「…………ごほん」
 言わずと知れた、化学の授業。
 今日は前回やった実験の考察だから、誰しもノートを開いてまっすぐ教壇を見つめていた。
 幅のある、大きな実験テーブル。
 可動式の、横に長い黒板。
 それらを全部独り占めして使えるのが――……そう。
 今日はなぜか人一倍咳払いをしている、祐恭先生だ。
 ……しかも、ちらりと人のこと見すぎ。
 恐らく、純也とのアレを聞いていたから、こういう態度を取ってるんだろうとは思うけれど……。
 それにしたって、羽織と180度違いすぎだ。
 俯き加減に教科書を読みながら、そそくさと板書き。
 合わせないように、合わせないように……と必死になっているからこそ、かえって合う機会が増えるってどうなのよ。
 しかも、度重なる咳払いでしょ?
 どんだけ人の事意識してるんだか知らないけど、でも、逆に祐恭先生に聞いてみたら、きっとこう言われるに違いない。

『授業、すごいヤリヅライいんだけど』

 ……ってね。
 きっと、ものすごく疲れたアンド迷惑そうな顔をして、そう言ってくれるに決まってる。
 あの眼鏡教師ならば、間違いなく。
「……っと」
 話をしながら板書していた祐恭先生が、ふいに手を止めた。
 一瞬。
 その一瞬前、腕時計を見た気がするのは気のせいじゃないはず。
「それじゃ、今日はここまで」
 ……あら。
 何? その清々(すがすが)しい顔。
 やっとがんじがらめのお説教から、解放されたー! みたいな。
 そんな顔されるとすごく腹が立つんですけど。
「ぅっ。……何?」
 びしっと手を挙げて、指される前に立ち上がる。
 っていうか、今何気に『う』とか言ったでしょ。
 何よそれ……なんでそんなに、苦手意識バリバリなワケ?
 失礼しちゃうわ。ホント。
「まだ授業終了には5分以上ありますけど」
「……いや、その……。あ、そうそう! このあと、職員会議があるから」
「…………」
 ふぅーん。
 そう言う代わりに、ものすごく思いっきり凝視してやる。
 じとーーっと、粘っこい張り付くような視線を。
 すると、にこやかと言うよりは冷や汗たらたらみたいな表情を見せてから、もう1度腕時計を見た。
 時間まで、正確にはあと7、8分あると思うんだけど。
 ……いいの? それで。
 っていうか、めちゃめちゃ“超個人的理由”なんじゃないの?
 私でこんなんじゃ、羽織が理由不明の早退とかってなったら間違いなく自習を告げて授業ボイコットするわね。
「……くす」
 再び教室に響いた、祐恭先生の『終わり』を告げる声。
 それに呆れつつも教科書を閉じると、噂の彼女が小さく笑った。
「……んー? なぁに?」
「え?」
「そんなに、私を意識してたのがおかしいの?」
 そちらを見ないまま、にやりと笑ってみせる。
 すると、一瞬動きを止めてから、『違うよ』なんて付け加えてくれた。
 はいはい。お心遣い、ありがとね。
 でも、別に今のところは割と落ち着いてるから、気にしないで。
 例え今、ここに純也が入ってきたとしてもまったく動揺しな――……。
「祐恭君、ちょっと……」
「え? あ。はい」
 ガタガッタン
「絵里……?」
「……なんでもないわよ」
 反射的に、椅子から滑り落ちて机の陰に隠れていた。
 ……なんつータイミング……。
 パタン、とドアの閉まった音でそーっとそちらを覗き見ると、そこには祐恭先生の姿もアイツの姿もなかった。
 ほっ。
「……大丈夫?」
「何が?」
「……もー。ホコリ、付いてるよ?」
「うわ」
 なんのこと? と、表情をまったく変えずに切り返したのに。
 羽織はくすくす笑いながら、スカートの裾にくっ付いていた綿ゴミを丁寧に取り除いてくれた。
「はい」
「……ありがと」
 なんだかもー、ちょっと照れくさいというか、恥ずかしいんだけど。
 てっきり、純也に対する『大丈夫?』だと思っていたから、クールにキメたのに。
 ……ゴミくっ付けたままでキメたって、失笑モンじゃないのよ。
「……はー……」
 立ったまま教科書類をまとめると、大きなため息が漏れた。
「ん……?」
 そんなときのことだ。
 羽織が閉じようとしていたノートの、その……端っこ。
 そこに、斜めに書き綴られた部分があるのが目に入ったのは。
「ん?」
「……これ……何?」
 そっとそのページを手で押さえ、羽織を見つめる。
 すると、一瞬瞳を丸くしてからほんのちょっとだけ照れたような顔で苦笑を浮かべた。
「別にたいしたことじゃないんだけど……。あのね? この前の実験の考察……結局、私たちの班は終わらなかったじゃない? だから、その宿題を家でしてたときなんだけど……」
 そう。
 実は、前回の実験のときはいろいろとトラブルがあったりして、私たちは考察の時間を取ることができなかったのだ。
 それこそ実験が休み時間にまで及んじゃって、慌てて結果の数値とかを殴り書きしたくらいなんだから。

