「…………」
何も言わないまま自宅マンションへ戻り、無言で鍵を開けて中へ入る。
……あーもー……ホント最悪。
これまで、それはそれは好青年を前面に出して彼女の両親にはいろいろと気をつけていたのに。
『孝之とは違う』ってことを、しっかりアピールしていたのに……。
……はぁ。
今回の件で、ヘタしたら両親公認の免罪符がなくなってしまうかもしれない。
しかも、ただでさえ……恩師である瀬那先生とは、仕事でも毎週必ず会うワケで。
……。
……せっかく株を上げていたと思ったんだが……これじゃ大損だな。
ヘタしたら、上場廃止まで行くかもしれない。
「……先生?」
「ん?」
「……大丈夫ですか?」
リビングの暖房を入れながらジャケットを脱ぐと、両手でコートを持った彼女が不安そうな顔を見せた。
「ん。平気」
「……でも……」
「大丈夫だよ。気にしてないから」
彼女の頭を撫でてやってから緩く首を振り、ソファへ腰を下ろす。
……気にしてない。
と、思う。
多分……そこまでは……。
……あ、いや、でも……やっぱり……。
「…………」
「……ん?」
両手を頭の後ろで組んでいろいろ考えていたら、隣に座った彼女がまじまじと顔を覗き込んできた。
表情は、やはり先ほどまでと同じような感じで。
……あー。
俺がこんな顔させてるんだよな。
相変わらず進歩のない自分が情けない。
「……あのっ、お兄ちゃん、いつもああだから……ごめんなさい……!」
「え?」
「昔から口が悪いし、本当に……ぽんぽん言うから……」
「……あー。別に、孝之のことは気にしてないよ」
「え?」
「ほら、俺もこれまでアイツと付き合ってるからさ。そのへんのことはわかってる」
それに、俺たちはいつもあんな感じだから、と苦笑交じりに首を振ると、一瞬瞳を丸くしてから口に手を当てた。
……まぁ、そうだろう。
きっと、女の子同士にはまず見られない光景だろうからな。
でも、俺たちにとってはある意味“あいさつ”みたいなモンで。
あれだけポンポン言い合いながらも結局は普通に話ができる関係だから、当然孝之だって気にもしていないだろう。
……今ごろ、きっとまた葉月ちゃんを見ながら自己嫌悪――……ってところじゃないか?
頭を抱えている様子がぽんと頭に浮かんで、思わず笑えた。
「……それじゃあ……?」
「んー……俺が不安なのは、ご両親のことだよ」
「……お父さんたちですか?」
「そう」
アレだけ派手に面前でやらかしてしまったんだ。
……きっと、次に顔を合わせたら何か言われるに違いない。
そう、思う。
深く激しく。
「…………はぁ……」
苦笑交じりのなんとも言えない表情をするであろうふたりの姿が想像できてしまい、ため息が漏れた。
「……え?」
「大丈夫ですよ」
瞳を閉じてソファへもたれるようにしていると、不意に温かい感触が頭に触れた。
「……羽織ちゃん……?」
「先生は、お兄ちゃんと違うから。……だから、大丈夫」
『ね?』と首をかしげて笑みをくれた彼女は、そうしてまた頭を撫でた。
……参ったな。
慰める立場にいなきゃいけない俺が、かえって慰めてもらうとは。
…………。
「……不甲斐ないな、ホントに」
「え?」
「泣かせるだけじゃなくて、こんなふうに……慰めてもらうしかできなくて」
きゅ、と彼女の手を握り小さく囁く。
すると彼女は、1度瞳を丸くしてから慌てたように首を振った。
「そんなことっ……! それに、あれは……私がいけなかったんですもん……」
落ちた視線の先に映っているのは、やはりあのときの――……俺の表情なんだろうか。
……あんなふうにこれまで言ったことはなかったからな。
きっと、彼女にとっては衝撃的だったと思う。
同時に――……。
「っ……せんせ……」
「怖かったろ? ……ごめん」
彼女を抱きしめてから耳元で囁くと、シャツを握った彼女が緩く首を振った。
そして、おずおずと顔を上げて真正面から見てくれる。
……この顔。
それは、これまでとはまったく違って……本当に柔らかくてあたたかな表情だった。
「私のほうこそ、ごめんなさい。……泣いたりして……先生は、悪くないのに……」
「でも、言い方がキツかったろ? ……怖がらせたんだから」
「……それは……」
「それは?」
「…………ちょっとだけ……」
「ごめん」
こちらを伺うように上目遣いで見つめた彼女へ、改めて謝る。
