ビルの谷間から見える猫の目のような月を見上げるのが、好きだったりする。

今までこんなにのんびりと空を見上げながら帰ったことがなかったので、気分も少しだけゆったりしてしまう。

ぼけーっとした頭で月を見上げていたら、月の光に導かれたようにとある一件のお店の前に立っていた。

どうやってここに辿り着いたのか、本人すら解らない。

ぼんやりと浮かぶブルーのライトに照らされたお店は、とてもミステリアスでどことなく興味が湧いた。

うっすらとライトに照らされたのは「Mistic Blue」の文字。

 

「……」

 

別にどうしようというわけでもなかった。

が、中から聞こえてきたピアノの音色が、私を呼び寄せていた。

 

 

Chitose−千歳−

 

 

ぱぁと開けた視界に入ってきたのは、外よりも真っ青なブルー。

まさに「Mistic Blue」の名前のような空間に、どきどきしながら店内へ足を向ける。

思わず開けてしまった扉の先には、整えられたスーツに身を包んだ男性。向こうがにっこり笑むものだから、こちらもつられて笑ってしまった。

その後は、もう流されるままに彼の丁寧なエスコートで店内の奥まで足を進めていた。

辺りを見渡すと、男女のカップリングが構成されていて、男性が綺麗な女性の肩を抱いたりして、お酒を飲んでいるようだ。

 

しまった。

 

気付いたときにはもう手遅れ。

あとは、自分が未成年だということがバレないように、体に意識を集中させることぐらいしか出来ない。緊張して強ばった体、祈るような気持ちで自分のお相手は誰だろうかと思考を巡らす。

そして、いい人だったら自分の素性をばらして、すぐに帰してもらおう。

嫌な人だったら良いようにはぐらかせばいいんだから。

と、そんなことを考えていると、聴き慣れたピアノの音色が耳に飛び込んできた。

 

「……」

「どうかしました?」

「…いえ、あの…」

 

次の言葉が喉まで出かかっていた私の意識を引き戻したのは、その直後聴こえてきた歌声だった。

細やかな低音が深海のような青い空間を、しっとりとした砂漠の夜に変えた。

この曲を知らない人なんていないんじゃないだろうか?

砂漠の国が舞台の童話。魔法のランプから出てきた精霊が三つ願いを叶えてくれる、というアレ。それを素敵な世界観でラブファンタジーに仕上げてしまったのが、有名な会社。

私も大好きで、特に魔法の絨毯でお姫様と一緒に空を飛ぶシーンが印象的だったのを思い出した。

 

「……」

 

一瞬にして雰囲気を変えてしまえる表現力を持った歌を歌う人を、私は一人しか知らない。

ざわつく心が一層騒いだ。

 

無我夢中。

無意識。

 

そんな言葉が体中を巡った気がした。

歌の途中だったのに、体が動いてしまったのはなぜだろう?

気付くと体に突き動かされてる自分がいる。

 

そういうとき、必ずそこには「彼」がいる。

 

飛ぶ鳥に意識を集中させて、私がハーモニーに加わると、彼は一瞬驚いたような瞳をした。

ふてぶてしい性格と同じような飛び方に、付いていきながら彼が弾くピアノの傍へ。

動揺、なんて言葉が彼には似合わないぐらい、どっしりと歌い上げていくので、私はただただ寄り添う事だけに意識を集中させる。メインは、彼だ。

それでも混ざり合う歌声は澄んでいて、彼の世界を壊さないようにするのに必死だった。

砂漠の夜を一緒に絨毯で飛ぶ主人公とヒロインのように、今の私たちも素敵に見えるのだろうか?

 

伴奏後も、しっとりとした空気が流れ、最後の最後まで固唾を飲んで見ていた周りの人たちから鳴り止まない拍手をもらった。

 

歌いきった後は、ただの「少し歌が上手い、高校生」だ。

しっかりとした態度でお客さんの拍手を受けている彼とは逆に、今更動揺を隠せなくなってしまい、俯いてしまう。

すると、先ほど私のエスコートをしてくれた男性が、「お上手ですね。感動しました」と賛辞を述べてくれた。

その言葉が嬉しかったので、顔を上げて「ありがとうございます」と言おうとした。

 

「下条」

 

しかし、その前に私の名前を呼ぶ人が、一人隣りに立っていた。

 

「……あ、高槻さんのお知り合いですか?」

「ああ」

「これは失礼しました。それでは今、お席をご用意しますね」

 

男性は、ぶっきらぼうに口を開いた彼に気を悪くすることなく、席確保のためにその場を離れた。

と、同時に腰に回される腕に驚いて過剰反応する、私。

 

「せ、────」

 

思わず、「先生」と声を張り上げそうになった私に、彼は「お互い、自殺行為になる発言をするのはやめよう」と囁いた。

そんなことを言われれば、私は大人しく顔を赤らめることしか出来ない。

突然触れてきた手の暖かさに、ドキドキが止まらないのは、しょうがないことだから許して欲しいな、と思う。

すると、しばらくして先ほどの男性がやってきて、「こちらへ」とお店の一番奥の個室に案内してくれた。

 

