「うわ、美穂ちゃんが泣いてる」
「あー来たな張本人。あとでお説教」
「え、なんで俺? 俺なんもしてねーじゃん」
「した。すっごいした。反省して」
 もう彼女に涙はなかったものの、少しだけ声が潤んでいたせいか。
 はたまた、目ざとい孝之のことだ。離れた場所で、一連のことを見ていたのかもしれない。
「相変わらず厳しいよなー、美穂ちゃん。泣いてたとは思えない」
「え、倉橋先生どうしたんですか?」
「山田先生っ!? な、泣いてないですって! 全然平気大丈夫!」
 反対側に座っている、英語科の山田先生。
 同じ女性とあってか、“泣いた”という単語にすぐ反応した。
「まさか、瀬尋先生が何か……?」
「う。いや、俺は……」
 違うとも言いきれず言いよどんだのがまずかったらしい。
 眉を寄せた彼女は、それこそ“先生”の顔つきになった。
「瀬尋先生、生徒にも同僚にも優しいじゃないですか。なのに、女性を泣かせるなんて……瀬那先生じゃないんですから」
「ちょお待った。え、なんで俺? みんなして、俺の扱いひどくね?」
「だって私、この前見たんですよ? 3年3組の生徒、困らせてたでしょう。しかも階段の隅っこで」
「うっわなんでそれ知ってるかな」
「あ、やっぱり! 瀬那先生って、しょっちゅうあの子のこと叱ってません? ほら、先週の金曜日も移動教室のときにわざわざ呼び止めて、スカートの長さがうんたらかんたらって言ってたでしょう。そんなに心配なんですか?」
「いや、心配とかじゃなくて、単に気になるっつーか……まー、なんだ。全面的にアイツが悪いっていうか」
「もー、そんなふうに言ったらかわいそうですよ! あの子、確か帰国子女ですよね? 私の授業のとき、すごくきれいな発音で教科書読んでもらえるから、私にとって癒しなんです。だから、個人的にいちゃもんつけるのやめてあげてください」
「……へぇ」
「もう、瀬尋先生! どこに感心する点がありました?」
「あ、いや。すみません、つい」
 孝之が生徒を叱っている場面は、あまり見たことがない自分にとっては、意外といえば意外な話だった。
 来るもの拒まず、去るもの追わずの精神はそれこそ付き合い始めたころから一貫して変わらない。
 それは体よく言えばいろいろな言い方はできるだろうが、“頓着ナシ”なことに変わらないわけで。
 基本、コイツはそこまでこだわりがないというか、我関せずというか。
 仲良くなったヤツに関してはそれこそお節介なくらい面倒見がいいが、そこまでになるにはそこそこの時間を要するというかなんというか……まぁいいか。
「あ、それ私も見たことあるー。かわいい子ですよね、おとなしめの」
「うわ。なんでそこで、りこちゃんまで入ってくるかな」
「いいじゃないですか。だって、見たんですもん」
 くすくす笑いながらジョッキ片手に移動してきたのは、山田先生と同じく英語科のりこ先生。
 孝之が普段“にこりこ”と愛称で呼んでいるせいか、実はきちんとしたフルネームがわからない……なんて言ったら、怒られそうだな。
「瀬那先生、ああいう子のことはちゃんと気にかけてあげるんだーって意外に思ったんですよね。だから、覚えてて」
