「ちょっとー。そんなんじゃ困るわよ!」
「あ。点入りましたよ」
「はいはい」
 今回指摘したのは、絵里ではなく羽織。
 彼女の声で点数をめくると、不機嫌そうに絵里がため息を漏らした。
「焼肉行けなかったら、先生が自腹で連れてってよね」
「……無茶言うなよ」
「じゃあちゃんと見てなさいよ! あ、ほらっ! めくる!」
「…………細かいな」
「当たり前でしょ!」
 絵里に急かされてつい愚痴を漏らすと、羽織が苦笑を浮かべた。
「でも、ラリー制だから、ちゃんと見てないとどんどん点が入っちゃいますよ?」
「わかってるけど……でも、大体ルールも知らない俺がやってること自体、無理あると思わない?」
「んー……。でも、田代先生もバレーのことはよく知らないって言ってましたし。あ、ルールブック読みました?」
 くりっとした瞳で羽織が思い出したように彼に訊ねると、大分間があいてから唇が動いた。
「……読んだけど」
「嘘」
「なんで嘘ってわかるんだよ」
「ほら。やっぱり嘘じゃない」
 即答した絵里に祐恭がジト目を送るものの、相変わらず彼女の視線はコートに向いたまま。
 しかも腕まで組んでおり、監督のようにさえ見える。
「点。入ったわよ?」
「……わかってるよ」
 渋々絵里の言う通りにしながらも、これはこれで結構楽だな……なんて祐恭はこっそり考えていた。
 ルールブックは、読もうと思ったのだが結局途中で断念。
 今回は、それゆえの悲劇だった。
「で? バドはもう終わったのか?」
「まさか。今は1、2年がやってるの」
「あ、そ」
 ぶっきらぼうに呟くと、コートチェンジが言い渡された。
 まず、2組が1ポイント。
 2ポイント先取したほうが次の対戦に進めるので、いわゆるリーチ状態だ。
「茜ー! 負けるなー!!」
「おーっ」
 絵里の声にガッツポーズを見せた彼女が、ボールをぽんぽんと上げながらサーブの構えに入る。
 それを見て純也が笛を鳴らすと、低く鋭いサーブが相手のコートへと落ちた。
「やった! さすがっ」
「……すごいな、2組」
「ほら、先生っ。ぼーっとしてないで、点数入れてよ」
「はいはい」
 手を叩いた羽織に祐恭がつられそうになると、びしっと絵里がそれを制す。
 この3人は、なんだかんだ言って結構いい組み合わせなのかもしれない。
 ピピーっと大きく響いた笛の音でそちらを振り返ると、今度は2組に対して純也が声をかけていた。
 それを見て、絵里が眉を寄せる。
「ったく。もう少し甘い判定してくれりゃいいのに」
「それじゃ審判にならないだろうが」
「そうだけどさー。なんか、ヘンに堅いのよね。純也って」
「でも、それがいいところなんじゃないの?」
 彼と同じA型の羽織がしれっと呟くと、思わずO型のふたりは顔を見合わせてしまう。
 ……似てる。
 その瞳は、そう語っていた。
 ――……結局。
 お喋りをしながらの点数盤係だったが、祐恭が心配していた間違いなどが起きることもなく普通に試合が終了した。
 ……まぁ、そこには絵里と羽織の力がかなりあったのだが。
「あれ。絵里、いたのか」
「いたのかって……随分じゃない。まぁ、いいけど」
 試合終了の挨拶を終えた彼がこちらに歩いてきてすぐ、絵里は盛大にため息をついた。
 そんな姿を見ながら、彼はホイッスルの紐をくるくると回す。
「祐恭君、主審やる?」
「は!?」
 純也の提案に大きく祐恭が反応を見せると、さもおかしそうに笑いだした。
 あからさまに『イヤ』という顔を見せたからだろう。
「無理っすよ」
「だね。その反応だと」
 げんなりと点数盤にもたれたのを見て、純也が小さくうなずいた。
 ルールブックを読んでいない人間が主審なんてやったら、生徒たちからものすごいブーイングが飛んでくるであろうことくらいは予想が立つ。
 純也の誘いをきっぱりと丁重に断った祐恭は、小さくため息をついてからパイプ椅子に腰を下ろした。
「で? ふたりはなんの種目に出るわけ?」
