「ーーだから、黒だっつってんだろ」
 いつもより遅い時間というよりは、春休みのほぼ定刻となった10時少し過ぎ。
 顔を洗ってからリビングへ行こうとしたら、お兄ちゃんの声が階段のほうから聞こえてきた。
 と同時に聞こえるのは、複数っぽい足音。
「でもお前、この間白の86見て『白もいいよな』って言ってたじゃないか」
「言ったか? でもま、やっぱ乗るなら黒だろ。せっかくの後継機、ナンバーもベタに86にしてもいいけど、黒だな。黒」
 ひとことだけ聞こえた、お兄ちゃんとは違う声に一瞬どきりとした。
 女子校ということもあってか、男の人と接するのは先生くらい。
 でも、そういえばお兄ちゃんくらいの若い先生って、すごく少ないんだよね。
 もしかしたら、そのせいかもしれない。
 そういえばお兄ちゃん、普段家に友達とかほとんど連れてこないし。
 来るとしても、従兄弟の優くんくらいだもんなぁ。
「あら、あんた今起きたの?」
「おはよ」
「おはよじゃないわよ。何時だと思ってるの、まったく」
 どこかへ出かけようとしていたらしき、お母さんがため息をついた。
 ダイニングのテーブルには、朝ごはんだったとおぼしき、フレンチトーストのお皿。
 いつものように、適当を彷彿とする姿そのもので、どーんとお皿にカットされないままの食パンフレンチトーストが乗っている。
「お客さん?」
「ああ、祐恭君でしょ。律儀にお土産持ってきてくれたのよ。おいしかったわよー、あれ」
 ああ、なるほど。祐恭君という名前は、家でもよく聞くことはある。
 お兄ちゃんの高校時代からの友達で、お父さんの教え子らしい。
 でも、顔を見たことはないから、どんな人なのかは実は知らない。
 お母さんが言うには、お兄ちゃんが高校時代には会ってるはずよって言われたけど、うーん、どうかなぁ。覚えてないんだよね。
 だって、お兄ちゃんが高校生のころってことは、私は小学生なわけで。
 そんな昔のことを覚えていられるほど、実は記憶力に自信がない。
「明日から3年生でしょ? 受験よ? 受験。もうちょっときちっとした生活リズムにしとかないと、あとあとつらいわよ?」
「う。わかってるもん」
「わかってない顔でしょ、それは」
「もぅ、お母さん朝から厳しい」
「朝じゃないでしょうが」
 うぅ……それはそうなんだけど、だからってちょっと言い過ぎだと思うよ?  キッチンの冷蔵庫前へ逃げるように移動して、昨日買ってもらったレモンティーのペットボトルを取り出す。
 この色、元気でるんだよね。
 すでに日が高くなっているせいか、日差しを受けてきらりと光る。
「お母さん、出かけるんじゃないの?」
「あ、そうだったわ。今日、昼過ぎから天気悪くなるって言ってたから、洗濯物取り込んでおいてちょうだい」
「えぇ!? 私も、絵里と出かける約束……」
「いーじゃないの。もうとっくに乾いてるから、行く前に取り込みなさい」
「だったらお母さんがーー」
「つべこべ言わない。暇なんだから」
「うぅ……はっきりと……」
 ずびし、とお兄ちゃんがやるみたいに人差し指を向けられ、ぐさりと心にダメージを負う。
 暇っていうけど、休みの日に暇なのは、お兄ちゃんもお母さんもひょっとしたらお父さんもじゃないの?
