それは、間違いなく私が今まで見たこともないような、すてきで純粋な微笑だった。
「女子高生が好きなんだ」
ぴちょーん、と1滴の水のしたたりすら、大きく聞こえるような静けさがあたりに満ちた。
「え……あ……の。……今……なんて……?」
「いや、だから。俺、女子高生が好きなんだよ」
にこにこと、まったく悪びれる様子もなく、冗談を言っているようでもなく。
彼は、私の両肩に手を置きながら、また顔を覗き込んだ。
「ダメかな……?」
「……あの……。……だ、だめとか……そういう問題じゃ……」
「じゃ、どういう問題?」
「や……それは……その……」
たらり、とひとすじの汗が背を伝う。
……嫌な予感がした。
聞いてはいけない。
聞きたくない。
……だけど……また、勝手に口が開く。
まっすぐに、笑顔の彼を見つめたままで。
「……もしかして……先生が私と付き合ってくれてたのは……それで……?」
違う。
断じて違う。
そんなはずはない。
だって、ついこの間だって彼は間違いなく私の目の前で――……。
「もちろん」
「っ……」
「この制服、イイよね。……やっぱ俺、女子高生の羽織ちゃんが1番好きなんだよなぁ」
まじまじと制服を見つめてから、微笑んだ彼。
その笑顔を見た瞬間、ピシッと音を立てて何かが崩れたのがわかった。
「……ん? 羽織ちゃん?」
「…………」
「あれ……? ……え? 羽織ちゃん? どうした?」
ゆさゆさと肩をつかまれたままで、前後に振られる。
だけどもう、気力も体力も何もかもが抜け、身体は本当に空っぽの状態だった。
……こんなにうっとりした顔で笑った先生……見たことない、かも……。
ふっと意識が遠のく瞬間、確かにそんなことを思った気がした。
ピピピピピピピピ……。
「……っは……!!」
けたたましく頭に入り込んでくる、高い電子音。
そのせいではないと思うけれど、ばっとすごい勢いで目が開いた。
「はぁ……はぁ……」
なぜか、どくどくと鼓動が早鐘のよう。
息をつくのもなんだか苦しくて、大きく肩で息をしていた。
「……ゆ……夢……?」
ゆっくり上半身を起こしてから、ベッドの棚にあるスマフォを取る。
アラームを止め、時計を……見た、とき。
確かに今までのことが、夢だったんだと確証した。
「……はあ……」
ようやく静けさを取り戻した、室内。
だけど、まだ息が少しだけ苦しい。
……なんて夢見たんだろう…。
我ながら、自分で自分を疑う。
「…………」
先生がそんなこと言うはずないのに。
ていうか、まず、先生とそんな話すらしたことないのに。
「……はぁ……」
何もこんな日にあんな夢を見なくてもいいのに。
ため息をついてからベッドを降りると、情けなくてやっぱりテンションが下降線を辿ったままだった。
――……だけど。
「…………」
ふと、ハンガーにかかっているモノを見て、気持ちが徐々に落ち着いていく。
懐かしい……って思えるときが、来るのかな。
なんとなくいつもと違う思いが身体に溢れて、笑みが浮かんだ。
「……………」
壁にかかっている、それ。
ゆっくりと近づいてから手で触れると、いつもと何ひとつ変わらない感触があった。
……ずっと……憧れ、だったんだよね。
中学3年のとき。
高校受験で冬女に初めて入ったとき、強く強く思った。
いつか私も、ここの制服を着てここに通うんだ、って。
「…………」
長かったのか、短かったのか。
正直、今となっては『早かった』としか思えない。
だけど……。
「……おしまい、かぁ……」
3年間ずっと慣れ親しんだ、冬女の制服。
秋色のブレザーが、なんとなく違う色に見えた。
今日で、本当の本当に最後。
明日からはもう……着る機会も、ない。
「……行ってこよう」
誰にともなく、そんな言葉を呟く。
いつもより、早い時間。
まるで、この日を楽しみにしていたみたい。
どっちかっていうと、本当は――……やっぱり、寂しさから『もう1度』なんて思わなくもないんだけど。
パジャマを脱いで、ブラウスに腕を通す。
赤いリボンを結んで、ブレザーを着て……。
……今日は、のんびり……ゆっくり行きたいな。
最後の登校。
最後の――……学校。
私が冬女の生徒でいられる、本当の本当に最後の日だから。
「……珍しいな」
「え?」
「お前がこんな時間に起きるなんて」
着替え終えてから、下りた階段。
ちょうどリビングに入ろうとしたとき、洗面所からお兄ちゃんが歩いて来た。
「ま、さすがに卒業式まで遅刻したら馬鹿だけど」
「……む」
やっぱり、彼は憎らしいような笑みを浮かべて、からからと笑う。
どうせ、万年寝坊してましたよ。
……それは本当のことだから、否定はできない。
だけど――……。
「……たーくん。こんな日にまで、そんなこと言わなくてもいいでしょう?」
「こんな日だから言うんだろ? 明日からはもう“高校生”じゃねぇんだから」
「それは……そうだけど」
