「柘植架耶です。よろしくお願いします」
「……っ」
化学準備室のドアから、そっと入り込んだときに聞こえた名前で、思わず足が止まった。
姿は見えない。声も若干違う気もする。
だが――珍しい苗字と、名前。そうそう同じ人間がいるはずないだろう。
「祐恭君?」
「いや……」
俺が立ち止まったのを不審に思ってか純也さんが振り返るが、視線は彼の先へと向いたままだった。
窓から入る光を背に立つ、ひとりの小柄な女性。
そう、女性だ。
今はもう“生徒”の面影は薄れ、幼さは残りながらも“学生”の姿へと変えていた。
「2週間、よろしくお願いします。精いっぱいがんばります」
主任の紹介のあと、彼女が笑った。
緊張もしているだろうし、初めての経験に戸惑うことも多いだろう。
だが、その顔には当時の自信のなさよりも、新しい環境へ飛び込んだいい意味での自信が見えるようだった。
「っ……瀬尋先生……!」
「実習生って、柘植だったのか」
「お久しぶりです。というかあの、ええと……数年ぶりと言いますか」
目の前の先生方がはけたことで、彼女とすぐに目が合った。
驚いたのは、こちらとて同じ。
というか、まさかこんな場所で再会するなど考えもしなかった。
彼女がまだ高校生だったとき、短い期間だが授業をもったことがあった。
だが、当時は数学こそできたものの、化学に関してはとても苦手意識が強く、化学式の変化で特につまずいていた印象が強い。
実際はそこまでではなかったのかもしれないが、俺の中での彼女は、とてもじゃないが化学からは遠い場所に位置する子で。
だからこそ――。
「いや……素直に驚いた」
思わず口元へ手を当てたまま、本音が漏れる。
大丈夫なのか。やっていけるのか。
申し訳ないが、そんな心配さえ浮かぶほど。
だが、俺の知らない数年の間に、きっと努力もしたんだろう。
でなければ、化学科の教員志望としてここへ来るはずがない。
「当時は、本当にお世話になりました。できもよくなかったので、さぞかし手のかかる生徒だったと思います。でも、だからこそ……なんです。できなかったことが、できるようになりました。努力の方法も、学びました。だから今、当時の自分と同じように化学に苦手意識を抱いている子たちに、おもしろさ、楽しさを伝えてあげたいと思ったんです」
なんて、ちょっとカッコよすぎますね。
胸を張って答えたあとの照れたような笑顔は、当時のままに見えて。
「……そっか。じゃあ、がんばれ。柘植先生」
「っ……はい!」
思わず笑みを見せると、嬉しそうに、だが力強くうなずいた。
「なんか……朝からずいぶんフレッシュ感漂いますね」
「っ……」
「いや、そういう萌先生もかなりフレッシュじゃないですか?」
「あら。それってこのシャツのこと言ってます?」
「若干」
「もー。若干っていうか、田代先生の目線この襟にしか行ってないじゃないですか」
高くも低くもなく、まさにちょうどよく耳に届く声。
生徒たちも、彼女の授業を受けたあとよく口にしていたが、こういうふうに意識をすんなり向けさせることができるのは、教員として大きな武器であり強みだろう。
すらりとした身長の高さもあいまってか、今日の服装は特にデキる先生風の彼女は、同じく化学科の萌先生。
かわいらしい名前と、このパリッとした見た目とから、教員の間でもファンが多いらしい。
爽やかなレモン色のシャツに白いパンツという、純也さん曰く『朝のニュース番組に出てきそう』な彼女は、柘植と俺とを見比べると、小さく笑った。
「ふたりを見ていると、なんだか兄妹みたいね」
「そうですか?」
「ええ。実家にいたころ思い出すわ」
「それって、萌先生の実体験とか……」
「いいえ? 私はひとりっこだし。ああでもしいていえば、従兄妹はこんな感じだったわよ」
『こんな』のとき、手のひらで大きな円を描かれ、思わず柘植と顔を見合わせる。
自分にも妹はいるが、こんなに努力できるヤツじゃない。
実際の兄妹というのは、もっとさばさばしていて、理想なんてもの微塵も入り込まないもので。
……ああ、そういえばあの孝之にも高校生の妹が――どころか、この学校の3年に在籍していると初日に聞いて、驚いたんだったな。
まだ、見たことはないがまあ、似ているんじゃないのか。アイツに。
って、そもそもこの学園の人事はアリなのかどうか怪しいところなんだけどな。
学内に兄妹がいるどころか、教員が従兄弟同士なんだぞ?
