「絵里さん、アナタ……毎日きちんとした生活を送ってらっしゃるのかしら?」
「ええ、もちろんですとも」
「…………どうだか……」
ぴく。
少し大きめに切った真鯛のムニエルをほおばる寸前、ぼそりと呟かれた言葉がばっちり耳に入った。
……どうだか、だぁ?
それはこっちのセリフよ。
ていうか、せっかくたっぷりたっぷりとナイフで魚に塗りつけたクリーム、べったり落ちましたけど。
口を開けたまま、『あ』って顔したから、間違いなく彼女も見ているはず。
だけど、まったく動じずまったく気にせずに、『おいしいわねぇ、さすが一流だわ』なんて笑いのけた。
……こーゆートコ、何回見ても飽きることないわね。
満面の笑みを浮かべながら心の中で彼女の観察日記を綴る私も、毎回飽きないけど。
「……俺はこういうのは好かん」
カチャン、と音がしてそちらを見ると、ナプキンで口元をしっかり拭いながら、フォークとナイフを皿に置いたのが見えた。
そんな彼を見て、渋い顔をしたのが――……相変わらず、なぜか私を敵視しまくりの女性。
もごもごと動いたままの口元に手を当てて、『そんなこと言わないの!』なんて指摘してるけど、相変わらず男性の表情は歪んだままだった。
「俺、面倒くせェ料理は嫌いなんだよなぁ。こー……箸でがつがつっと食えるほうが、いかにも『食った』って感じするじゃねェか」
「あら、それ大賛成です」
「……おっ。さすが、わかってるじゃねェの」
「もちろんですよー。あれこれと気を遣いながらナイフとフォークを動かすのって、疲れちゃいますもん」
「ははは! そーよ、そう! それ! やれ音を立てちゃいけねェとか、やれナイフとフォークは揃えて置くだとか……メンドクセェよなぁ!」
「ええ」
にっこにこと笑いながら身を乗り出し、目の前の男性と何度もうなずく。
彼がこういうときに見せる、くしゃくしゃっとした笑顔は、んもーーたまんなく好き。
お酒が入ってるせいで少し赤くなった顔は、どことなく彼の愛称である『たこ』を連想させて、ちょっぴり笑っちゃいそうになるけど。
でも、それを思ったところで嫌な顔ひとつせずに、むしろ笑える方向へ……そして気を遣わない方向へ持っていってくれるのは、彼の魅力だと間違いなく言える。
だって、初めて一緒にごはんを食べに行ったとき、『うまいか? ごちゃごちゃ言わねェで、うまけりゃ「うまい」だけ言やァいいんだよ』って言われたんだもん。
私の周りには、これまで全然いなかったタイプ。
公でも私でも、こんなに豪快で、こんなに男気があって……だけど、『カワイイ』と思えるようなオジサマは、本当に見たこともなかった。
「……くす」
フレッシュのグレープフルーツジュースを飲みながら、隣の女性と『俺はワインより日本酒がいい。いや、むしろ焼酎が』とか言い合っている姿を見ていたら、やっぱりおかしくなってきた。
毎回毎回、この席は気が重たいけれど――……でも、彼がいてくれるから、『行こうかな』って思える。
それほどのムードを作り出してくれる彼は、私にとってなくてはならない存在だった。
「それじゃ、お父さま。今度、おいしいラーメン屋さんご一緒しません?」
にっこり笑って再び身を乗り出し、ちょっとだけいたずらっぽい顔をしてからくすくすと笑ってやる。
お父さま。
……そう。
今、私の目の前にいる男性と女性は、隣で黙々とごはんを食べ続けている……不甲斐ない彼氏の両親だ。
なんでか知らないけど相変わらず私が何か言おうものなら、彼女――……こと、お母さまはびっくりするくらいの勢いで噛み付いてくるんだけど、お父さまはそんな彼女を制してくれながら、毎回私にフランクに接してくれている。
これって、すごく助かってるのよね。
普段も、お母さまの気まぐれでいきなり自宅へ呼びつけられるんだけど、そんなときでもお父さまは私が疲れないようにってちょくちょく相手をしてくれるし。
……やっぱり、男はこうじゃなくちゃ。
前、純也に聞いたら、会社でもこんな感じだって言ってたから、多分そこに秘密があるんだと思う。
彼の経営する建築会社が、どうしてそこまで取引先の人たちと仲がいいのかって秘密が。
「おっ、いいねェ。そこなら、俺も作業着のまま行けるだろ?」
「もっちろん! むしろ、普段ご愛用の甚平でも大丈夫ですよ」
「ハハハ! そりゃあいい」
豪快に笑ってグラスの水を飲み干し、遠くで待機していたボーイさんに『にーちゃん、水くれよ!』と声をかけたところで、さすがのお母さまも限界に達したらしい。
相変わらず、こちらにまで聞こえてる小声でお父さまにくどくど文句を言ってから、『だから嫌なのよ』なんてナプキンを外した。
そのとき。
一瞬彼女と目が合ったので、すかさずにっこり笑ってやる。
当然こうすれば、彼女はビビるわけで。
