「ハートの女王」、もとい、暁稔という私の愛しい恋人は、満足そうに隣りに座っていた。
縋るように稔のスーツをがしっと掴みながら見上げると、ヤツは相変わらず余裕な笑みでこちらを見下ろしていた。
私の返答なんて解ってるくせに、わざと私が好きな「稔の顔」をする。
そんな顔されるとどうしても素直になってしまうのを、知っててするんだ、この稔という男は。
ささやかな抵抗の意味も込めて、顔を背けて小さな声で呟いてやると、背後で「そっか」と嬉しそうな稔の声が聞こえた。
本当は文句でも言ってやろうと思った。なにも言わずにドレスと靴とバックだけ郵送してきて、手紙も入ってなければなんにもない。ただ、メッセージカードに今日の日付と時間だけ書かれてただけ。そんな不親切な誘い方があるかー!…と、連日連夜この怒りを愚兄にぶつけていたのだが、その怒りが、鎖が、たったこれだけの事で音を立てて解かれた。
虚空を眺めながらぼんやりと呟いた稔は、かくれんぼで最後まで見つけられなかった子供のように淋しそうで、存在が儚く見えた。
先ほどまで、大きな存在感を誇示していた稔が、一瞬儚く見えてスーツを握ったが、それは一瞬の出来事で、今では相変わらず自分の存在感を誇示していた。
と、思いながらもやっぱり握っているスーツだけは放せなくて、なんとなく無言。
それから会話という会話がなくて、稔や私にしては珍しくなにも話さない時間が多かった。
確かに今私は高校生だし、稔は社会的地位もあってお金もあって「大人」だけど、私は稔の彼女であって、稔は私の彼氏なんだか、「保護者」だの「未成年」だのって関係じゃないはずだ。
冷静に考えれば、それも私たちに当てはまる一つの関係性だけれど、今、ここで思い知らされるのは嫌だった。この空間が、二人の「恋人同士」という赤い糸を断ち切ってしまう空間なんて、いらない。
私はふかふかのソファから立ち上がって、すぐに稔の腕を持って「行こう」と促した。
「おい、おまえ俺の立場解ってるか? 今日、尋未ちゃん来てて雅都だっていなくなる…」
「そんなの関係ないっ。私は、…今すぐにでもここを出たい…、出たいの…」
こんな子供みたいなわがままで、彼の仕事の邪魔をしてる。
解ってるけど、急に突き出された「保護者」の烙印が嫌だった。
駄目だ、って解ってるけど、私は「稔の彼女」でありたいと強く願っていた。
背伸びしても、頑張っても、やっぱり私は高校生なんだ。
一生彼の傍にいるために猛勉強して、いろいろなことを我慢して頑張ってるのに、その影の頑張りをこんなことで、自分に踏みにじられた気がして悔しい。
涙で滲みだしたマスカラや、溶けだしたファンデーションで、ぼろぼろになってるのに真っ白なYシャツに私の顔を押しつけて涙を吸わせる。
稔が私を抱きしめながら、大きくため息をついたのが聞こえると同時に、体が浮遊感に襲われた。
そう言うなり、私を抱えて個室から出ると一番近くにいたスタッフの男性に「悪い、後は任せた」とだけ言うと、裏口から外に出た。
そこには稔の愛車である黒いBMWが厳かに主の帰還を待っていた。
手早く助手席に私を乗せ、ドアを閉めると後ろから聞き慣れた声が二つ聞こえてきた。バックミラー越しに伺えるのは、綺麗な尋未とその手を引いている雅都さんの姿。二人ともなんだか妙な雰囲気だったので、少し心配になったけど気付いたら車が出てしまった後。
その後の二人は、二人に任せて、とりあえず運転席にいる王様に謝るために口を開いた。
「謝ったりなんかしたら、このまま車の中で犯るからな」
「……真姫の気持ち考えれば解ることだったのに、…軽い気持ちで保護者、なんて言ったのが悪い」
前を見ながら、ギアチェンジをする稔の姿は格好良くて、運転している姿に体がじんわり熱くなった。
相手が誰だろうが自分の非は認めて、謝る事ができる。
ぽつり、車内で呟く言葉は、いくら小さくてもその声を拾ってちゃんと相手に届けてくれる。
青い幻想的な世界よりも、ちゃんと気持ちが届く小さな車の中が丁度良いみたい。
口調はぶっきらぼうだけど、なんとなく照れてるのかな?
その手は優しく私の腰を抱いて、ドアを開けて中に入った。
二人して靴を脱ぐと、彼が先に部屋の中に入って電気を付ける。
吹き抜けのキッチンからは、リビングの様子が丸見えだから彼が今、なにをしているのかが伺えた。
稔は、忌々しげにスーツをソファに脱ぎ捨てると両手で少し伸びた前髪を掻き上げる。
仕草一つ一つに対して、丁寧に私の心臓はときめいてくれて嫌になる。
頭のてっぺんから、つま先まで、涙の一滴までもが全部稔のものだと思わせてしまう。
慌てて笑顔を取り繕うと、稔は呆れたように後ろのやかんを指さした。
それからゆっくりと後ろを振り返り、慌ただしく汽笛を上げるやかんの火を止めた。
手早くポットにお湯を注ぎ込むと、稔がリビングから私を呼んだ。
ぱたぱたとフローリングの上を歩きながら、どっかりとソファに腰を下ろしてる稔の隣りに腰掛けた。
再度聞き返してきた私に、稔は尚も拗ねた口調で私の顔を覗き込んだ。
そう続けると、顎をすくい上げながら稔は私の瞳を覗き込んだ。
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