「羽織ー」
「……あ。はる――……あはは、そうだった」
教室でのお別れを終えた今、保護者と一緒に下校を始めた子たちもいる中庭へ向かうと、そこには、退場のときにちらりと見かけたいでたちのまま、葉月が手を振っていた。
「もうさ、ホントにすごいよね。きっと、私たちなんかよりもずっと目立ってたと思うよ!」
「そんなことはないと思うけれど……でも、それだとしたら、邪魔しちゃったかな」
「まさか! 葉月、すっごく似合ってるし、かわいいもん!」
しゅんとした顔を見せた葉月に慌てて手を振り、改めて彼女を眺める。
淡い橙色に、桜があしらわれている着物。
そう。葉月が着ているのは、まぎれもなく着物だった。
「退場のとき、すっごいびっくりしたんだから。おかげで、涙止まっちゃった」
「う。それは……ごめんね」
「ああ、違うの! そういう意味じゃないから! でも、葉月も来てくれるなんて、ホント嬉しいんだよ。ありがとね」
慌てて手を振ると、少しだけ葉月の表情が戻ったように見えたから、ちょっと安心。
ホントは今日、お母さんだけの参列のはずだった。
でも、葉月が来てくれることになったからきっとお兄ちゃんも来てくれることになったんだろうと思ってる。
……葉月には逆を言われたけどね。
お兄ちゃんはもともと、お父さんの代わりに参列するつもりだったんじゃないかと言われたけれど、素直にうなずけなくて思わず苦笑してしまった。
「あ! ねえねえ、せっかくだから写真撮ろうよ! お兄ちゃん、撮って」
「なんで俺が」
当然とばかりにスマフォを渡すと、そうは言いながらもしっかり手を伸ばすあたりお兄ちゃんらしいなぁと思う。
普段、なんだかんだ言っても葉月には優しいらしいけれど、正直見たことないからわかんないんだよね。
とはいえ、目の前でこの仏頂面が祐恭先生のようににこやかな笑みに変わる瞬間を見たとしても、なかなか葉月の言葉は信じられないかもしれないけれど。
「もっと寄れ」
「う。まぶしい……ねぇ、違う方向にしようよ。すっごいまぶしい」
「おもしれー顔してんぞ」
「ひどい!」
そりゃ、お兄ちゃんはいいよ? 太陽背にしてるから。
でも、私も葉月もばっちり太陽に向かう形なわけで。
葉月を見ると、さすがに苦笑を浮かべていた。
「ほらよ」
「わっ。もぅ」
半ば放るようにスマフォを渡され、危うく落とすところだった。
相変わらず適当だなぁ、もぅ。
本当に葉月と付き合ってるの? だとしたら、我が家で一番マメな葉月の何も学んでないことがよくわかる。
「あ、そうだ。これ、渡すんだよね?」
「……あ」
何かを思い出すかのようにお兄ちゃんを振り返った葉月の声で、彼が紙袋をこちらへ突き出す。
そうだった。
私がここに来たのは、実はこれを受け取るため。
普段と違う姿の葉月と写真を撮ったことで満足して、手ぶらで校内へ戻るところだった。
「ありがと」
「お前、マメだな」
「うーん、そうかなぁ。でも、ずっと考えてたことだから」
珍しくお兄ちゃんに笑われ、こっちこそ意外な気持ちになる。
それこそ、もう何年もの間、かもしれない。
学生生活には必ず、終わりがある。
無事に合格できたあのときから、もしかしたら私はひとりずっと、しめくくりでもある今日のことを考えていたのかもしれない。
「羽織はこのあと、みんなで集まるんでしょう? 荷物になるものがあれば、持って帰るよ」
「ホント? じゃあ……これだけ持って行ってもらおうかなぁ」
実はこのあと、クラスでお別れ会をすることにしている。
カラオケのパーティールームで、ちょっぴりお高いランチを食べながら、みんなで遊ぶんだ。
そのとき、証書を手にもう一度写真を撮る約束はしてるから、記念品と銘打たれたいくつかの封筒と、配付された最後のおたよりにシューズが入ったバッグを、そのままお願いすることにした。
「それじゃ、またあとでね」
「うんっ。ありがとね。葉月も……お兄ちゃんも」
葉月が受け取ったバッグを当然のように手を伸ばしたお兄ちゃんを見て、ああこういうところから葉月は『優しい』って言うのかなともわかった。 普段、目にすることがないけれど、さりげなくも当たり前のような動作。
きっと、葉月とふたりのときはいつも、これが当たり前なんだろう。
……祐恭先生もそう。
買い物に出たとき、そんなに重くないから平気って伝えてもなお、彼は笑って荷物を手にしてくれる。
「ふたりとも、ありがとう! 気をつけて帰ってね」
「ふふ。羽織もね」
「うんっ!」
手を振ってふたりを見送り、姿が見えなくなってから――……ひとり、職員室へと向かう。
お世話になった先生方へ、個別でハンカチを渡しながらお礼を告げるために。
本当は、やっぱり……卒業式っていえばお花とかっていうのが定番かなって思ったけど……。
でも、実は結構あとで困っちゃうんだよね。
全部飾りきれるだけの花瓶はないし、かといって無碍にもできないし……。
ずっとお父さんが先生をしてたから、卒業式や離任式のたびに、我が家はまるで花屋さんに負けないくらいの花で溢れかえった。