瞳を丸くして『何ごと!?』みたいな顔をした彼女に、さらなる追い討ちをかける。
「お母さまもご一緒にいかがですか? ラーメン」
「ッ……結構よ!」
もうちょっとで、あんぐりと口を開けていただろう。
純也はまったく反応を見せなかったけど、お父さまはぶふっと顔を背けて笑い出した。
見る見るうちに赤く染まる、お母さま。
……ふ。
やっぱりお父さまと私は、相性ばっちりのいいコンビを築けると思う。
それを彼女もわかったのか、お父さまを一喝してそっぽを向いてから、ご丁寧に『お母さまなんて呼ばれる筋合いはなくてよ!』なんて付け足された。
「あー、おいしかった」
ふたりを丁寧に見送ってから、駐車場の端っこに停めてあった車の助手席へさっさともたれる。
煩わしいアクセサリーをすべて外し、セットしておいた髪も直す。
そのとき、髪を留めていたピンが幾つか足元に落ちた気がしたけど、気にしないことにする。
だって、すんごい疲れたんだもん。
まぁ、この90分間1本勝負の間中ずーーっと笑顔で応対してたんだから、無理もないと思うけど。
我ながらホント、やればできるんだなって思えるのがこの時間。
普段の私からじゃ、きれいに化粧してきれいに髪をセットしてぎらぎらと光るようなアクセサリーをつま先から頭のてっぺんに飾って、なおかつひらひらのドレスとヒールの高い靴を身にまとうなんて、まずありえないもの。
考えられないし、気持ち悪いじゃない?
普段言いたいことをすぱーんと言うのが売りの絵里ちゃんが、猫なで声でゴロゴロと愛想振りまくなんて。
……あー、なんか顔が疲れた。
顔の筋肉という筋肉全部を酷使してたからか、ぴくぴくと頬がつってる気もする。
普段持ち歩くことのないバッグから手鏡を取り出して車内のライトを点けると、案の定そこにはフルマラソン全力疾走したみたいな顔の自分が、ぼやけることなく映っていた。
「……相変わらず、お前ってすげーよな」
「何よ今さら」
「いや、別に」
エンジンをかけながら呟かれた言葉に、そちらを見る気も起きない。
毎度のことだけど、ほんっとーーに嫌なのよね。
こっちは、ふたりにものすごく気を遣って、ただでさえバシバシと直球勝負を挑んでくるお母さまにも嫌な顔ひとつしないっていうのに……純也ときたら、どうよ?
今回だってまったく会話に参加しようとしてこなかったし、ましてやお母さまがお得意のプリチィボイスで『純ちゃん、ちゃんとごはん食べてるの?』なんて話しかけたときも、『まぁ普通』とかって曖昧なことしか言わなかったし。
お陰で、そのあとしばらくお母さまに『純ちゃんの好きな物ベスト10』とか『純ちゃんの好きな味付けベスト5』なんて、まったく興味の掻き立てられないことをくどくど話し込まれるハメになったっつーのに。
「ま、お前ならどんな相手でも打ち負かすだろうけど」
「…………」
ウィンカーを出してハンドルを切りながら言われた言葉に、もう、何も言い返す気が起きなかった。
相っ変わらず、何もわかってないわね。
ていうか、ハッキリ言ってズルイ。
私は毎回、この『真綿に包まれた拷問』を終えたあと、純也に対して必ずこういう気持ちを抱く。
そして――……。
「…………」
どうして両親が日本にいないんだろう、と……寂しくなるよりも、歯がゆさでいっぱいになる。
もしも私の両親が日本にいて、私も純也とじゃなく普通に家で暮らしていたら。
そうしたら、確かに今みたいな生活が成り立つわけないって、それはわかってる。
だけど……私は、“彼女”で。
純也は“彼氏”なんだから、私の親にも当然私と同じように気を遣うだろう。
……でも、両親は不在。
仕事の関係で海を渡った向こうにいるから、これまでの数年間、1度も純也が私と同じように両親を前に場を取り繕おうとがんばってる姿なんて見たことなくて。
そりゃあ、両親が日本を離れるときに1度は会ってるから、正確には『1度も』とは言えないのかもしれないけど。
でも、ね。
同じ境遇だったら違ったんだろうな、って思うことがときどきある。
それは、こうして純也の肉親との会を増すごとに、ちょっとずつちょっとずつ強くなってるのよね。
……本当は、それってちょっと嫌なんだけど。
だって、両親は何も遊ぶために日本を離れたわけじゃないし、私だって……どうしてもっていう自分の我侭で日本に残らせてもらったんだから。
「…………」
わかってる。
それは……わかってるのよ。
だけどもしかしたら、単に、わかろうとしていただけなのかもしれないなぁって最近思い始めた。
アレもコレも、私が考えていたことは、単なる私の自己完結に過ぎなかったのかもしれない。
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