だが、すぐに『ごめんなさい』と彼女も続けた。
……なんていうか、こう……。
「お互い、謝ってばっかりだな」
「……ですね」
ごくごく顔を近づけたまま小さく笑うと、微かにうなずいた彼女が笑みを浮かべた。
……それが、心底嬉しくて。
安心できて、ほっとして。
ずっとこれまで欲しかったモノだからこそ――……たまらなく幸せになる。
「……よかった」
「先生……?」
「今回ばっかりは、ホントにどうしようもないと思った」
改めて彼女を抱き寄せると、本音が漏れた。
今までは、たとえ揉めたとしてもいくらでも修復が効くようなことばかりだった。
……だが。
今回だけは、きっと俺が謝っても済むことじゃない、ってずっとそう思っていて。
だから、手の施しようがないと思った。
きっと、1度彼女に与えた“不安”という大きすぎる要素は、簡単に拭うことができない……そう思っていたから。
「……よかった……」
ぎゅっと背中に回された腕と同時に呟いた彼女の言葉が、やけに大きく聞こえた。
……不安だったのは……俺だけじゃなかったってことか。
ふと彼女を見ると、同じようにほっとしたような顔をしていて。
…………はー……。
ホントに、よかった。
こうして抱きしめられる、大切な人を失う結果になってしまわなくて。
……しかし。
「……でも、無理はしないように」
「え? ……あ……」
軽く額を合わせてから彼女を見ると、しゅんとした顔をしながらも、しっかりとうなずいてくれた。
自分の力量以上のことをしない。
それは当然、弓道だけに留まらず、多くのことにも言える。
「普段だってそうだよ? 何かあったら、無理しないで俺には本音を言うこと」
「……はい」
「俺の前では、嘘とか見栄とかを張らないこと」
「……はい」
「それと――……」
「……うぅ。まだあるんですか?」
「当たり前だろ? ……前にもちゃんと言ったんだから」
「……え……?」
きちんきちんとうなずいていた彼女が、不思議そうな顔で面を上げた。
……あー。
さては覚えてないな、この顔は。
つい瞳が細くなった俺をバツが悪そうに見つめる彼女は、やっぱり正直な子だと思う。
「俺のために努力してがんばってくれるのは嬉しいけど、でも、それと虚勢は違うだろ?」
「……はい」
その顔はまるで、いたずらでもして親に叱られた子どもみたいな顔で。
……かわいいな。
別に怒っているつもりはまったくないのだが、あれこれと言ってやりたくなってしまう。
って、コレが俺の悪いクセか。
彼女同様、俺も反省しなくては。
「俺は、等身大の羽織ちゃんが好きなんだから。……見栄なんて張らなくていい」
「……ごめんなさい……」
「できなかったら、できないって。……そう言ってくれたほうが俺は嬉しいよ」
「え……?」
「俺の前だけでは、本当の姿見せてほしいんだから」
『繕ったりせずに』
そう言って笑うと、まじまじ俺を見ていた彼女がにっこり笑みを浮かべた。
ちょっとだけ照れたように。
……だけど、それはそれはかわいい顔で。
「っ……せんせ……!」
「……っとに、かわいいな……」
なんともいえない嬉しさが込みあげて、彼女を強く抱きしめる。
……どんなに高価で価値あるモノにも、代え難いもの。
まさに俺にとっての“財産”こそ、彼女。
……ホントよかった。
すぐここで優しく香る彼女の髪の匂いに、自然と瞳が閉じた。
「……羽織ちゃんは?」
「え?」
「俺に直してほしいこと」
そのままの格好で呟くと、一瞬悩んだような声をあげたものの、もぞもぞと動いて身体を離した。
「なんでもどうぞ」
「……えっと……これといっては……ないんですけれど……」
「また、そう言う。だから、いいって言ってるだろ? 俺の前では、本音言ってくれて」
「だから、あのっ……! あの……ホントに、ないの。だって……私にとって、先生は憧れだから……」
「…………え?」
「理想……なんです。先生が」
今一瞬、とんでもない言葉に聞き間違ったんじゃないか。
そう思って聞き返すと、先ほどとまるっきり同じ言葉が、少しだけ照れた彼女の表情とともにもう1度聞こえた。
「…………」
「……そ……っそんなに見られると、恥ずかしいんですけれど……」
凝視。
そんな言葉しか相応しくないほど、彼女と見つめていた。
……いや、ちょっと待て。
ちょっと待ってくれ。
だって、おかしいだろ?