 絵里が声をかけると、祐恭と純也は顔を見合わせてから視線を逸らした。
 知らんふりを決め込んだまま、まるで何事もなかったかのように伸びをしてスルーを決め込む姿勢らしい。
「ちょっ……! 教えてくれてもいいじゃない!」
「うるさいな。それは最後まで言わないことになってるだろ?」
「そうだけど、こっちは焼肉がかかってるのよ!?」
 本来の優勝商品は図書券なのだが、まぁいいとしよう。
 間違いではない。
「いい? たとえバドでぶつかったとしても、ずぇったい負けないから」
「はいはい。つーか、お前は卓球じゃないと怖くないけどな」
「うるさい!!」
 純也のいたずらっぽい笑みを一喝した絵里が、羽織の手を引いてその場に背を向けた。
 そのまま、2組のバレーチームに小走りで駆け寄って、笑顔で声をかけ始める。
「焼肉、ねぇ……」
「そう言われても、こっちも負けれないっすよね」
「うん」
 意味ありげな会話をふたりで交わすと、程なくして次の試合の選手たちがラインに並んだ。
 それを見て純也が笛を持ち、再び祐恭も立ち上がって点数盤にもたれる。
「先生、うちらのときさぁ……点数間違ってたよ?」
「え、ホントに?」
「うん。まぁ勝てたからいいけど」
 隣にやってきた2組の生徒にぼやかれ、たらりと背中を冷たい汗が流れる。
 ……やっぱりルールブックくらいは持参するべきだったかもしれない、と今ごろ後悔してもあとの祭りとはまさに今。
 再度『ごめん』を口にして頭を下げると、苦笑しながら生徒がコートへと向き直った。
 いよいよ、後半戦。
 ほどなくして、純也のホイッスルが響き渡った。

「……暑い」
「…………うぅ。熱中症になりそう」
 ぐらぐらと陽炎が立つ校庭の日陰で木にもたれるように休んでいる中も、コートでは試合が続けられていた。
 サンバイザーを首まで落とした絵里がコートを見ると、2組のBチームが汗を拭きながら試合を続けている。
 すでに秋を通り越しそうだというのに、この気温。
 はっきり言っておかしい。
 というか、異常気象もいいところである。
 昼を少し過ぎたあたりで徐々に気温が上がり始め、昼食を取った現在は下降気味……のはずなのに、一向に陽炎は消えようとしなかった。
「……ていうかさ」
「うん……」
「アスファルトに陽炎が立つのはたまに見るけど、ふつー……砂の上にできる?」
「……ね……」
「しかも、さっき水撒いてたじゃん? なんで、もうカラカラなの」
「……うん……」
「…………羽織?」
「……うん?」
 自分の問いかけに徐々に力が入っていないのを感じて絵里が隣を向くと、ぐたっと体育座りをしたままで羽織が顔だけを向けた。
「……あんたね。ちゃんとお昼食べないからよ?」
「……だってぇ……」
「そりゃあ、気持ちはわかるけど」
 炎天下での試合を乗り切り、上位に勝ち残ったのはいいのだが、お陰でなかなか日陰に入ることができないまま現在に至っている。
 教室は若干涼しかったものの、『ここに比べれば』という程度であり、やはり暑いことに変わりはなかった。
 そのため、羽織は弁当にほとんど箸をつけず、結局持参した紅茶とコンビニのジュースを飲んだだけ。
「このあと、えーと……あと2試合か。どうする? 途中で負ける?」
「ヤダ」
「だよね。じゃあ、今からでも少しお弁当食べてきたら?」
「……うん……。そうしようかなぁ……」
 はぁ、と大きくため息をついた羽織が、絵里を見てからゆっくりと立ち上がった。
 だが、その足元はおぼつかない。
「……平気? 一緒に行こうか?」
「あ、ううん。平気。教室すぐだし」
「そう?」
「ん。……じゃあ、何かあったら電話しなさいよ」
「わかった」
 弱く笑って絵里に首を振ってから、ひとり昇降口へと足を向ける。
 途中、アスファルトの駐輪場で心が折れたが、なんとか無事に建物の中へと入ることができた。
 上履きに履き替えて、階段をゆっくり上がる。
「……疲れた……」