言おうと思っていた言葉を、リビングからひょっこり顔を出した葉月が代弁してくれた。
……でも、ちょっと困った顔。
眉を寄せてこちらを見られ、思わず何も言えなかった。
「……と……とにかく。ええと、朝ごはん食べようかな」
「あ。うん。冷めない内に食べてね」
「いただきますっ」
しどろもどろにあれこれと言葉を探していたんだけど、まずは、何よりもそれ。
この場を切り抜けるための口実にもぴったりだし、あえてそれを選ぶ。
すると、くすくす笑ってうなずきながら、葉月がキッチンへ向かった。
「…………」
「……なんだよ」
「別に……お兄ちゃんは来てくれなくてもいいけど……」
「……は?」
立ったままの彼をまじまじ見つめていると、眉を寄せて思い切り嫌そうな顔をされた。
今日は、卒業式。
本当はお父さんとお母さんが来てくれるはずだったんだけど、まぁ……当然のようになかなかそうもいかなくて。
小中学校のときは、卒業式の日がずれてたからお父さんが来てくれることもあった。
……でも、今日は高校の卒業式。
同じ県立高校である冬瀬の卒業式が行われるからこそ、お父さんはやっぱり今日は来れない。
――……で。
なぜか、急遽お兄ちゃんが来てくれることになった。
でも、今年は葉月もいる。
だから別に……正直言って、お兄ちゃんが来てくれなくても……なんて、ちょっぴり思った。
「別に、お前のために行くんじゃねぇよ」
「え?」
「しょうがねーだろ? 葉月が『日本の高校に行ってみたい』とか言い出すんだから」
「……それじゃ……」
「迷子になりでもしたら、困るじゃん」
ただでさえ、アイツは独りでふらふら行っちまうヤツなのに。
普段締めないような柄のネクタイを結んだ彼が、少しだけ渋い顔をした。
……わ……私のためじゃない……のね。
わかっていたけれど、なんだか改めて口にされると、少しだけショック。
そ、それはまぁ……まぁ、ね?
別に私はそこまで執着があるわけじゃないし、どうしてもと言うほどでもない。
今日は、たまたま大学の図書館が年度末書庫整理で休みだっていうから、こういうことになっただけであって。
……だから……。
「…………そっか」
ぽつりと、小さく言葉が漏れた。
――……途端。
「っ……あ」
「保護者が3人も来る家なんて、なかなかねぇぞ」
彼が、急に私の頭をぐりぐりっと撫でた。
……うん。
正確には、『撫でる』なんて優しいものじゃなかったけれど。
「とっととメシ食えよな。先に出るんだろ?」
「それは……うん」
振り返らずにダイニングへ向かった彼の背中にうなずきながら、まばたきをする。
…………。
まぁ……いっか。
それ以上何か言える雰囲気でもなければ、気分でもなくて。
だけど――……。
「……ヘンなの」
思わず、少しだけ笑っていた。
「それじゃ、行ってきます」
「ん。またあとでね」
「うんっ」
バッグだけを持ち、玄関の戸に手をかける。
見送ってくれたのは、まだ、いつもと同じような格好のままの葉月。
お母さんは、朝から近所の美容院へと出かけていた。
「……ずいぶん早く行くんだな」
「あ」
ちょうどそのとき、葉月の隣にお父さんが並んだ。
読みかけの新聞を持ったままで……まるで、わざわざ見送りに来てくれたみたい。
「いよいよ卒業か」
「……うん」
あの日。
今から3年前の、合格発表があった夜。
あのとき、お父さんはすごくすごく喜んでくれた。
お兄ちゃんが冬瀬に入ることになったときもそうだったけれど、それと同じか……それ以上に。
やっぱり、お母さんのことがあったからかな、なんて思ってたんだけれど……。
でも、もしかしたら違うのかもしれない。
何か――……予感めいたものが、あったのかな。
「おめでとう」
「……っ……」
それはそれは、優しい顔で。
お父さんが、右手を差し出してきた。
「いよいよだな」
「……え……?」
「お前ももう、一人前か」
少しだけ冗談っぽく笑った顔を見たまま、その手を握る。
……いつ振り……だろう。
すごく懐かしいような気がするけれど、でも、こんなふうに握手するなんて久しくしなかった。
小さいころ。
もしかしたら、最後にこうしてお父さんと手を繋いだのは、小学生くらいのときまでかもしれない。
「行っておいで」
ゆっくりと離れた手を見てから、彼を見上げる。
自然に出た、笑み。
それは……いろいろな感謝の証。
「……ありがとう、お父さん」
久しぶりに、こんなふうに話した気もする。
改めて言葉にされるなんて、思いもしなかった。
「それじゃ、行ってきます」
にっこりと微笑んでから、ドアを開く。
軽く手を振ってくれる葉月と……そしてお父さんと。
彼らの少し後ろのほうで、お兄ちゃんの姿が見えた気もした。
「行ってらっしゃい」
こんなふうに送り出されるのも――……久しぶり、かな。
なんだか、いろんな意味で嬉くも懐かしさが芽生えた。
|