 すでに姿が見えないけれど、お父さんはお父さんできっと休日を満喫してるはず。多分。わかんないけど。
「で? 絵里ちゃんとどこ行くの?」
「え? モールとカラオケだよ?」
「………………」
「う、お、お母さんっ! 早く出かけないと、雨降るって!」
「……あんた、ほんとに……」
「あ! あー、私、夕飯いらないと思うから、気にしないでゆっくりしてきてねっ!」
「お風呂洗っておきなさいね」
「喜んでやっておきます」
 一瞬『え!』と言いかけたけれど、飲み込んでこくこくとうなずく。
 冷ややかな眼差しは、寝起きにはつらい。
 うぅ、でもだって、春休み最終日なんだもん。
 今年の春休みはまさかの宿題が出て、ひーひー言いながら今まで(というか正確には夜中まで)やってたんだもん、許してほしい。
 まだまだ女子高生、楽しいことはしておきたい。
 ……ううん。
 今年が、最後の女子高生だもん。
 楽しいこと、めいっぱい経験して、次のステップへ進みたいと思うのは自然じゃないのかな。
「まったく。彼氏の一人でもいれば、さらに青春謳歌できるでしょーけどね」
「ごほ! お、おかあさっ……ごほごほ!」
 レモンティーを飲んだ瞬間ため息をつかれ、気管に入ったせいで大きく咳き込む。
 知ってるよ? そりゃあ、お母さんが何歳でお父さんと付き合ったのかってことは。
 そしてそして、まさかの私と同じ学校が母校で、当時出会ったことは。
 でも、若い先生なんていないし、いたとしても恋愛対象になるわけがない。
 そりゃあーー絵里の場合は別だけど。
 えへへ。仲いいんだよね、絵里。
 みんなには内緒だけど、絵里の彼氏さんは特別な人。
 私も何年もーーと言ったら言い過ぎだけど、2年ほど前からお世話になってる方だ。
 とっても優しくて、明るくて、ユーモアもあって、そしてそして炊事洗濯裁縫までこなすエリート。
 『アイツがなんでもかんでもやるから、私の出番がないだけよ』と絵里はよく言うけれど、そうじゃないことも知ってる。
「ま、いい出会いがあるといいわね。せめてこの最終学年くらいは」
「それは……私だって、あったらいいなとは思うけど」
「それじゃ努力しなさいね。寝癖ついてるような子じゃ、誰も振り返ってくれないわよ」
「え!? うそ!」
「うそ。それじゃ、行ってきまーす」
「っ……もぅ、お母さん!」
 さっき洗面所で確認したはずなのに、と慌てたのがよほどおかしかったらしい。
 けらけらと笑ったお母さんは、肩をすくめると玄関へ向かった。
 もぅ、みんなで私をからかわなくてもいいのに。
 おかしいなぁ。
 私、別にそういうキャラじゃないはずなんだけど。
「……3年生かぁ」
 ちょっぴり冷たいフレンチトーストを食べながら、カレンダーに目がいく。
 今年で最後。
 1年後の今日、私はどこで何をしているんだろう。
 周りの子たちが進学するというのもあって、大学へ行こうとは思っている。
 学部は教育学部。
 でも理由は何かと言われると、小学5、6年生のときの担任の先生がすっごく面白い人で、楽しかったからというシンプルなものが理由。
 私も、小学生と一緒に遊びたい。
 って言ったら、違うって怒られちゃいそうだけど。
 でも、大きな影響を受けたといえばそれで。
 お父さんが高校の先生だからとか、お母さんが保育士さんだからとか、お兄ちゃんが中学の先生を目指してたからとか、理由を考えようとすればたくさんある んだろうけれど、これ! というものは正直ないまま。
 ただ、幸いなことに我が家には教育関係者が多くいる。
 その点は、メリットもデメリットも聞くことができるって意味では、恵まれた環境なんだろうけれど。
 そういえば、お兄ちゃんが先生をやめて司書さんになったのは、なんでなんだろう。
「………………」
 中学生だった当時、まさかの教育実習でこられたときは、なんで私のクラスなのかと心底先生方を恨んだ。
 あからさまに馬鹿にされた私は、かわいそうだと思う。
 絵里は散々、『やー、孝之さんの授業受けられるだけじゃなくて、あの顔見てられるとかホント最高ね』って言ってたけど、私には試練というかある意味いじめでしかなかった。
「……ん?」
 物音がしたと思ったら、階段を降りてくる音が聞こえ始めた。
 話し声もするから、どうやらお兄ちゃんが降りてきたらしい。
 えっと……あと、お兄ちゃんのお友達も。
「え?」
「お前、今起きたのか? あいっかわらず暇だな」
「む。お兄ちゃんに言われたくない」
 リビングを覗いたお兄ちゃんと目が合い、むっとして眉を寄せる。
 ていうか、お兄ちゃんこそ普段私より遅いことだってあるじゃない。
 ……てまあ確かに、最近は私のほうがよっぽど遅いみたいだけど。
「お袋は?」
「お母さんなら、出かけたよ」
「あ、そ。多分、メシ食わねーから。伝えとけ」
「えー私も絵里と出かけちゃうもん。自分で連絡すればいいでしょ?」
「ンだよ、使えねぇな。ならいい」
 あからさまに舌打ちされ、もやもやした気持ちでいっぱいになる。
 ーーけれど。
「お前、普段からそんな言葉遣いなのか?」
「あ? なんだよ。説教か? 俺に」
「説教じゃなくて、意見だろ? 年下の子相手に、そんなふうに言わなくてもいいのに」
「じゃあお前、紗那ちゃんにこーゆークチきかねーの?」
「…………」
「だろ?」
 姿は見えないけれど、どうやら私を気遣ってくれたようなセリフが聞こえ、思わぬ展開にどきりとした。
 きっと、あいさつされることはない。
 でもーーうわわ、どうしよう。今覗かれたら、まだパジャマなんですけど!