「そのときね、料理番組をやってて……。……だからこれ……その料理のレシピなの」

 ほんの少しだけ、照れたみたいに笑った羽織を見て……思わず何も言えなくなった。
「ほら、先生って普段あんまり野菜食べないでしょ? だから、それで――……絵里……?」
 羽織がちょっとだけ心配そうに顔を覗き込んだ。
 ……でも、何も言うことができない。
 だって、羽織ってば……本当に本当にかわいい――……ううん。
 とっても、幸せそうな顔をしたんだもの。
 別にそれが眩しくてとか、妬ましくてとか、そんな馬鹿な考えからじゃない。
 だけど、すごく羨ましくはあった。
 そして――……あぁ、なるほど……って、ちょっとだけそう思った。
 あのとき。
 純也が、私に言った言葉。

 『気を遣えよ』

 なるほどね。
 気遣いって、こういうことか。
「……羽織は偉いわね」
「え……?」
「んー……。なんとなくよ、なんとなく」
 深い意味はないの、と続けてから笑うと、少しだけ……心配そうな顔が緩んだ気がした。
 ……でも、本当は違う。
 なんとなく、なんてモノじゃない。
 だってそこには、明らかに羽織の祐恭先生へ対する愛情があってこそなんだから。
 しっかりと羽織の中に根付いている、彼を思いやる気持ち。
 それがあるから――……彼女をこう動かしているんだ。
「さ。それじゃ、行きましょ?」
「え? ……あ……。うん」
 ふぅ、とため息をついてから羽織の手を取ると、一瞬戸惑ったような顔をしたものの、すぐに笑みを見せた。
 ……気を遣わせてばっかりね、私。
 いつもそう。
 いつも――……本当に、毎回。
「……ありがとね」
「え?」
「んーん。なんでもない」
 ほんの少し。
 とってもとっても小さな声でぼそっと呟き、ふるふると笑顔のまま首を振る。
 私の場所を作ってくれてる、彼女。
 いつもそうしてもらってばかりで、1度だって……恩返しできていない。
 ……このままじゃ、ダメだよね。
 悔しいけど、でも純也が言ってたことは、本当だし正しい。
 何かあるたびに羽織の家に転がり込んで……ご両親にも、迷惑かけちゃって。
 …………よし。
「羽織」
「え?」
「今日、ちょっと……私行きたい所があるの」
「そうなの? え? で、でもっ、今日も泊まるんだよね?」
「んー……それはまぁ、また追々」
「……おいでよ……? 絶対だからね!?」
「大丈夫よ。心配かけたりしないから」
 まるで、お母さんみたい。
 ……そういえば、今回お世話になることをおばさまに言ったら、同じように心配そうな顔してたっけ。
 苦笑を浮かべながら首を横に振り、もう1度『大丈夫』と呟いてから肩を叩いてやる。
 すると、まだ若干不安そうではあったけれど、一応はうなずいてくれた。
 ……残すところ、今日の授業はあとひとつ。
 それを終えたら――……早速、実行ね。
 そう思ったら、なんだか急に元気が出てきた気がした。
 今はもう、うざったい感情に虫食(むしば)まれている場合じゃない。
 私は私の道を行く。
 そうするために、すべて洗いざらいぶちまけたんだから。
「……よし」
 改めてそう決意すると、自然に笑みが浮かんだ。
 変わったりする必要は別にないんだから。
 むしろ、そうじゃなくて――……私は私のままでいなきゃ。
 羽織のためにも。
 そして――……私を愛してくれている、両親のためにも。
 そう思った途端、無意識の内に小さくまたうなずいていた。


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