「別に気にかけてやってるワケじゃないんだって。アイツが悪いっつーか」
「アイツとか! ちょ、なんかすごくイケナイ感じしません? その言い方」
「なんでそーなる」
「だってだって、まるで生徒と先生以上の関係にあるっていうか!」
 それはそれは苦い顔をした孝之を、まったく見ていないかのように彼女がけらけらと笑った。
 若干というか、だいぶ酔っているようではあるが記憶は確からしく、『壁ドンまでしてたでしょ』などと楽しそうに続けた。
「えっと、確か……そう、ハルナちゃん。珍しいですよね、“葉月”って書いてハルナ”。今どきの名前だなーって思ったの覚えてます」
「まぁそうだろーな。俺の知ってる限り、ひとりしかいない」
「あれ、なんでそこで得意げなんですか? 怪しー」
「だから、なんでりこちゃんはそっちに繋げたがるかな。つか、好きだねーそーゆー話」
「あ、今の発言はナンセンス。なんかちょっと女性蔑視的な匂いがします」
「うわ。違うしそんなんじゃねーし。てか、急に真面目な顔すんのやめてほしーんだけど」
 ひらひらと手を振った孝之が、するりと彼女らの間を抜けて俺の隣へ座った。
 のを見て、そっと身体をずらす。
 俺を巻き込まないでくれ、頼むから。面倒なことにこれ以上なりませんように、と思ってるのに。
「あ、瀬尋先生は瀬那先生の味方なんですね?」
「まさか。コイツならどうぞ、煮るなり焼くなり」
 山田先生に指差され、肩をすくめてから手のひらで孝之を示すと、小さく舌打ちが聞こえた。
 俺に構うな。というか、逃げられると思うな。
 そんな愛想のいい顔で『勘弁してくれよ』なんて言えてるうちは、まだまだ平気だろお前。
 グラスに口づけながらちらりと孝之を見ると、軽く口の端がひくついていたが見なかったことにした。

「お前って意外と妹大事にしてるんだな」
「ぶ! お前……最近それしか言わねーよな。頭大丈夫か?」
「お前それ、売ってる?」
「売ってねーからその手下ろせ」
 握っていた、やたらとゴツい栓抜きをテーブルへ置くと、見たままどおりの固い音がした。
 あれを、撒いたと言わないでなんと言えばいいのか。
 うまく話題を逸らし、あの場にいた全員を隣のグループの話題に混ぜ込んだのは、つい今しがた。
 結局、名前こそ出たもののその関係性について孝之が明言することはなく、今に至ったから蒸し返してやった。
「確かに、かわいいし素直そうだし、お前と違って人をすぐに信じそうな子だよな」
「はァ? どのへんから、かわいくて素直なんてセリフ出てくんだ。つか、お前はいつから年下にンな高評価下すようになった」
 つい今しがたまでの、営業孝之はナリをひそめ、すっかり地が出まくりもいいところ。
 職場が、こういう顔を知らない人間ばかりなのは、コイツがいかに普段見えないチカラを発揮しまくっているのか思い知る。
「全然かわいくねーし、言うことデケェくせにやることやんねーし、最悪だぞアイツ。今朝だって遅刻しそうになって、バス停までダッシュしてたしな」
「一緒に来ないのか?」
「たりめーだろ、馬鹿か! なんで俺がンな過保護してやんなきゃなんねーんだよ。テメーが悪いんだから俺が手を貸すワケねーだろ」
 あー、だいぶお前目が据わってるよ?