 うぅ、今日に限ってちゃんと着替えておくんだった。
 でも、慌てて手櫛で髪を直したところで、玄関の開く音が聞こえた。
 と同時に、『お邪魔しました』の声も。
「あ、はぁい」
 なんと言っていいものか、間の抜けたセリフしか出せなかった。
 うぅ。だって、『どういたしまして』も、『また来てくださいね』も、私が言うのはあってない気がするんだもん。
 お母さんはしょっちゅう言ってるセリフだし、なんなら玄関まで姿を見せて、そこでひとことふたことおしゃべりをする。
 でも、さすがにそんな関係じゃないし、どう言っていいのかわからなかった。
「…………」
 接触と言っていいほどのものじゃない。
 でも、すごくどきどきした。
 ……お兄ちゃんの友達、かぁ。
 きっと同い年だろうから、6歳年上の男の人。
 お兄ちゃんとは違う性格なんだろうけれど、イメージは湧かない。
「言い忘れた」
「わぁっ!?」
「……ンだよ」
「び、びっくりさせないでよ! 出かけたんじゃないの?」
 ぬっとリビングを覗いたお兄ちゃんに、思わぬ声が出た。
 心臓がばくばくして、すごく苦しい。
 うぅ、なんて日なの。本当に。
 でも、顔が赤くなっていたのはこれで誤魔化されたかもしれない。
「冷蔵庫に入ってるロールケーキ、勝手に食うなよ」
「ロールケーキ? え、食べていいんじゃないの?」
「話聞いてたか? お前。食うなっつってんだろ」
「でもお母さんが『おいしかった』って言ってたよ」
「ッち、アイツ……!」
 あからさまに嫌そうな顔をしたお兄ちゃんに肩をすくめ、とりあえずフレンチトーストを口へ運ぶ。
 でも、口の中はロールケーキを歓迎していて、メープルシロップはちょっと違うかなと思った。
「あ? 今行くって!」
 玄関へ顔を向けたお兄ちゃんは、それ以上なにかを言うことはなく、姿を消した。
 鍵の閉まった音のあと、ほどなくしてエンジン音が聞こえてくる。
 今度こそお出かけしたらしい。
 でも、ロールケーキかぁ。ちょっぴりなら食べても怒られないかなぁ?
 だって、お兄ちゃんが食べるとなると、ほんっっっっとうにくれないんだもん。
 そりゃあ、お兄ちゃんのお友達がくれたものなんだから、権限はお兄ちゃんにあるのかもしれないけど。
「ちょっとだけーーって、わわっ! 遅刻!!」
 立ち上がった拍子に壁時計が目に入り、絵里との約束まで30分を切ってるのに気づいた。
 うわぁ怒られる!
 待ち合わせは、近くのショッピングセンター。
 絵里の家からは近いけれど、うちからはバス停まで歩いたあと、バスを待たなければならない。
 って、今の時間バスあったよね?
 何分だっけ……って、着替えるのが先!
「っ……!」
 食べた食器を片付けて、慌てて階段へ向かう。  そのとき、一瞬だけお兄ちゃんとは違う香りがした気がして、ふいにどきりとした。

『彼氏の一人でもいればーー』

 お母さんのセリフが蘇る。
 そりゃあ、彼氏がいればきっと楽しいだろうなとも思うし、どきどきもするんだろうなとは思う。
 でも、まだ自分にはいいかなって思うのも正直なところ。
 彼氏ができたら、自分がどんなふうに変わるのかわからなくて、ちょっぴり怖い気もする。
 でも、見てみたい気もする。
 ……今年、そんなチャンスができたらいいのになぁ。
 階段の窓から空を見上げると、予想以上に青くて晴れやかな日だった。
 ちなみに、お風呂を洗わずに出かけたことに気づいたのは、バスに乗ってから。
 案の定、帰ってきたときお母さんはお風呂にお湯を張っておらず、『お母さんとお父さんは温泉行ったから。入りたかったら自分でなんとかしなさいね』と、にっこり笑った。
 

目次へ