あー、孝之の妹で優人の従妹となると……見たことはないが、だいたいの想像はできる。
「瀬尋君?」
「え。なんですか?」
「いや、なんかトリップしてた?」
「そんなつもりはないんですが……ちょっとほかのこと考えてました」
萌先生に声をかけられたところで、見知らぬ女子高生像がかき消される。
3年となると、自分も何クラスか授業を持ってはいる。
そこで“瀬那”なんて珍しい苗字に行き当たったら、間違いなく例の子で正解だろうし、まあ、楽しみにしておくか。いろんな意味で。
俺抜きで始まった、柘植を中心とした大学生活の話をしている純也さんたちを見ながら、ふとそんなことをもう一度考えた自分が、どれだけ興味を抱いているのかと若干おかしくもあった。
「あー今日の日替わりランチなんだっけ。月曜ってことは……フライの日か」
「そういえば、今日は買ってきてないんですね」
「それがさー、朝いつもの道がすごい混んでて。何事かと思いきや、事故だよ事故。しかもそのワンボックス、横転して2車線塞いでてさ。怪我人がいたかどうかはわかんないけど、朝からなぁってちょっと思っちゃったよね」
午前中の職務を終えて向かうのは、中庭に併設されている学食。
大学とは違い、生徒たちが使っているのはほとんど見ないが、この学校へ勤務するようになってから俺たちはほぼ毎日ここで昼食をとっていた。
“たち”ということはつまり、ほかの顔見知りもということで。
科や担当学年が違って合わないはずの人たちも、となる。
「お。今日の日替わりは、クリームコロッケとイカリングか」
「あ。日替わり予約してないと、ないらしいっすよ?」
「え! なんで?」
「いや、今日はたまたま市のお偉いさんが昼前に会議に来たらしくて、校長が無理矢理誘ってランチアピールしたらしいっす」
メニュー前にいた孝之が顎で示した先を見ると、まさにそのとおり校長が何人もの議員らしきメンツとともに、お世辞にもご歓談とは言えないランチを過ごしているのが見えた。
あー、あそこ行くのちょっとやだな。
てか、こんなときでさえ伽月先生を自分の隣へ座らせるってのは、どういう神経なんだ。
座ったせいで短いスカートがさらに短くなっているのを、精いっぱい両手で押さえている彼女――を満足げに見る校長。
どう考えてもあの組み合わせは、犯罪要素しか感じられない。
「じゃあ孝之君は何にするの?」
「あ、俺は朝の時点で予約したんで」
「えー! まじか! なんだよー知ってたら教えてくれればよかったのに」
「いや、俺も試しに今朝言ってみたんですって。そしたら、取り置きしといてくれるっつーんで」
純也さんに慌てて手を振った孝之は、そういえば学生時代からいつもそうしていたことを思い出す。
毎朝、必ず学食へ寄ってから教室へ向かってたもんな。
ああいうところ、マメだなと感心はする。
「へー。そんな裏技があるんですね」
「知らなかったー。瀬那先生を真似して、今度からは私もそうしてもらおうかな」
笑い声とともに声をかけてきたのは、孝之と同じ国語科の佐藤響子先生と、美術のカズ先生。
カズ先生にいたっては感心してくれているように見えないこともないが、佐藤先生はどちらかというと苦笑気味でもある。
「瀬那先生って、ほんと器用ですよね。世渡り上手っていうか」
「昔からそうですよ。ああいうとこ、学生時代から変わってないんで」
「瀬尋先生は、お付き合い長いんでしょ?」
「長いというか……一応、高校時代から」
「わー、長い! え、仲良しじゃないですか」
「いやいやいや、そういうんじゃないから」
佐藤先生に意外そうな顔をされ、慌てて手を振って全力で否定しておく。
彼女とは同い年だとわかっているためか、つい口調が砕けるが、お互いさまな部分もあり気にしないでくれているようだ。
科目こそ違えど、同じ3年担当ということもあり、学食などで会うとそこそこ話もする。
というのは主に、孝之絡みで知り合ったということも大きいか。