 気づいているのかいないのか、そういえばコイツは酔いが深くなると人に絡みだすタチだった。
 普段は優人がいるから押し付けて帰るんだが、今日は不在。
 となるとさすがに純也さんへ頼むわけにもいかず、俺が引き取るってことか。
 ……しまったな。声かけるんじゃなかった。
 ついうっかり、目の前で純也さんが誘うのを止め忘れていた、夕方の自分に教えてやりたい。
「たいして勉強もしてねーのにテストが悪かったって、ンなのったりめーだろ? なのにぐちぐち文句言うわ、エラそうに俺に説教タレるわ、最悪だアイツ」
「でも、スカートの丈を心配して叱ってやるんだろ?」
「してねーよ!」
「いや、さっきその話になったろうが。お前もう酔ってんの?」
「酔ってねーし!」
 ああ、完全に酔ってるねお前。
 壁へもたれた孝之は、完全に目を閉じていた。
 というか、いくらなんでもここで寝られたら敵わない。
 帰りの手段はバスかタクシーなわけで……というか、お前の家はバス停からそこそこあるだろうが。
 となると、タクシーしかないな。お前の財布で払わせてもらうけど。
「……ん?」
 ブブ、と震えた手元を見ると、孝之が置いたのかはたまた落ちたのかはわからないが、携帯があった。
 もちろん、俺のではなくコイツの。
 カバーなどつけられていない素の液晶には、つい今しがた口にした名前がくっきりと表示されていた。
「もしもし」
 興味本位半分、てところか。
 今の孝之を出させたところで応答などしないだろうから、とふんでの判断だったが、向こうが明らかに戸惑ったのがわかり、慌てて訂正を入れる。
「ごめん、一緒に飲んでるんだけど、孝之酔いつぶれて。ほぼ寝ちゃってるんだ」
『えっと……もしかして、瀬尋先生ですか?』
「うん。何か聞いてる?」
『はい。一度帰宅したときに、瀬尋先生と一緒だとお聞きしたので。……すみません、ご迷惑かけていませんか?』
「迷惑ってほどでもないかな。まだ平気」
 相変わらず律儀というか、丁寧というか。
 とてもじゃないが、すぐここでデカい口を開けて寝始めたヤツの妹とはとてもじゃないが思えない。
 しかも、飲み会だと知ったうえで電話してきたということは、間違いなくコイツを心配してのこと。
 きっと彼女も、コイツがそこまで酒に強くないことを知っているんだろう。
「帰りは、俺が家まで送るから大丈夫だよ」
『すみません、やっぱりご迷惑おかけしてますね』
「いや、大丈夫。慣れてるから」
 昼間見た彼女から、今の表情がわかるような気さえする。
 きっと、申し訳なさそうにしてるんだろう。
 もしかしたら、電話の向こうでぺこぺこと頭を下げてさえいるかもしれない。
『たーくんには、明日の朝改めて瀬尋先生にお世話になったことを伝えますね』
「……え?」
 今、まったくもって予想しなかったというか、聞いたことがないというか、それでいてものすごい重大な秘密を握ってしまったような気になった。
 相変わらず、まったく起きる気配のない孝之を、再度見つめてみる。
 コイツは知らない。
 俺がコイツの携帯に出ていることを。
 そして――とんでもない機密情報を得てしまったことも。
「今、なんて言った?」
『えっと……改めて、瀬尋先生に……』
「ああ、そこじゃなくて。葉月ちゃん、コイツのこと普段なんて呼んでるの?」
『え?』
 一瞬の、まさに一瞬のできごとだった。
 カッと目を開けたかと思いきや、ものすごい勢いで俺から携帯を取り上げ、ガッラガラの声ながらも、必死になんでもない”を連呼した孝之は、すぐに通話を終えた。
 が、時すでに遅いことも察知してはいるんだろう。
 俺に向けたままだった背中が、すべて物語っているようにさえ感じる。
「ッ……ンだよ」
「お前、相当かわいがってるじゃないか。やっぱりツンデレだな」
「はっ倒すぞ」
「まあそう言うなよ。というか、もう少し詳しく聞かせてもらいたいっていうか、正直興味が湧いた」
 コイツがここまで慌てるなんて、尋常じゃないレベル。
 というか、まさかあんな反応するとはね。
 ついつい口角が上がるのも無理はないだろう。
 あの、瀬那孝之の弱みを握ってしまったんだから。