「───オーナーの雅都さんから、高槻さんへのささやかなプレゼント、だそうです」

 

最後にそれだけ言って、彼は個室から出ていった。

小さくまとめられた部屋には、やはり青い装飾品が施された、アンティークな家具に近いソファが置かれ、その前には色とりどりなデザートと軽食が用意されていた。

 

「わぁ」

 

お腹が空く、という生理的現象は自分が気付かないと起こらない、ってことを昔誰かから教わった気がするけど、本当にそうだった。

美味しそうなデザートに舌鼓を打つと、途端にお腹の虫が騒ぎ出す。

 

「…えーと…」

「ん?」

「とりあえず、座りませんか?」

「良い考えだ」

 

そう言うと、彼は私の手をいとも自然の取って、ソファへとエスコートしてくれた。

 

「お嬢さん、どうぞ」

「…あ、ありがとう…ございます…」

「と、落ち着いたところで」

「落ち着いたんですか?」

「とりあえずな」

「そうですね、とりあえず落ち着きましたね」

「それじゃ、良いか、下条」

「はい?」

 

隣りに座ってるスーツ姿の先生をにっこり見上げると、自分がどういう立場なのか忘れてしまう。

「お互い、自殺行為」にもなるというこの状態を。

 

 

「なんでおまえが、こんな店にいるんだ」

 

 

言われて、少し時間の流れを感じる。

まず浮かんできたのは、私と彼の関係。

それから?

 

「……えと、ここって、どんなお店なんですか…?」

「……」

「お酒飲んでる人がいたのは知ってるし、おっきな声でドンペリーって言ってた綺麗なおねーさんも見てるから、お酒飲むところかなーとは思うんですけど…」

「……」

「で、……スーツ」

「答えは、出てきたか?」

「えーっとぉ…」

 

今まで、世間と隔離されたような育て方はされてないし、昨今、こういう夜の職業からタレントとして芸能界に入った人間もテレビでちらほらみている。

お笑い芸人だとか、格付けとか。

だから、私の知識で知り得る「このお店」の方程式は────

 

「もしかして、ここ、ホストクラブですか?」

 

まさかのまさか、すっごいまさか。

だから、目の前の彼はきっと笑い飛ばしちゃってくれるはず。

 

「…はぁ」

 

だったのに…。

 

「なんで解らないんだ…」

 

と、私の導き出した答えを「肯定」する答え。

困った。実は、かなり内心焦ってます。

だって、彼は私の通ってる高校の先生で、私は生徒で、だからココでは彼を「先生」なんて呼んじゃいけない場所なわけであって、目の前にはごちそうが。

 

「いや、ごちそうは関係ないか」

「なに?」

「あ、いえ、こっちの話です…」

 

思わずポロッと自分に対するつっこみが出てしまったこの空気を繕い、私は目の前のデザートに目を移した。

 

「せ、……えーと」

「今度はなんだ」

「…な、なんと呼べば?」

 

固まった笑顔のまま、緊張に口が歪む。

すると、一瞬、間が空いてから先生─彼─が、笑う。

 

「…好きなように呼んでみれば良いじゃないか?」

「す、好きなように、って…?」

「つっきーとか」

「それは、先輩達が呼んでるじゃないですか」

「それが嫌なら、名前で呼べば良いだろ」

「名前、です、か…」

「なんだよ。恋人同士だろ? 別に良いんじゃないのか?」

「そ、それは、そう、なんですけど…」

「抵抗ある?」

「…すこ、し…」

「ふーん?」

「あ、あああああああの!」

「ん?」

 

 

「ど、どうしてそんなに近いんですか?」

 

 

「なにが?」

「顔!!」

 

こちらに近寄ってくる先生に顔を真っ赤にしたまま逃げていたら、ソファの端まで来てしまった。逃げ道は、ない。

少しだけ斜めにされた私の体の上には、背もたれに片腕を乗せて、意地悪な笑みを向けながら覆い被さるように、先生がいる。

 

「キスしてる仲なんだから、別に良いじゃないか」

「よ、良くありません!」

「そうか、下条は俺とのキスが嫌いか?」

「き、嫌いとはそういうのではなくて、少なからずここはお店の店内でして…」

「じゃあ俺が接待してやるよ」

「あの、でもそれはなんだかもったいない、というか、なんというか…」

「なに動揺してるんだ」

「だ、だって私…、先生にそんなに見つめられると恥ずかしくて死んじゃいます!」

 

一瞬だけ止まった「時」。

そらしていた視線を先生に戻すと、先生はとても嬉しそうに私の顎を捕らえた。

 

 

 

「だったら死ねば良い。おまえは俺のモノなんだよ、真琴─────」

 

 

 

初めて呟かれた名前は、甘いキスと一緒に私の中に溶けて消えた。

 

「次は千歳、って呼ばせるからな?」

 

ぼーっとした頭に響いたのは、先生からの挑戦状で。

私はこれから先、この「秘密の関係」の中で彼に殺されてしまうんじゃないかと思いました。



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