「わーなんだか……すごい光景ですね、あれは」
「インパクト、デカすぎでしょ」
孝之の隣で、同じく日替わりランチのトレイを持っているのは、伽月先生と同じ養護教諭のもえ先生。
運よく最後の日替わりを手にしたようで、食べれなかった純也さんの視線に気づいて事情を察すると、『代わりに食べませんか?』と申し訳なさそうに申し出たことで、場の空気はさらに和んだ。
「てか、もえちゃん的にはどうなわけ? あれ。一緒にいて仕事やりづらくね?」
「もー瀬那先生。私のほうが年上だって何度言ったらわかるんですかー」
「いや、俺よりずっとか小柄なせいか、ついそこ忘れるんだよ。悪い」
まったく悪びれていない様子で孝之が肩をすくめると、もえ先生は唇を尖らせて『もー』とさらに付け足した。
「絶対悪いって思ってない顔ですねそれ。ね、カズ先生もそう思いません?」
「まあそのへん、瀬那君なら許される部分ってあるよね。ずるいけど」
「うわ、はっきり言われた。え、ずるいすか?」
「ずるいでしょー。僕が同じように“もえちゃん”って呼んだら、セクハラ扱い受けちゃうかもしれないじゃない。でも、瀬那君はそういうの取っ払ってずかずか侵入できる特権みたいなのあるから」
「ぶ! いや、俺そんなに無神経じゃないつもりなんすけど」
「無神経っていうのとは、ちょっと違うかなー。まあ、人徳ってことにしておけばいいと思うよ?」
カズ先生に話を振ったもえ先生は、今ではすっかり違う話題で佐藤先生と話していた。
なんだかんだ言って、まさしくカズ先生の言うとおりだと俺も思う。
孝之は、初対面の人間であってもやたら打ち解けるのが早い。
それは性格的な面も大きいのだろうが、運のような天性のものもあると素直に思っている。
「瀬尋先生は? お昼何にするの?」
「日替わりがないときは、大抵丼ものが多いかな。そっちは残ってること多いしね」
「丼かぁ……かつ丼、親子丼、ネギトロ丼……んー、どれもちょっと量が多い」
「ああ、ご飯の量なら減らしてくれるよ。俺は逆に増やしてもらったこともあるし」
「え、そうなの?」
「うん。意外と融通利くんだよね、そのへん」
メニュー表の下部にあった丼ラインを見ていた佐藤先生が、ぱっと顔を上げた。
心なしか、いいマメ知識を聞いたかのような表情に、思わず笑いが漏れる。
確かに、深い丼にぎゅうぎゅうと米が詰め込まれているため、残している人間もそこそこいた。
それもあって聞いてみたところ、減らせるがそれを知らない人も多いと言っており、だったらいっそメニュー表に載せるべきだと一応のアドバイスをしたのは、先週末。
さすがに、この数日ではそこまで改善されていないらしい。
「それじゃ、親子丼にしようかな」
「佐藤先生は親子丼かー。え、じゃあカズ先生は?」
「僕はざるうどんと天ぷらのセットで。もう、今日くらいの陽気になると暑くてダメなんですよー。僕、汗っかきなんで」
「えー、全然わかんないな。でも、代謝がいいってことでしょそれ」
「あはは。そう言ってもらえたら何より」
純也さんがふたりの間へ入り、同じくメニュー表を見比べる。
口の中は、すっかり日替わりになっていたであろう彼は、果たして何を選ぶのか。
……って、俺も決めなきゃな。
ぼーっと眺めてる場合じゃなかった。
「あ。じゃあ俺はこれにしよ。季節のかきあげとえび2本乗せ天丼」
「え、そんなのどこにあったんですか」
「ほら、こっちこっち。今日のおすすめだってさ」
表に載っていないメニューを口にした純也さんを見ると、看板の陰に隠れていた小さな手書きボードを指差した。
ああ、なるほど。そういう表記もあるのか。
よくある、カフェの看板のようなブラックボードに、蛍光色のマーカーで書かれているいくつかのメニュー。
今後は、そっちもチェックするべきなんだろうな、と先長い教員生活のためか、ついそんなことも考えた。
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