『たーくんのことですか?』

 ばっちりと耳に残っている、かわいい声のかわいい呼び名。
 さっきまで妹がどうのと言ってたヤツとは、とてもじゃないがダブらない。
 ああなるほど。人前ではけなすけど、家ではよっぽどかわいがってるんだなお前。
 いい兄貴じゃないか。見た目と噂以上に。
「で? たーくんは葉月ちゃんのことなんて呼んでるんだ?」
「……お前、触れちゃいけないトコ触れてる自覚ある?」
「敢えてそうしてるってわかんないのか?」
「…………最悪だお前。っとに明日覚えてろ。てか酔い醒めた完全に。っくそ……葉月から電話来るとか聞いてねぇ」
 人間、本当に理性でどうとでもなる生き物なんだな。
 あれだけ酔っぱらって、絶対起きないと思っていたのに、まさかたったひとことで正気を取り戻すとは。
 だがまあ、彼女こそ確実なトリガーであると証明はされた。
 今後の、恐らく長い付き合いの中では確実に生かされるだろう。
「知らなかったよ、お前があんなかわいい妹に、家の中でかわいく呼ばれてるって」
「はァ? ああ呼ぶのは葉月だけだ。アイツがするわけねーだろ気色悪い」
「……何? お前酔ってんの?」
「酔ってんのはお前だろ! なんでアイツにも呼ばれなきゃなんねーんだよ! 葉月しかいねぇっつの。馬鹿か!」
 いつの間にかもらったらしい、グラス一杯の水をガッと飲みほしたあとで、孝之がそれはそれは嫌そうな顔をした。
 意味がわからない。
 が、どうやらそれは孝之も同じようで、額に手を当てると『頭いてぇ』と目を閉じた。
「いや、ちょっと待て。だから、葉月ちゃんはお前のことたーくん”って呼ぶんだろ?」
「しょーがねーだろ、小せぇころからそうやって呼んできたんだからよ」
「じゃあやっぱり、かわいく呼ばれてるんじゃないか」
「……はァ? 何言ってんだお前。ワケわかんねーし」
「いやだから、お前がワケわかんないんだよ」
 だいぶこんがらがってきた。
 もしかして、俺が酔ってるのか?
 同じことを言っている気がするものの、全然違うようにも感じる。
 ……どういうことだ。というか、何がどうして今ここに至っている。
 なんだかもう、ワケがわからなくなってきた。
「葉月ちゃんと仲いいんだろ?」
「まぁ悪かねーだろよ」
「心配なんだよな?」
「しょーがねーだろ、ひとりでフラフラ行こうとすンから」
「それで、叱りつけた……のは合ってるよな?」
「は? ……ああ、さっきのアレか。叱ったっつか、単にスカートが短けぇって注意してやっただけだ」
 ひとつずつ整理していこう、と勝手に思って勝手に実行する。
 さっきまで話の中心になっていた、孝之が3組の生徒にちょっかいだしてる”というのはおそらく、これ。
 だが、コイツはなぜかいろいろと否定してもいた。
 それは何に対して――だったか?
「だから、そうやって学内でも面倒みてやってるから、妹と仲がいいって言ってるんだよ俺は」
「はあァ? だから、なんでそれがアイツと仲いいことになんだっつの」
「いや、十分仲いいだろ? たーくん呼ばわりされて」
「はー……だからお前何回言わすよ。俺をそう呼ぶのは葉月だけ――……あ。わかった」
 こめかみに指を当てた孝之が、ふっと顔を上げた。
 それはこれまでともまた違う表情で、ひとりで勝手に『ああなるほど。納得した』とまで言いだしており、若干どころかものすごく置いてきぼり感が漂うからこそ、腹立たしくもあった。
「なんだよ」
「お前、葉月のこと妹だと思ってるだろ」
「……は? そうだろ?」
「やっぱりソコか。どーりで話が噛みあわねーと思ったよ」
 ずい、と目の前に人差し指を向けられ、反射で叩き払う。
 昔からコイツのクセだとわかってはいるが、イラっとすることに変わりはないわけで。
 むしろ、こんなにいかにも『わかった』と上から目線な態度を取られているときは、死ぬほど腹が立つ。

「葉月は俺の従妹。うちの馬鹿な妹は、同じ3年の瀬那”でも瀬那羽織”だ」

 ひとしきり笑ったあと、孝之はそう言ってまた『どーりで』と口にした。


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