 途中、もたれるように壁へ身体を寄せると、ひんやりとそれは心地よかった。
 しばらく瞳を閉じていたのだが、さすがに教室へ向かうべく足を動かす。
 長い廊下を歩くのは、自分だけ。
 どの教室にも人影は無く、むしろこの校舎に居るのは自分だけなんじゃないかという気さえして少しだけ不思議な気持ちになる。
 遠くから聞こえる、ホイッスルと応援の声。
 妙な響きを持って聞こえるから、余計に“非日常”を感じるのかもしれない。
「……はー……っうぁ!?」
 閉まっている教室のドアを開けて中に入ると、教卓へもたれるようにして祐恭が座っていた。
 あまりの出来事に、思わず妙な声が出る。
「……先生……?」
 驚いて声をかけるが、返事はない。
 不思議に思いながらドアを閉めて近づき、窓を向いたままの顔をこっそり覗く――……と。
「…………寝てる」
 しっかりと閉じられた瞳。
 時おり教室内に吹き込んでくる風にもまったく動じることなく、気持ちよさそうに昼寝をしていた。
 こんな彼の顔を見ると、自然に笑みが漏れる。
 まさかこんなところでサボっているとは思わなかっただけに、少し弱みを握ったような気がした。
 起こすのもなんなので、自分の席について弁当を広げることに――……が。
「……なに……?」
 思わず眉を寄せるしかできない。
 放るように置かれたジャージの上着。
 そして、畳まずにそのままの形で置かれている、眼鏡。
 彼のものであることは一目瞭然。
 ……というか。
 椅子がないのだ。
 そこにあるべき、自分の席が。
「……はぁ。なんで、自分の席に座れないの……?」
 当然と言えば当然の疑問を独りごちてから絵里の席に座り、弁当の包みを再び開く。
 玉子焼きとハンバーグが少し欠けているだけの、それ。
 ペットボトルを取り出すと、ホルダーに入れておいたお陰かまだ冷たかった。
 時計を見ると、15時少し前。
 このあといよいよ決勝を行い、教師ペアとの戦いになる。
 ……教師。
 ペットボトルから口を離して前を見ると、相変わらず微動だにしない祐恭の姿。
 ……サボってていいのかなぁ。
 そんな余計な心配をしてしまうのも、今となってはもう癖なのかもしれない。
「…………」
 音のない、静かな教室。
 ほかに誰もいないような気がする、校舎。
 黙々と弁当を口に運ぶと、今度はあっさりと喉を通った。
 涼しい場所に来たからというのもあるが、彼の意外な姿を見れたからかもしれない。
 ……まぁ、祐恭の姿が食欲増進に繋がるわけでは決してないのだが。
「ッ!?」
 急に響いた着うたに箸を握り締めると、結構な時間響いてからぷつりと途絶えた。
 自分のものでないとなると……聞こえてきた方向的に、彼だろうか。
 洋楽の着うたで、彼のものかと予測すると『珍しいなぁ』なんて感想が浮かぶ。
 だが、彼が洋楽を聞かないわけではない。
 それでも、あまり着うた設定しているのを聞いたことがないからか、意外な感じがした。
 ……先生は、私に着うたとか設定してくれてるのかな。
 彼といるときにわざわざ電話をかけたりしないからこそ、自分に何の曲を使っているかわからない。
 そもそも、自分だけ別の着うたを設定してくれているのかどうかすらも、知らないのだが。
「…………」
 じーっと彼を観察するが、あれだけの音量で響いたにも関わらず寝たまま。
 よっぽど先ほどのバレーの点数で疲れたのかどうかわからないが、これはある意味チャンスでもあった。
 スマフォをポケットから取り出して、アドレス帳を開く。
 名前順になっているので、当然彼が1番最初にある。
「…………」
 ごくり。
 …………いいよね?
 しばらく画面と目の前の彼とを見比べていたものの、意を決して――……通話ボタンを押す。
「っ……」
 ほどなくして、呼び出し音が響いた。


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