理想って。
憧れって。
「……ええ!?」
「だ、だってぇ……」
思わずとんでもない言葉で声をあげると、困ったように彼女が笑った。
いや、だがしかし。
むしろそんな反応をするべきなのは、俺のほうで。
……ありえん。
本気でありえん。
なぜ? どうして?
――……対象が俺なんだ?
普段、彼女に対して欲望丸出しというか……そんな感じのことばかりで、それこそ彼女を困らせてしかいないのに。
なのに、どうして『理想』なんていうとんでもない言葉が出てくる?
……ありえない。
彼女が俺をそんなふうに思ってくれているなんて1度も考えたことがなかっただけに、口が情けなく開いた。
「だ……だってぇ……先生は、あの……ほら……」
「何?」
「……うぅ……話しにくいんですけれど……」
「いや、だってさ。まさかそんなふうに言われるとは思わなかったから……つい」
反応に困った。
それも、少しだけあった。
「先生は、どんなことにも物怖じしないで……いつもしっかりしてて、背筋をぴんって伸ばしてるじゃないですか」
「……そりゃまぁ、猫背じゃないとは思うけど……」
「もぅ! そうじゃなくて!」
「ああ、違うの?」
「……もぉ。知ってるじゃないですかぁ……」
さらりと肩をすくめると、くすくす笑いながら首を振った。
……いや、でもな。
面と向かってあれこれ言われると、若干気恥ずかしいのもあるというか…………照れくさいんだよ。なんか。
自分の彼女に『憧れ』なんて言われると、ものすごく。
別に大したことをしているワケでもないし、飛びぬけて優れているワケでもない。
……ましてや、アレだぞ?
彼女に嫌われたんじゃないかって、心底からひやひやビビってるような人間なんだぞ?
なのに、どうしてそんなヤツを理想にできる?
……不思議だ。
ホントに不思議だ。
これまでそんなふうに敬ってもらった経験がまったくなかったので、目の前でなぜか照れた顔をしている彼女が、あまりにも奇特に思えた。
「……人と違っても、先生は自分の意見をきちんと言うでしょ?」
「まぁ……そうやってこれまで生きてきたから」
「私はそれってあんまりできなくて……結構人に流されるタイプだし」
「……あー」
「うぅ……そう言わないでください」
「いや、なんつーか……納得できるっていうか……」
「もぅ!」
まじまじと顎に手を当ててついうなずくと、彼女が不満げに眉を寄せた。
……うなずいちゃいけなかったのか。
正直なところ、女心はよくわからない。
「でも、人に合わせることができるっていうのも、俺は長所だと思うよ」
「……え?」
「なりふり構わず我が道を行くんじゃなくて、人のことも受け入れられるってことだろ? 人を尊重して認められるっていうのは、能力だと思う」
「……でも……」
「俺だって羽織ちゃんを見習うことはたくさんあるし、『ああそうか』って納得させられることも多いる」
「……え? ……そう、なんですか……?」
「もちろん」
少しだけ瞳を丸くした彼女にうなずいてから、改めて額を合わせる。
……近い距離で囁くこと。
これが、俺は結構好きだ。
「お互いに、もちつもたれつ。……そういう関係は、理想なんじゃない?」
「……ん……」
しばらく黙って俺を見つめていた彼女に『ね?』と続けると、うなずいてくれてから柔らかい笑みを見せた。
互いに、そう思える間柄。
これこそがお互いを高めあっていける証拠だし、何よりも――……なくてはならないという証拠。
……彼女もそう思ってくれていたのか。
それがわかっただけでも、心底嬉しかった。
…………あー。
「……俺さ」
「え?」
「羽織ちゃんには、俺じゃなくて……もっと優しいヤツのほうがいいんじゃないか、って思ったんだよ」
瞳を丸くした彼女をまっすぐ見れなくて、ふと視線が落ちる。
……馬鹿な考えだろうとは思う。
だけど、彼女を傷つけ続けてしまうんであれば、むしろそのほうがいいんじゃないかとも思ったから。