……だから、ずっと決めてたんだ。
私が卒業するときは、花じゃない何か別の物を渡そう、って。
「…………」
小さくうなずいて笑みを浮かべてから、昇降口へと向かう。
『ありがとう』の気持ちとともに、これまでのお礼をそれぞれの先生へ伝えるために。
「……また、戻ってきちゃった」
ぽつりと漏れた独り言で窓辺へ近づくと、自然に苦笑が漏れた。
すでに、誰ひとりとして残っていない教室。
『3年2組』のプレートが掲げられている……ここ。
さっきまで“私の席”だった場所を見つめてから窓にもたれると、やっぱり、なんとも言えない気持ちがこみあげてきた。
「…………」
私、ここから見る景色は……結構好きだったんだよね。
渡り廊下と、2号館の屋上。
……そして、下を向けば、中庭と通路が目に入る。
大切な場所。
ずっと通った、思い出が詰まっている席。
…………だけど。
今日で、もう終わり。
あのドアをくぐったら、もう……2組の生徒じゃなくなるんだ。
「…………」
門をくぐって、道に出て。
『卒業証書授与式』と書かれた看板に背を向ければ、もう……。
「………………」
そう考えると、やっぱり……まだまだここにいたくなる。
……切ないし、寂しい。
それに、本当は少しだけ――……不安で。
だって、私はまだ……手離しで卒業を喜べないから。
…………まだ……決まって、ないから。
「…………」
どうしたって、頭に浮かぶのは七ヶ瀬の二次試験。
いよいよ明後日には結果が出るけれど……でも。
…………もしも、があったら……?
もし、卒業したあともまだ……受験を終わりにできなかったら……?
「……っ……」
そんな思いと不安がこみあげて、考えないようにしようとしても、ついつい思考がそちらへかたむく。
……怖い。
みんなが4月からそれぞれの道を歩き出すのに、自分だけがまだ……取り残されてしまうんじゃないか、って。
私だけまた、もう1度試験を受けなきゃいけないんじゃないか、って。
押しつぶされそうになる不安ばかりが大きくなって、そのせいで……もしかしたらまだ、この場所から離れられないのかもしれない。
……ここから出たが最後、頼れる場所がなくなる。
そんな不安に、さいなまれて。
「……ここにいたの?」
「っ……!」
そんなときだ。
静かな声が誰もいない教室に響いて、弾かれるようにそちらを振り返ったのは。
「……っ……せんせ……」
「探してたんだよ? ……ずっと」
白衣姿じゃない、あの、ダブルスーツのままの彼。
足音を立てないように近づいて来てから、にっこりと笑みを浮かべる。
「……え……?」
「行こうか」
手のひらを差し出され、思わずまばたきをしていた。
…………だけど。
「……ね?」
先生は、ただただ優しく微笑むだけで。
――……だから。
「はい……」
私も、うなずいていた。
小さくながらも、ちゃんと笑みを浮かべて。
手のひらを握り、きゅ……と力を込める。
教室でこんなふうに彼とふたりきりになるのも、本当に久しぶり。
……それに、この手。
こんなふうに学校の中で手を繋ぐのも――……もしかしたら、初めてかもしれない。
「っ……あ……!」
彼に手を引かれたままで、歩く道。
だけど、室内からこんなふうに廊下を通るとは思わなくて。
「せ……せんせっ……」
確かに、今はまだ誰もいない。
とはいえ、両面ガラス張りの渡り廊下を歩くのは……やっぱり、ちょっと勇気がいる。
「別にいいよ」
「……え……?」
「もう、構わない」
でも先生は、まったく動じずに……それどころか、さらに手のひらへ力を込めた。
まっすぐに前を向いたまま、2号館の廊下へ。
そんな彼を見つめたままでいたら、生物室の前に差しかかったとき、笑いながら私を振り返った。
……その顔。
それはまるで、何かいけないいたずらを企んでいるような、子どもそのものの表情で。
「今日で、ここを一緒に歩けるのも最後だろ?」
「……それは……」
「最後なんだから。……大目に見てくれなきゃ」
くすくすおかしそうに笑った彼を見たままで、ようやく、自分も笑ってるのに気付いた。
最初で最後。
こんなふうに手を繋いで、堂々と……かつ大胆に校内を歩くのは。
誰もいない廊下。
だけど、誰かに見られてるかもしれない。
――……でも。
それでも、いいって思えた。
先生と一緒ならば、それでも……って。
「あはは」
化学室のプレートが見えてきたとき、なんだかおかしくなって、小さく声が漏れた。
こんなふうにふたりで笑いながらここを歩くなんて、思いもしなかった。
……ましてや、ほら。
きっちりと手を繋いだままでなんて。
嬉しかった。
確かに、見つかってもいい……なんて強くは思えないけれど。
……でも、特別。
今日で、本当に最後だから。
だから――……甘く見てもらえたらいいな。
いつしか、自分でもそんなふうに都合いいことを考え始めていた。
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