あのときは本当に――……。
「……え?」
「っ……やだ……そんなのやだ……!」
ぎゅっと両手で腕の辺りを掴んだ彼女が首を振り、軽く唇を噛んでから俺を見上げた。
「……私は、先生じゃなきゃダメだから……」
俺はいったい、どれほどその言葉が欲しかったんだろう。
「っ……せんせ……」
「……よかった……」
少しだけつらそうな顔をした彼女を改めて強く抱きしめ、耳元で囁く。
彼女ならきっと、こう言ってくれると思った。
自惚れだと言われても、反論はできない。
だけど、それでも……彼女が迷うんじゃないか。
あのとき。彼女を怖がらせたあのときは、一瞬でもそう思って正直怖かった。
「…………」
確かに、孝之が言ったことも一理あるんだよな……。
『ビビってる』
それは、間違いじゃないんだ。
彼女に何か言って、それで――……いなくなってしまうんじゃないか。
そういう不安が、今回特に大きくあった。
……でも、それだけ大切な存在なんだよ。
好きで好きでたまらないくらい大事だから、一歩踏み出すことができなくて。
でも、言わなくちゃいけない、しなくちゃいけないようなことだって、当然あって。
………いざ、そういう行動を起こしたとき。
それでも彼女は、そばにいてくれるんだろうか。
そういう不安が――……確かに今まではあったと思う。
だけど。
「……え……?」
「よかった」
そっと両手で頬を包んでから顔を上げさせると、瞳を丸くした彼女がふっと笑みを見せた。
……かわいい子。
どうしようもなく大切で、どんなモノより“俺”を形作ってくれる大切な……ある意味半身かもしれない。
『人を優しく包み込み、安らぎを与え、そして――……ときに凛とした態度を示せるように』
そういって、少しだけ照れくさそうに笑った瀬那先生の言葉がふと頭に響いた。
名前というのは、まさにその“人”を表していて。
“羽織”という名前を授かった彼女は、まさに込められた願いをそのまま受け継いでいる子ではないだろうか。
今、この子がいなくなったら。
そんなこと考えたくもないが、きっと俺は駄目になること確実だ。
昔、自分が罵ったような……そんなヤツと同じ道を辿るだろう。
『彼女なしじゃ、生きていけない』
きっと俺は、確実にそうなっているはず。
「……ん……」
ゆっくりと口づけを落とし、何度か角度を変えて唇を重ねる。
……どうか、もう少しこのままで。
誰に邪魔されるでもなくふたりきりで過ごせている……この幸せなときを、もっと。
「…………」
「…………」
「……風呂入るか」
「えぇ!?」
まじまじと彼女を見つめていたら、出てきた言葉。
それで当然のように彼女は声をあげたけれど――……顔には笑みがあった。
……ああ。
やっぱり俺は、彼女じゃなくちゃダメで。
その中でも特に――……こうして笑ってくれている彼女でなければ、本当にダメなんだなと思う。
なんでも俺の言うことを許してくれ、なんてどうしようもないことは言わない。
……だけど……せめて、笑って『仕方ない人』と思ってもらえるのであれば、俺はそれを望む。
俺はどうしようもなく、我侭で。
彼女を見ていると、困らせるようなことしか言えないけれど。
……でも。
彼女は俺に勿体ないくらい、かわいくて優しい人だから。
だから……これからは、もう少し俺も素直になって生きようか。
彼女の困った顔はもちろん、あの……涙を見ることがないように。
できるだけ、俺の前では笑っていられるように。
そう――……今年は心がけてみようか。
「……ね?」
「え?」
くすくす笑いながら彼女に同意を求めると、不思議そうな顔をしながらも笑みをくれた。
……だけど、今は。
今だけは取りあえず――……彼女に触れるだけの時間を作ろう。
そんな素直な思いを伝えるために、もう1度彼女を誘ってみることにした。
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